元勇者・斎藤さんのバレンタイン・マリアージュ
家に帰ってすぐ、着替える間もなくインターフォンが鳴らされた。
時計を見上げる。夜もとっぷりと深まった深夜だ。花の金曜日にはしゃぐ気力は最早ない。そんなタイミングで来客と言うのは妙だった。
「こんな時間になんだ? ――ああ、また来てるのか」
疑念は一転、納得して玄関に向かいドアを開ける。
「やあ兵頭くん」
そう言って、アメジストのような瞳を細める女性がひとり。
紫がかった深い色の髪は絹のようになめらかで、セミショートの髪先が首をくすぐっている。
ラフすぎるタンクトップに豊かな胸元を覗かせて、ショートパンツから長い脚が伸びていた。この冬に足は裸足でビーチサンダルだ。
頭のてっぺんからつま先まで、完全に油断しきった姿。
「こんばんは。斎藤さん、こっちに来てたのか」
「ああ。やっとごたごたが片付いてきて、先ほどね。一本やろうとしたところで君んちの電気がついたから。よければ一緒にどうだい?」
片手にはプルタブの開いた発泡酒、もう片手にはまだ開いていない缶を持って、肘に提げたスーパーのビニール袋はつまみと缶チューハイで膨らんでいる。
笑ってしまいながら、体を半身に空けて家に通す。
「奢ってくれるなら喜んで」
「もちろん。きみと呑めるなら酒くらい喜んで出すさ」
斎藤さんは笑ってビーチサンダルを脱ぎ、立てかけてあるスリッパをつま先で器用に履く。慣れた足取りで真っ直ぐリビングに向かっていった。
細い足首も、くすみ一つない膝の裏も、隠す気配はまったくない。
「それとも」
ふと足を止めた斎藤さんは肩越しに振り返って、缶の端をくわえた。
「鑑賞代だけで足りていたかな?」
「……まあ、わりと」
ふふ、と斎藤さんは口の端を魅力的に緩める。
彼女がわざわざ長い素足を隠さないのは、ラフな恰好でいたいという理由だけじゃない。
「どうあれ、きみには私の世界の事情で迷惑をかけたんだ。ちょっとくらいサービスしてあげるよ」
「斎藤さんも罠にかけられた側だろ。それに俺は、一日泊めて、以後の生活資金を貸しただけだ」
「…………」
俺がそう言うと、斎藤さんが表情を消して俺を眺めた。
推し量るようなその目はどこか責めているようで、顔を背けてしまう。
「……命を助ける手伝いになったらしい。けど、それは成り行きだ」
「恩を笠に着ないのはきみの自由だ」
斎藤さんはさっさとリビングに消えていく。
俺も追いかけてリビングに入り、エアコンの電源を入れた。ちゃぶ台に颯爽とあぐらをかく斎藤さんの伸びやかな太ももと膝頭に呆れる。
「寒くないか?」
「愚問だな。私は凍土も高山も着の身着のまま駆け抜けた勇者だぞ? 冬の寒さなど物の数ではないさ」
チーかまの封を切りながら斎藤さんは応じた。勇者様の威厳はまったくない。
ぺりぺりとビニールを剥きながら花弁のような唇を尖らせる。
「年がら年中フル装備の鎧甲冑で世界中を駆けずり回って、ようやく魔王を倒したんだ。よその世界で過ごす隠居生活ぐらい、身軽な姿でいさせてくれ」
「まー好きにしたらいいと思いますよ」
「きみにも得だからな」
「にしても、斎藤さんってお金どうしてるんだ? これ駅前のスーパーだよな」
悪戯っぽい微笑から目と話を逸らして、ちゃぶ台に乗せられたビニール袋を広げる。
生ハムや柿ピー、ホルモンのパウチに、焼き鳥の缶詰まである。独身の宅呑みには上等なひと揃え。この金はどこから出ているのだろう。
発泡酒をちびりと舐めた斎藤さんがすまし顔で言う。
「金はどの世界も共通だからな。換金が怪しまれるようになれば、また別の手口を考えるさ」
「密輸……」
異世界からの密輸だった。
「これでも慎ましやかなものだぞ? 魔王城の宝物庫を接収した私の総資産は相当だ。国に貸与したぶんの利子だけでもかなりある。私が本気出して金銀財宝を持ち込んだら、世界経済が混乱するだろうな」
「あやかりてーなぁ」
「存分にあやかってくれ」
