第119話 そして更に迷宮を巡る(偶然会った彼女と探し求めた先の裏通りでの出来事)
「―――ということがあったわけだ。いや心配させてしまったなうん。」
「別にあなたのことは心配していませんでしたが、ナナミさん達に被害がなくてよかったです。」
うんうんと頷きながら報告をしたクロノスに割と辛辣な感想を述べたのは、彼の専属担当職員のヴェラザードである。彼女はいつものように背筋も凍るような眼差しでクロノスを見ていた。
クロノスがディアナに会うために街の西にある高級住宅街を目指して人混みの中を歩いていたところに、彼女と運命的な再開を果たし…は、少々誇張がすぎた。正確にはギルドの迷宮都市支店が押し寄せるダンジョンへの挑戦者による人手不足だったので、臨時職員として駆り出されて街中を歩き回っていた彼女と偶然出くわしたのである。
「割と久しぶりなのにその態度は実に君らしい。だがもっと優しく「お帰りなさいませご主人様♡」って、語尾にハートマークつけて出迎えてくれてもいいんだぜ?」
「申し訳ございません。あいにくハートマークは売り切れでございます。お帰りくださいませご主人様。それと、これっぽっちも、ぜんぜん、まったく心配して気に病んでなどおりませんでしたので。」
「少しは心配してくれてもいいんじゃないのか?…ああ、実は心配だった気持ちを隠すためにわざとそんな風に言っているのか?可愛い奴め。さぁ胸に飛び込んでおいで‼…ぐへぇ‼」
「飛び込みません。だいいちにクロノスさんはダンジョンから戻って来てからまだ体を洗ってないのでしょう。嫌ですばっちぃですせめて体を洗ってからにしてください洗ってからでも嫌ですけど。」
両腕をがばっと広げてヴェラザードを迎え入れる準備ばっちりだったクロノスだったが、そんな彼の胸に飛び込んできたのはヴェラザードが持っていた書類のたっぷり入った鞄だった。それはずっしりと重く苦しい。当たり所が悪かったのかクロノスはつい悶えてしまった。
ヴェラザードはばっさりと切り捨てて、せめて体を綺麗にしてからにしろと再開の抱擁を拒絶したが、クロノスもやれやれと首を横に振るだけで怒りも落胆もなかった。
憎まれ口に思えるかもしれないがこれがクロノスとヴェラザードの親身にこもる日常なのだ。クロノスは冗談抜きで普段自分に尽くしてくれているヴェラザードに大変感謝しているし、彼女もまたクロノスを邪険になどしていない。単にお互い気恥しさを誤魔化しているだけ…私にはわかるぞうん。
「とりあえずあなたが戻って来てくれたおかげで私は晴れて臨時職員の身を辞して、あなたのサポートという元の仕事に大手を振って戻れます。あの支店長の野郎この二週間で随分こき使ってくれたものです。本来なら私はあれより立場は上なんですがね。どうも一般の職員は私のこの専属担当職員という肩書を軽んじている節があるといいますか…今は関係ありませんでしたね。すいません忘れてください。とりあえずダンジョンへの挑戦ご苦労様です。お疲れ様とは言いません。冒険者とギルド職員は平等な立場ですから。」
「平等ならやはりお疲れ様…ああうん。やはりこのやり取り、安心感を覚えるな。ようやく地上に戻ってきた実感が湧いてくる。」
「何が湧いてくるのやら。さぁ、なんでもくんを預かっておきますので渡してください。特別サービスで物資も補給しておいてあげましょう。」
「お、ありがとうな。ナナミが大量に食材を使うもんだからもう中身が空に近かったんだ。助かるよ。」
「このくらいは担当職員の仕事の内です。食料も保存食中心であればまだまだ十分な在庫をギルドの倉庫に揃えているので足りるでしょう。ですが武器に関しては期待しないでください。最近はあまりにも需要があるものでギルドも倉庫に眠らせていた預かりの武具を全部放出してしまいました。」
ヴェラザードの言う預かりの武器とはダンジョン内で発見された持ち主不明の落とし物の武器のことで、挑戦者が善意とわずかばかりの下心で地上に持ち帰ってきたそれは、ギルドが謝礼金を支払い引き取った後でしばらくの間持ち主が現れるでギルドの倉庫に保管される。もし持ち主が見つかって引き取りに来た場合は預かり料を支払って引き渡されるのだ。一方で何年も引き取り手が現れなかった武器は所有権が失われギルドの所有物扱いとなり、大きな街の支店で年に何度かの放出会にて希望する冒険者などに譲り渡される。この放出会は掘り出し物の武器を安値で手に入れられるとあって金のない冒険者にはそこそこ人気がある。