と言って、斎藤さんは俺にチーかまを差し出した。
「安い」
「悪銭身に付かず、と日本では言うんだろう?」
悪戯っぽい微笑は本当に楽しそうだ。
命懸けで世界を救った報酬として、慎ましいのは間違いない。
「そういえば、兵頭くん」
スーパーのビニール袋をまさぐって、空になったゴミしか入っていないのに眉尻を下げる斎藤さんがおもむろに言った。
「バレンタインってなんだ?」
訊ねられて、酒の肴をストックしてある戸棚に伸ばした手が止まる。
振り返った斎藤さんは特に気にする気配もなく、新たに缶チューハイを開けていた。
「スーパーで棚が設けられていてね。やたらチョコレートを推していたが、二も十四もバレンタインも、チョコレートに掛かってないじゃないか。どういう関わりがあるのか気になってね」
「肉の日じゃないんだから、語呂合わせばかりじゃないぞ」
思わず苦笑して、棚を開ける。
ずいぶん前から入れっぱなしになっているお徳用チョコレートアソートから目を逸らして、裂きイカとジャーキーを取り出した。
「バレンタインデーっていう海外の習慣が日本で変化したものでさ。仲のいい人で一緒にチョコレートを食べる日ってとこ。お菓子会社の営業戦略だけど」
「ふうん? 妙な日もあったものだね。ありがとう」
受け取った裂きイカを開けて早速口に運ぶ。完全に宅呑みが染みついた女性という風情だった。
「斎藤さんはチョコレート食べたことある?」
「もちろんだ。スーパーのお菓子コーナーはあらかた制覇した。チョコレート菓子は確かに多かったが、あんな四六時中並ぶほどいいものかな? 甘ったるいし粘つくし、風味が独特だ」
「チョコレートの風味を独特って言う人は初めて見たな」
言いながら勇者様を窺う。
自然な説明ができたと思う。内容も間違いではない。
こんな無防備な美女に、知らぬを幸いに吹き込んでチョコを贈られたりしたら、そのときは嬉しいだろう。幸せだろう。
だが後が問題だ。事実を知った彼女が、そこまでして手に入れたがる俺をどんな目で見るか。
まして、正直に日本における認識を伝えるなどもってのほかだ。それで貰えなかったりした日には、二度と彼女と相対できない気がする。
なにも知らなかったこととして、飲み友達を続けた方が健全だ。
「兵頭くんは」
どきりとする。
斎藤さんが紫水晶の瞳をちろりと俺に向けた。吸い込まれるような色の深さ。艶のある唇が震える。
「チョコレート、好きかな?」
「――す、」
まっすぐ顔を見られない。
「好き、かな……。甘いものは、全体的に」
「ふふ。そうか、なかなか子ども舌だね」
やばいと思ったときには手遅れだ。
出た言葉は取り戻せず、斎藤さんは正しく「俺はチョコレートが好き」という情報を耳に入れている。
余計なことを言った口を呪いながら、俺はもう一度戸棚に手を伸ばした。入れっぱなしになっていたチョコレートアソートの大袋を引っ張り出してちゃぶ台に乗せる。
「ひとりでポリポリ食ってるくらいには好きだ。よければ斎藤さんもどうぞ」
「そりゃどうも。じゃ、一個だけもらおうかな」
斎藤さんは細い指で個包装を剥き、ビターチョコレートを柔らかな唇に押し込む。
俺も食べようかな。ミルクチョコレートを取ったところで、
「ふうん」
斎藤さんを見た。
彼女は何事もなかったかのように缶チューハイを傾けている。たまたま目についた、という無表情でカレンダーを眺めていた。
二月十四日は、あいにくの平日。
だからまあ、俺には縁のない話のはずだ。
それから数日。
斎藤さんはまた異世界に帰っていったようで、お隣さんは留守だった。
魔王を討伐した大勇者なだけあって未だに細々と用事があるらしい。アドバイザーみたいなもの、とは斎藤さんの弁。
俺も俺で、たとえ勇者と接触があったとしても所詮はお隣さん。自分の暮らしのため満員電車に日参して勤労に勤しまなければならない。
寝て起きて仕事して飯食って寝る。
そんな生活も苦じゃなくなったのは、紛れもなく斎藤さんのお陰だ。