この場合出品されたものはまだ保管期間が残っているもののことで普通に組織ぐるみの横流しに違いないのだが、どうせ元の持ち主は十中八九どころかほぼ十割がた死んでダンジョンの藻屑となったか生きていても新しいものを購入している。このまま倉庫の肥やしになるくらいならいっそ必要としている人に売ればいい。そんなわけで保管期間のまだある武器の売り買いはギルド内で普通に行われていた。クロノスも他の冒険者もそういったものは何度も買い取っているので今更である。
「困ったな。手持ちの剣はもうほとんど残ってないぞ。俺の場合剣の本数=攻撃回数みたいなものだからな。万が一を考えて数を確保できないと不安が残る。」
「剣以外ならまだいくらか余裕がありますよ。槍、鎌、戦槌、戦斧…そちらにされてはいかがですか?」
「今の俺は剣士だぞ。剣でなくてはダメだ。」
「別に剣士にこだわらなくてもよいと思います。クロノスさんは他にも職業資格を取得しているではございませんか。」
クロノスが剣士の職業でいるのは、元を辿ればクランの解散を阻止する条件の一つだったからだ。今現在その縛りは無くなっているのでクロノスが剣士でいる必要はない。ヴェラザードは渋る彼にさらに職業の変更を勧めた。
「なんならこれから支店にて変更の手続きを手伝いますよ?小一時間頂ければ終わります。闘士などいかがですか。クロノスさんなら素手で戦えますからそれなら武器もいりませんし。」
「やだよ素手での喧嘩なんて。人間相手にするんじゃないんだぞ?スライムとか殴ったら手がべちゃっとするじゃないか。」
「普通スライムを素手で触ったら酸で手が溶けてしまうのですがね。」
「そんなもん気合いだ気合い。とにかく、パーティーの連携も崩れるし職業の変更はなしだ。」
「わかりました。剣も最低数だけでもなんとか用意しましょう。」
「多少割高でも構わないから頼む。それじゃあ俺はこれで…あ、そうだ。一つ頼むことがあったんだ。」
「なんですか?聞くだけ聞いておいてあげましょう。」
ヴェラザードに武器の調達を頼んだクロノスは彼女に別れを告げて立ち去ろうとしたが、何かを思い出して立ち止まり、同じく立ち去ろうとしていたヴェラザードを呼び止めた。
「ちょっと調べてもらいたいことがある。できれば急ぎで。大きな声で言いにくいから…ごにょごにょ…」
「くすぐったいですよもっと耳から離れて…なるほど。確かにその可能性はありますね。わかりました。二日ください。それならネタを完璧に揃えて見せます。」
「二日?明日の朝にならないか?明日はすぐにダンジョンに入る予定なんだ。」
「延期してください。正確で詳細な情報が欲しければです。あなたの言うことが本当なら、ポーラスティアの首都まで連絡を取らねばなりませんし、そこから情報の精査もありますから。一日目で連絡を出して二日目に帰ってくるのなら道理でしょう。重要な問題なのでしょう?急いては事を仕損じますよ。」
「…わかった。君が二日と言えば俺が求める情報としてのレベルの限界がそこなんだろう。いいぜやってくれ。」
できませんと言われたらそうかわかったそれでいいと返す。クロノスは凛として折れることのないヴェラザードに文句を言うこともない。どうしても二日はかかる。だがそれは二日あれば完璧な情報を得て見せるということ。それがクロノスとヴェラザードの、長年の関係からくる信頼を言葉に出した形なのである。
クロノスが改めてよろしくと頼むとヴェラザードは最後に「ディアナ様の下へ向かわれるのなら、くれぐれも粗相のないように。親しき中にも礼儀ありですよ」と念を押してから一礼して去っていった。
「粗相ねぇ…手遅れなのは君が俺の次によく知っているだろうに。」
職員服越しにヴェラザードの官能的な腰つきと今日の下着を想像しながら彼女の背中を見送ってから振り返り、クロノスは水色のフリルなら素敵だなぁとかくだらないことを考えて自分の道を行く。
――――――――――
「そういえば靴が汚れているな。ダンジョンを歩き回っていた靴のままだから当然か。」
ヴェラザードと別れた後でクロノスは自分の靴に泥はねがついていたことに気づいた。泥は靴の上にまるで塗りたぐったかのようにべっとりとこびりついており、クロノスはよくもまぁ今まで気づかなかったものだと自分の不注意を反省した。
「このままディアナの所に行くと、これを咎められかねないな。あれは身なりにうるさい女だからな。」
風紀薔薇の二つ名を持つ冒険者ディアナは身なりにはそれなりに厳しい。普段気品がどうかとか、礼儀がどうであれとか、身なりに気を使えと言うことが多く、他人にも指摘をよくする。彼女のクランのホームであるチャルジレンで、街中を巡回するディアナに出会おうものなら「シャツの裾がズボンから出ているぞだらしがないもっと身だしなみに気を使えだから貴様らはダメなんだ屑冒険者共が」と、因縁をつけられることもしばしばである。もちろん抵抗したり反抗的な態度をとればその場でお仕置きからのいい子ちゃん化確定である。だが過敏に身なりを正さずとも普通にしていれば文句は言われないので、因縁つけられる奴がよっぽどひどいだけだとクロノスは思っている。
クロノスは鍛えた肉体のコントロールで体臭はどうにかなるが、衣服や靴に着いた汚れまでは流石にどうすることもできない。衣服はヴェラザードになんでもくんを渡す前に出したものにさっと着替えて前の物は彼女に渡して持って行ってもらったので問題はない。しかし靴はこれ一つで替えなど持ってきていないのだ。
そういうわけでもしクロノスがこのまま泥で汚れた靴で彼女に会いに行こうものなら、足ごと刈り取られかねない。あれはそういう女だ。ましてやクロノスはディアナと同じSランク。同格には力の遠慮などしないだろう。何度でも言おう。あれはそういう女だ。
「しょうがない。気は乗らないがその辺の靴磨きしている奴に軽く磨いてもらおう。」
クロノスは靴を綺麗にするために靴磨きの浮浪児を探すことにした。知らない人間に靴を預けるのは盗まれるリスクを孕む為に少々気が憚られるが、緊急事態ゆえに仕方ないか。
そうと決まれば善は急げ。クロノスは周囲の出店の影などに浮浪児の靴磨き屋がいないか探してみた。しかし普段は歩いていればしつこいくらいに声をかけてくるはずの靴磨きの浮浪児の姿が今日はどこにもいないのである。これはどうしたことだろうかとクロノスは首を捻った。
「いつもなら靴磨き屋同士で客の取り合いや縄張り争いをしているくらいなのに。俺が前に迷宮都市に来たときはそうだった。てゆうかここに来た日も通りにたくさんいた。」
クロノスは二週間前の通りの状況を記憶から引っ張り出して考えたが、やはり目の前の光景とは齟齬がある。
その後もクロノスは西の住宅街を目指す道すがら通りの端を見ながら靴磨き屋を探してみたが、浮浪児の靴磨き屋は本人どころか地面に敷いて座るための敷物も客を座らせるための木箱も見当たらなかった。
「おかしいな?これだけ人がいるのだから俺と同じように靴磨きを望む客も豊富にいるだろうから、この機にサボる奴なんていないだろうに。他の通りで稼ぎに行ったのだとしてもこの通りに一人もいないというのは変だし…どこへ行ったんだ?」
もう少し先まで歩いて靴磨き屋を探そうかと考えたが、じきに商店などのある通りを抜けて住宅街に入ってしまう。そこでは商売している者もいないだろうし探しても徒労に終わる。
「普通の靴屋は忙しすぎて相手にしてもらえなさそうだし、小遣い稼ぎに靴磨きやってる見習いも今日は工房の手伝いで靴磨きなどやってられないだろうな。やはり浮浪児の靴磨き屋か。どっかにいないかな…む。」
クロノスは一度来た道を戻ってもう一度探しなおしてみるかと考えたところで、通りの奥の方にあった飲食店の入り口から店主と思わしき中年の男が出てきたのを見つける。
その店は昼食時が近いのに扉に「close」の板が下げられていたので夜の客を相手にする店だとわかった。そして出てきた男はあくびを一つして裏口に回り外のゴミ箱に店で出たごみを捨てていると、そこに小汚い身なりの子供が一人やってきた。