彼女と呑む日があるから、なんだか色んなことに張りを持てるような気がする。彼女がいないときが休肝日となったので、すこぶる体調もいい。
目の保養はこうも大切なのか、と目から鱗が落ちる思いである。
「これ、女子社員一同からです」
「はいどうも。ありがとう」
会釈する女子社員から受け取った箱を見て、ほうとため息が漏れる。
職場では相変わらず義理チョコ文化が盛んだ。
最近はサバサバした女性が仕切っているお陰で、被らないよう気を付けてーみたいな話がなくなり、昼休みに近所のスーパーで買ってきたチョコレートをポイっと贈られるようになった。
これはずいぶんといい話だと思う。女子社員も気疲れから解放されて、女性同士のチョコレート交換が楽しそうだ。
禿げた課長に同じ箱を渡す女性の背中を見て、また手元に目を落とす。モナリガのお徳用チョコレート菓子詰め合わせセット。なぜかブラウンサンダーがひとつ別で添えられている。
どこからどう見ても義理。
いや、今さらいい歳こいて、べつになにが悪いと言うつもりもないけれど。
「しばらく買い足さなくていいからありがたい」
それはそれとして、お返しを支度しなければならないのは、やはり億劫なのだった。
帰路をなんとか乗り越える。
自宅のドアまでたどり着いて、窓から明かりが漏れていることに気が付いた。
「電気切り忘れたか?」
訝りながら鍵をひねり、ドアを開ける。
玄関にビーチサンダルが揃えて置いてあった。
視線を廊下に伝わせて、リビングに目を向ける。明かりがついたリビングの扉から、床に座ったまま背を逸らすように顔を覗かせた美女。アメジストの瞳が薄く微笑む。
「おかえり。兵頭くん」
斎藤さんが迎えてくれた。
乱れかけた心拍を落ち着かせながら靴を脱ぐ。
「斎藤さん。カギは」
「きみと私の仲じゃないか。アンロックの魔法くらい許してくれるだろう?」
「そりゃ怒りはしないけど。でもどうかと思うよ?」
小言をこぼしながらも、少し驚く。斎藤さんが勝手に人の家に上がり込むなんて珍しい。
「私も勇者だからね。人の家にあがって家探しするくらいは当然さ」
「それおかしいって自分で言ってたよね?」
彼女にRPGを貸したのは俺だ。
見れば彼女はすでに出来上がっていた。首も肩も赤らんで、タンクトップの薄着でも寒そうではない。リビングに入ってみると、もう缶チューハイが三本も空いて転がっている。
「斎藤さんなにかあった? こんなふうに飲み散らかすなんて珍しい」
「なにか……か。まあ、あったといえばあったし、これからとも言える」
斎藤さんは赤らんだ顔で口を尖らせた。
やはりなにかあったらしい。
「俺で良ければ話を聞くよ。ちょっと待ってね」
鞄を置いてジャケットを脱ぎながら、冷蔵庫の中身を思い出す。冷凍の豚肉があったはずだ。
へこんだときは、お腹いっぱい食べるのがいい。
勇者様の胃袋容量が懸案事項だが、そこはまあ、適宜買い足せばなんとかなるだろう。他の付け合わせを見てメニューを決めよう。なにもなければ焼肉だ。
「そんなことより兵頭くん。きみ、いつもこんなに遅いのか」
「だいたいね。デカい会社じゃないんだ。ちょっと忙しいくらいでちょうどいい」
冷凍庫から豚肉、野菜室からニンジン玉ねぎほうれん草を取り出す。あと、冷蔵庫になにがあったかな。
「夕飯を先に作ってもいいかな」
「ああ、構わな……ちょ痛、待っ!」
がたがたっと壮絶な音。
斎藤さんは神懸かり的な反射神経で、倒れる寸前の缶チューハイを拾い上げて液漏れを防ぐ。ちゃぶ台の足に打った脛を押さえて、彼女は俺を振り仰いだ。
「待つんだ兵頭くん!」
「……えーと」
止めようとした理由をだいたい察した。
冷蔵庫を開けたまま俺の手は止まる。
冷蔵庫の中に、赤い包装紙で綺麗にギフトラッピングされた箱が、リボンで飾られて庫内灯に照らされている。
ああもう、と斎藤さんが頭を抱えていた。
「斎藤さん? これ……」
「ああそうだよ」