「おじちゃんおはよう。今日はある?」
「おう来たか。…そらよ。昨日の客の食べ残しだ。」
「わぁ‼こんなにたくさんありがとう店長。」
「嫁さんがせっかく作ったのに客も酒ばっかり飲みやがってつまみに手を着けないと来たもんだ…まったくひどいもんだぜ。」
「でもおかげで僕達がたくさん食べられるよ。それじゃあどうもありがとう。また器を返しに来るね。」
「おう、どうせ捨てるもんだしたっぷり食いな。」
子供は浮浪児のようで飲食店の裏口で店主の男から昨晩に出た客の残飯がたっぷりと入った器をもらっていた。残飯と言ってもほとんど手がついていないものが多く、客が酒のつまみに頼んだのを食べきれなかったものを店主が浮浪児にあげるために選別してまとめたのだろう。子供は店主に礼を言って立ち去り、店主の男も子供を見送ってからあくびをもう一度して店の中に戻っていった。
「残り物とはいえなかなか子供思いな店主じゃないか。料理にも愛情籠ってるらしいし今日の夕食はあそこの店にするか。俺たちの面子であれば食べ残しも出ないからさぞ優良客だろう。いや、あの子にとっては不良の客か?…そんなことより浮浪児なら浮浪児同士で仲間の伝手があるだろうからちょうどいい。あの子にこの辺に靴磨きしている奴がいないかを紹介してもらおう。」
食事を得たので住処に戻るためか、器を持って裏通りに入っていた子供。クロノスは懐から謝礼に払う銅貨を探しつつ靴磨きをやっている知り合いを紹介してもらうため、子供の後を追って自分も裏通りに入っていった。
「おうおう、ぼくちゃん。美味そうなモン持ってんじゃねえか。」
「俺達昨日から何も食ってないから腹ペコなんだ。それちょっと分けてくれよ?」
「う…」
子供を追ってしばらく歩いたクロノスの前では、先ほどの浮浪児の子供が同じく浮浪者と思わしき汚れた身なりの大人三人に取り囲まれていた。
「どうした?心配すんな。お前の分は残しといてやるよ。…俺達が途中で腹いっぱいになったらな。ゲッヒッヒ。」
「それと金持ってねぇ?俺達酒が切れて困ってんだ。ヒヒ…」
男達は子供に食い扶持の分け前を要求していたが、その目に譲り合いの色は皆無であり、おそらく子供の得た食い扶持を横取りしようという算段なのだろう。
「(ああいう輩はどこも同じか。好きで浮浪者に堕ちたわけでなくとも堕ちて当然の連中さ。さて…)」
クロノスは足音を立てずに彼らの前に向う。そうしている間に男たちはなかなか食べ物を渡さない子供に痺れを切らした様で、苛立ち交じりに子供に詰め寄っていた。
「オラ、早くよこせよ。…それとも痛い目見ないとわかんねぇか…?」
「…うぅ…これは僕がもらったものだ…誰がお前らなんかに…‼」
「ぎゃはは‼何言ってるかぜんぜん聞こえねーよ‼」
「大人しくそれを渡すか…それともその汚い服をはがしてやろうか!?…ん。なんだお前…」
食べ物を庇うように体を丸めた浮浪児に男の一人が近づき手を伸ばすと、その横から手が伸びてきて男の腕をつかんだ。それは男達と浮浪児の間に立ちふさがったクロノスの腕だ。
「これはこの子が得た物だ。君達も欲しければ表の飲食店に媚を売って譲ってもらうか、そうでなければその辺のゴミ箱でも漁るといい。最近はどこも客が多いからきっと豪華な残飯ディナーに在りつけるぞ?」
「はぁ?いきなり現れて何言ってんだコイツ。とりあえずその腕放せよ…あれ?」
「ちょうどいいや。こいつから財布をもらおうぜ‼」
「冒険者のようだが意気ってんじゃねぇぞ?こっちは三人いるんだ‼」
「おい待てって腕がとれねぇ…‼」
男たちは突然現れたクロノスを見くびり、標的を浮浪児からクロノスに変更して腕を掴まれた男を残した二人が彼を取り囲む。腕を掴まれた男もクロノスの腕をもう一本の腕で取り払おうとしたが、どういうわけか腕がまったく離れない。男が仲間達に待ったをかけるが、二人の男は獲物に夢中でそれにまったく気づいていない。それどころか男がクロノスを逃げないように自分の腕で抑えているように見えるようだ。
「おーしいいぜ…そのまま掴んでいてくれよ。」
「だから、違うんだって‼」
「おいおい慌てんなって。まずは一発…うりゃ‼」
二人の男はそれぞれが動かないクロノスの横に周り、それから一人が手に持っていた酒瓶を大きく持ち上げてそれを勢いよくクロノスの頭部めがけて振り下ろした‼
無駄に丈夫な冒険者とはいえ無抵抗からの近距離での一撃。酒瓶も割れて木っ端みじんでこの男も血塗れに…そう考えた男達だったが、そうはならなかった。
「あれ?なんで…」
「中に酒がまだ少し残っているぞ。それを頭にかけられるのはちょっとな。頭に酒は祝いの席で、それも美女の飲みかけに限ると決めているんでね。」
これはどうしたことか。酒瓶は少しも割れず、それで殴られたクロノスもまったく痛そうにしていなかったのである。
「くそ…このっ‼このっ‼」
不敵に笑うクロノスに薄気味の悪さを感じて男は酒瓶で追撃を試みたが、その後も酒瓶は割れずクロノスにも一滴の血も流れない。男はとうとう殴るのをやめて肩で息をし始めた。
「ぜぇ…ぜぇ…‼」
「こいつどうなってやがる…!?」
「さて、もうターンエンドかな?君たちがターンを終えたら次は俺にターンが周ってくるのが道理だと思うが…さぁ、どうしようか?」
「お、おい…‼」
「クソが‼後で覚えてろ‼」
この不気味な男に負けを認めることはプライドが許さない。だがこのまま戦えば自分たちがどうなるかわかったものではない。そんな感じで男の一人が捨て台詞を吐いて、男達は去っていった。酒瓶もその場に投げ捨てていて、それは地面に当たると同時に砕けて飛散してしまう。
「実力も見繕えない素人が。イキる相手を選べよ。…もう大丈夫だぞ。」
「あ…うぅ…」
つまらないとばかりにクロノスが去っていく男たちの背中に文句を言った。それからその場で固まっていた子供に話しかけた。
この浮浪児は先ほどのやり取りの間も動かず双方の様子を伺っていた。男達がクロノスに興味を移した隙に逃げ出せばよいものを逃げずに残るとは随分と律義な子供である。単に足が竦んで逃げられなかっただけかもしれないが。
「た、たすけてくれてありがとう…」
「礼が言えるだけマシか。女の子が一人歩いてたら危ないぞ。いくら男のふりをしていてもな。」
「え…!?」
クロノスの言葉にその子供…浮浪児の少女は驚いていたようだった。その反応からやはり男のふりをしていたことは間違いないとクロノスは思った。
クロノスは子供の歩き方でその子の性別が女であると見抜いていた。子供の肉体は性差が表れにくいためわかりづらいが、彼なら十分に見分けがつく。…どういうわけかダンツは男女どちらかいまだによくわからないが。
浮浪児の世界でも女は生きづらい。単純に力が弱いことと同じ浮浪者に犯され慰み者にされる危険性を孕んでいるからである。浮浪者も誰にも迷惑をかけないよう静かに生きるものもいれば、同じ身の上の人間であっても遠慮なしで奪い傷つけるという浅ましい行為を平然とする暴力的な者は一定数いる。なのでそういった輩にとって、体力が劣り襲いやすく、被害にあっても街の警備兵がまともに動かない女の浮浪者は格好の餌食なのである。
そんな理由もあって、もっとも弱い存在である少女の浮浪児は見た目が中性的で判別がつきにくいことを活かして少年のふりをしてくらしていることが多い。実際に身内であるリリファもファリスという偽名を使って生きていた。
少年のふりをすることはごく一部の身内を除いて知らせないことも多い。それは仲間同士であっても同じことで、そこから話が悪意のある者に女であることが漏れてしまえばどうなったかわかったものではないからだ。単純にそれだけでもだいぶ襲われる可能性は減る。…最も、少年少女構わず穴があれば変わらないという変態胸糞野郎も多いが。はい解説終了。
クロノスは一難去ってまた一難といった表情の子供に尋ねた。
「別に君が女であるからといって何かする気もない。助けたことにも訳がある。少し尋ねたいことがあってな。この辺で今靴磨きの仕事をしている仲間がいないか?どういうわけか通りでは一人も見つからなくてね。たまたま君を見かけたから聞いてみようと思っただけさ。」
「そういうこと…ほっ。それなら僕のお兄ちゃんがやってるよ。」