斎藤さんは少しばかり紅潮した顔で、拗ねたように顔を背けた。
勇者が。
毒沼も火山も踏み越えて魔王を討ち果たしてみせた稀代の大英雄が、安酒ごときで赤くなるはずもない。
「きみにあげるチョコレートだ。まったく……女性から男性へチョコレートを贈る適したタイミングなんて、どうしたら分かるんだ?」
答えようもない。
「えっと、これ、その。どうして?」
ぎこちなくチョコレートを指差して斎藤さんに尋ねる。
斎藤さんはちょっと上目遣いににらみつけるように俺を見た。
「それは、『どうして嘘を教えたのにチョコレートを贈るのか』という質問であっているかな?」
「いや嘘を教えたつもりは」
嘘だけれども。
斎藤さんはため息をつき、諦めたように腰を下ろして缶チューハイをあおった。空にしたアルミ缶を握りつぶす。
「チョコレートは誰かに贈るためということくらい、売り場を見れば分かったさ。女性向けということもね。私が分からなかったのは、誰に宛てるイベントなのか、という点だけだ。きみがしどろもどろになったからすぐに分かった」
考えてみれば確かにそうだ。この時期、バレンタインにかこつけてチョコを売りたいだけだろう。家族親類知人友人、見境なく贈るように売っていたはずだ。
そこを俺が余計な気を利かせたから、逆に勘づいてしまったらしい。
俺の誤魔化しは完全に逆効果だったわけだ。
「で、だ」
そこで斎藤さんは少し赤くなった。怒ったように眉を吊り上げる。
「きみはチョコレートが好きだと言った。私に向かって」
うわあ。
俺は顔を覆う。なんてことだ。中学生のチョコレートアピールと同じことになっている。
細くため息を吐いた斎藤さんは立ち上がり、俺の隣に歩み寄る。冷蔵庫からチョコレートを取り出して冷蔵庫の扉を閉めた。
「兵頭くん。このチョコレートは私からだ。受け取ってくれるね」
「はい……」
恭しく両手に受け取る。ラッピングビニールがよく冷えている。
イベントのことをきっちり理解した斎藤さんの優しさだ。哀れにも露骨に欲しがってしまった俺のために義理チョコを準備してくれたのだろう。
「開けても?」
「も――もちろんだ。きみのために準備したんだからな」
斎藤さんの言葉に礼をしてラッピングを開ける。
中には、
(……ん?)
透明なビニールに収められた、不揃いな形のトリュフチョコレート。
これは、どこからどう見ても。
(手作り)
斎藤さんはもみあげの髪先を指でいじりながら、ちらちらと横目に俺の手元を見ている。
「は、初めてだから綺麗にはできなかったが。味は悪くないと思うぞ。きみ好みの甘いチョコレートだ」
「わざわざ作ってくれたんですか」
「当然だろう。そういう日なんだから」
「最近は各社力を入れて送り出すバレンタイン製品を選ぶほうが主流になりつつある感じが……いや、とにかく、すごく嬉しい。ありがとう斎藤さん」
手作りチョコなんて生まれて初めてだ。感動のあまり、両手に乗せて拝んでしまう。
と、
斎藤さんは俺の手からチョコレートを奪い取った。
「おい――なにか勘違いしていないか?」
「あれ?」
斎藤さんは整った顔を不満そうに膨らませて俺を見つめている。
「え。俺がチョコレートが好きだって言ったから、わざわざ手作りで準備してくれたって」
はあっと巨大なため息。
額に指を添えた斎藤さんは、紫水晶の瞳を覗かせて俺の顔を見た。
「言っただろう。私はイベントを分かっている。そういう日の、そういうチョコレートだ。――ああもう。きみ相手に駆け引きを仕掛けた私がバカだった」
魔王相手でもこんなに緊張しなかったぞ、とぼやいて、
勇者様は俺をまっすぐ見つめて。
顔を背けた。
「――やっぱり察しろ」
「えっ」
「だいたいな、私は世界を救った大英雄だぞ? それが金銀財宝を放り出してきみの隣に住んでるんだ。それで分かれよ」
いや、「救世の英雄がどうのと持ち上げられるのが面倒で」と説明したのは斎藤さんじゃないか。
そうなんだ~と納得した俺も俺かもしれないけど。
「毎回毎回、きみのために恥ずかしい恰好でウロウロして。素肌を見せてもいい相手なんてそうそういるもんか。それともきみは、私が痴女かなにかだと思っているのか?」
俺をしゃべる犬かなにかだと思っているのかと理解していた。そんな隔世した雰囲気あるし。
「きみは私のことをどう思っているんだ!」
「言わせておけば……あのな、あんなクールな態度からなにかを汲み取るなんて無理だ。斎藤さんあんた、自分がどれだけずば抜けた美人か分かってるのか? 肌を見せられて赤くなって惚れ直す――って、少女マンガの男じゃないんだ! そんな枯れたプラトニック、あり得るか!」
「しょ、少女マンガぁっ!? かかか関係ないだろっ!? あああああんなの現実と違うって分かってるし!」
斎藤さんは素っ頓狂に裏返る声で慌てふためく。
本当に分かってるのか疑わしい。
「どう思っているのかだって? そりゃ決まってる! 好きだよ! 大好きだ! 初めて見たときから惚れていたとも! でなきゃ見ず知らずの武装した不審者に親切にできるか!!」
「んなっ。は、初めてっ!? 嘘だ! だって、そんな、そんな素振りなかったじゃないか!」
呼吸できない顔で口を喘がせながら、斎藤さんは苦しそうに怒る。
俺にどんな素振りを求めてるんだ。
ああ――この際だ。もういろいろ駄々洩れになっているこのタイミングでなければ言えない。
勢いに任せて斎藤さんの肩をつかむ。
「最初から、今まで、これからも! 俺はあんたのことが、好きだ!」
ひい、と斎藤さんの喉から悲鳴に引きつった。
悲鳴って。悲鳴ってちょっと。傷つく。
「わた、私も、私は、……」
斎藤さんは俺の前で、逃げるように顔を背けて。
ずい、と手作りチョコレートを押し出してきた。
「義理じゃない。勘違いするな」
「うわずるい」
「ずるくない! いいから受け取れ!」
受け取るや否や、斎藤さんは腕で顔を隠して部屋の隅に逃げていく。戸棚の前にしゃがみ込んで丸まってしまった。
追及する気力もない。言うこと言って疲れた。
ちょうど手元にいいものがある。袋を開けてトリュフチョコレートをかじった。
「甘い」
「そこに」
斎藤さんが背中を丸めたまま、ちゃぶ台を示す。
「ウィスキーがある。チョコレートに合いそうなやつ」
「お。それはいいな。美味しそうだ」
「……一緒に楽しもうと思ったのに」
「おいでよ」
「無理。……いまは、まだ」
拗ねた声に呆れながら、ちゃぶ台に座る。
そういえば夕食を作りかけていた。もういいや、酒とつまみで。
正直な気持ちを吐き出したら楽になった。
たぶん明日からは、昨日と同じような関係になる。それが楽だし、お互い楽しくて気持ちいい。そして、それを与えてくれるから、相手を好きになったのだ。俺も、たぶん斎藤さんも。
斎藤さんの背中に声をかける。
「チョコレートは明日に取っておこうか?」
「それはダメだ! 今食べろ。チョコなら、また買い足すから。……はあ」
斎藤さんは大きなため息を吐いた。
腕に顎を乗せて、うじうじとつぶやく。
「なんだ、このざまは。勇者も形無しだな……」
「もしかして俺、世界で一番勇者様を追い詰めた男なのでは?」
「うるさい。馬鹿」
不貞腐れた罵倒を受けて、チョコレートを口に含んだままウィスキーを舐める。アルコールの苦みと鼻に抜けるような香りが甘いカカオをトロリと溶かして、とても風味豊かに広がる。
「甘い」
甘くてほろ苦くて、とてもいい香りがする。
バレンタインのチョコレートはどうやら思春期だけのものじゃないらしい。
これだけ気の利いたものを贈られたとなれば、俺もお返しには気合を入れなくちゃならない。どんなものを贈ろうかと考えると今から楽しみだ。
「そういえば」
急にある言葉を思い出して、ウィスキーとチョコレートを見る。
遠くで丸くなってる飲み仲間の背中も。
「酒とつまみで最高の取り合わせを『マリアージュ』って言うんだよな。いてっ」
戸棚の枝豆スナックを投げつけられた。