クロノスの言葉を聞いて少女は安堵して自分の兄が靴磨き屋であることを教えてくれた。
「そうか。手間をかけるが案内してくれないか。そうしてくれたら駄賃もやるよ。」
「お金…‼今は家にいるんだ。こっちだよ着いてきて‼」
金を出すと聞いて少女はいそいそと小走りで裏通りを駆けていく。クロノスもそのあとを追った。
少女に連れられクロノスが訪れたのは裏通りの中でも貧困層の住むエリアだ。このようなところはどこの街にもあり、当然迷宮都市の中にもある。
道には誰にも片付けられないゴミと生気のない浮浪者が転がっていて、道を歩く者も陰気と悪臭をまき散らしている。彼らは部外者であるクロノスをちらちらと見ていたが、おそらく盗みや恫喝の獲物にできないかと物色しているのだろう。しかし浅ましくも生き抜くことに関しては一級品の連中である。すぐにクロノスが手を出してはいけない人間だと悟り、興味をなくしてまたどこかを退屈気に見ていた。そんな彼の隣にいる少女にも手は出そうとしなかったので、クロノスも彼らを無視して歩みを進めた。
「着いたよ。僕たちここに住んでるの。」
「これはこれは立派なお屋敷で。」
「屋根があれば平気だよ。雨に濡れないからね。入って。」
クロノスは少女に案内されて、そこにあった半分崩れかけの家の中に立ち入った。
「ただいまレグ。ごはんもらってきたよ。」
家の中は大部屋が一つあるだけで、奥の部屋は外側からも見えた崩れた瓦礫で埋まっていた。
台所も原始的な火起こし式の石づくりの竃に川から汲んできた水を貯めて使う水瓶。そして寝床も大きな二人用のおんぼろのベッドが一つだけだ。その上で虫食いだらけの薄い毛布を一枚だけかけて寝ていた少女と同い年くらいの少年が同居者の帰宅の声を聞き、むくりと体を起こしてこちらを向いた。
「ゴホ…リータおかえり。ごめんね一人で行かせて…」
「今日はいっぱいもらえたんだ。冒険者や傭兵は怖いから苦手だけど、こんなにごはんくれるなら悪くはないね。」
身を起こしたレグという少年にリータは得意げに戦利品を見せつけた。
「そんなにたくさんすごいじゃないか。他の奴に絡まれなかったか?」
「絡まれたけど僕は平気。この人が助けてくれたんだ。」
「そういえばそっちの男はだれ?この辺じゃ見ない顔だね。服もきれいだし…」
「兄ちゃんのお客さん。靴磨きしてほしいんだって。それで連れてきたの。」
「なにぃ!?」
リータがレグにクロノスを連れてきた経緯を伝えていると、部屋の奥から怒号が鳴り響いて天井の埃を落としていた。
実はレグのほかに奥の方で机に向って何やら作業をしていた少年がもう一人いて、彼は座っていた椅子から半身を捻ってこちらを向き、怒り心頭といった様子で睨んでいた。
「おいリータ‼勝手に知らない人間を入れるなって言ってるだろ!?」
「でもゼル兄ちゃん…この人お金払ってくれるって…」
「金…?前金でもらったのか?大人は平気で嘘をつくぞ。金をもらわない限り信用するな‼」
「でも…」
「あまりこの子を責めるなよ。頼んだのは俺だ。」
「あんたは関係な…ん?あんたは…‼」
リータに怒鳴りつける少年をクロノスは止め、その兄だという少年に視線を移す。その顔には見覚えがあったからだ。少年もクロノスが知っている人間であったことに気づいたようで少し驚いた顔をしていた。
「あんたは…‼」
「もちろん君のことは知っているとも。俺が覚えたと言ったのだから忘れるはずがないだろう。えと、名前はゼルルライト三世くんだったな。」
「ゼルだよ。なんだよゼルルライトって。なんであってんのに余計なのが引っ付いてるんだ。」
「すまないな。あまりにも短い名前は逆に覚えにくいから自己流にアレンジする癖があってね。しかしこの子の兄が君だったとはな。そういえば君も靴磨きをやっているんだったか。」
「ゼル兄ちゃんこの人と知り合い?」
「ああ、ちょっとな…それよりも飯の用意をしてくれ。いろいろ貰えたんだろう?俺もレグも腹ペコだぜ。」
「うん。ゼル兄ちゃん。準備するからちょっと待ってて…」
リータは台所に食べ物を持っていって調理をし始めた。調理といってもナイフで食べやすいように切り分けているだけだが、もらった食べ残しは店ですでに十分な調理が施されたものなのでその程度でいいのだろう。
「あいつらは俺とは血のつながりがあるわけじゃないよ。ただこの街に来てからあいつらの家であるここに間借りしているだけだ。それにしてもあんたらまだいたんだな。人がたくさんいるとはいえ二週間ずっと見かけなかったから、とっくにミツユースに帰ったかと思ってたぜ。」
「いろいろあったのさ。君に会うのが必須課題というわけでもないしな。」
「そりゃそうか。さてと…足出しなよ旦那。客として来てくれたのならやってやるよ。飯が来る前にちゃちゃっとしよう。」
「なら頼むよ。飯を早く食べたいからと手抜きはするなよ。」
「あいよ。まかしておけ。」
適当な椅子に腰をかけて靴を履いた足を差し出したクロノス。ゼルは机の引き出しから商売道具の靴磨きの道具が入った籠を取り出し持ってきて、靴磨きを始めた。
「今日はレグの奴が熱を出して看病しなきゃだから仕事に行けなかったんだ。スラムの奴は丈夫だからレグも滅多に体を壊すなんてことはないんだが、一度壊すとなかなか治らないし命にかかわるから誰かが見てなきゃならない。おかげで今日は稼ぎがないかと思ったぜ。」
「そうなのか。だが通りを探しても君以外の靴磨きも誰一人もいなかったぞ。どこへ行ったんだ?まさか全員が身内の看病をしているわけではあるまい。」
「まさか、んなわけないだろ。しかしお兄さんも無駄足だったね。今通りを探しても俺たち浮浪児の靴磨き屋なんて一人もいないさ。」
クロノスの靴を磨きながらゼルは靴磨き屋をしている浮浪児が通りにいない理由を話してくれた。
「なんか最近ダンジョンへの挑戦者がたくさん来ているだろう?それで荷物運びやマップの案内をする運び人も不足していて多少評判が悪かったり経験が浅い奴でもいい金で雇ってもらえる。それでこの機を逃すかってみんなあれこれ売って得たわずかな金で道具を買って運び人になったのさ。俺のような靴磨きだけじゃない。煙突掃除やゴミ拾いなんかの連中もみんなだぜ。」
「いくら誰でも雇ってもらえるといっても何の知識も技能もない子供がいきなり運び人できるとは思えないが。」
「それなんだけど…俺ら浮浪児の中の運び人をまとめているチームがさ、この機に名をあげて正式な浮浪児運び人の派遣商売をやろうって躍起になっているみたいなんだ。他の街は知らないけど迷宮都市の運び人は殆どギルドに無許可でやってるモグリだからな。連中は今は稼ぐチャンスだって迷宮都市中の浮浪児に片っ端から声をかけているよ。そいつらがなりたての奴に最低限教えたり道具を格安で回したりしてくれるから、それもあってみんなすっかり乗っちまって。奴らも手数料だとかみかじめ代だとかいって儲けを結構持っていくらしいけど。」
「それがあっても大きなチームに属することは、大きな見返りになると判断しているということだろう。」
「そういうこと。俺もミツユースにいたことに大きいチームに入っていたから、その気持ちはようくわかるさ。」
ゼルは靴の手入れを続けながらクロノスに同意していた。
「しかし君は靴磨きを続けてるんだな。儲かるのだから君もさっさと運び人に鞍替えすればいいのに。」
「俺はマジメなイイ子ちゃんになるって決めたんでね。もう誰かの下につくのはまっぴらゴメンだぜ。」
「違うよ。ゼル兄ちゃんは将来靴職人になるからだよね。今は向こうの通りにある靴屋のおじいちゃんの工房に通って靴の作り方を教えてもらっているの。さっきも皮の破片を糸でつないで練習してたんだよ。靴磨き屋も客の足を見る練習だって靴磨きの道具をお爺さんに借りてしているんだ。」
「リータ‼余計な事言うんじゃねぇ‼それに教えてもらってんじゃなくて教えさせてやってんの‼あのじじいに‼」
「はいはい…くすくす。」
得意げに語るゼルの話に割って入ったのは食事の用意を終えてそれをこちらへ持ってきたリータだった。彼女は笑いながらゼルの作業机に彼の分の食事を置いて、自分とレグの分を持ってレグの寝るベッドの方へいった。
「靴磨きの道具も借りたんじゃねぇ。無理やりあいつに押し付けられたんだ‼あの頑固な老いぼれじじいめ…弟子なんか一人もいないチンケな人望のくせして偉ぶってこき使いやがって。あいつがおっ死んだら工房乗っ取ってやる…‼あ、ごめんごめん…」
振り上げた右手をわなわなと震えさせるゼル。彼は黒い野望をなんとか抑えて胸にしまい込むとクロノスの靴にクリームを塗りこむ作業を続けた。
「…それに、じじいのこと抜きにしてもダンジョンなんて命がいくつあっても足りない恐ろしいところさ。こっちでできた知り合いにも運び人に転職した奴が何人かいるんだが…かれこれ一週間ほどダンジョンから戻って来ていないのが十人はいる。…でもそいつらを運び人に雇っていた冒険者や傭兵のパーティーが地上に戻って来ているのを見かけてさ。そいつらがいるのにあいつらが戻って来てないってことは…」
ゼルはそれ以上は何も言わなかった。おそらくダンジョンで見捨てられたと思っているのだろう。それにはクロノスも同意で、「冒険者か傭兵かはたまた別の人間かは知らぬが薄情な連中もいるものさ」と言っていた。
「運び人の件も黙認されているわけじゃない。冒険者ギルドも危ないからやめろってこっちに何度か警告してきている。だけどやめたところでそいつらから金がもらえるわけではないからな。転職した奴の中には前の仕事の道具を残らず売ってそれに賭けてるのもいるから運び人できなくなったら飢え死ぬしかない。俺はそれが怖いからこの仕事でいいんだ…っと、できたぜ旦那。」
話をしている間に靴磨きの作業はすっかり終わっており、クロノスの履いていた靴は新品とまではいかないがかなり綺麗になっていた。
「ふむ、これはなかなかの腕前だ。経験は浅いようだが才能を感じる。」
「よしてくれって旦那。こっ恥ずかしいぜ‼さ~て腹減ったしメシメシと…」
クロノスに褒められて顔を赤くしたゼルはそれを誤魔化すように机の上の自分の食事を取り食べ始めた。
「食事の邪魔をしても食べづらいだろう。俺は帰らせてもらう。…支払いだ。」
「おっ、こりゃどうも…ん。本物だな。」
「それとリータにも約束の紹介代だ。」
「ありがとうお兄さん。あむ…本物だね。」
「ここまで来てわざわざ偽物渡すかよ。だいたいその程度の金額なら偽物で作った方が高くつくぞ。」
「まぁまぁ、騙されることはよくあるんで。癖みたいなもんだよ。」
クロノスは立ち上がりゼルには靴磨きの代金を。そしてレグと一緒に食事を摂っていたリータにはここまでの案内代をそれぞれ支払った。二人は癖で硬貨に噛みついて偽物かどうかを確認し本物であることを認めたうえでクロノスに礼を言って硬貨をしまっていた。
「それじゃあ支払いも済んだことだし、俺は失礼するぜ。邪魔したな。」
「毎度。今日はいなかったけど、普段なら俺は通りで仕事やってるから。仲間が靴を汚したらよろしくな。」
「きみの仕事ぶりとちゃっかり宣伝する強かさに免じて、次からそうしよう。それではな。」
「さっきは助けてくれてありがとう。」
「帰り道は気をつけて。一人だからってだけで襲ってくる質の悪い連中もいるから。」
心配をするレグに手を振ってクロノスは家を出ていった。
「ゼルのやつ。なかなかいい仕事をするじゃないか。」
裏通りからの帰り道でクロノスはゼルの仕事ぶりを再度確認して、その出来栄えに大変満足していた。その道何十年のベテランと同じようには行かないが、汚れがすみずみまで落とされており磨き残しも殆どない。普通にやっていく分には問題ない仕上がりだ。経験と技術の少なさを熱意で補っているといったところだろう。
「本当に真面目にやっているようで安心した。帰ったらリリファに教えといてやろう。」
靴磨きの仕事を語るゼルの目。あの目には決意と改心のそれがしっかりと見えていた。また心変わりして犯罪に手を染めてしまうかもしれないがその時はその時だ。ただの子供。それも殺しをやっていない可愛いい方の犯罪者であるとはいえ、これ以上道を踏み外せば容赦はしない。
「服は着替えた。靴も磨いてもらった。これでもう問題あるまい。さぁ、これで心置きなくディアナに会いに行ける。ディアナのやつこの色男を目にしたらきっと顔色変えて…あ?」
会いに行った先でディアナの反応に期待して、るんるん気分で道を急ぐクロノス。しかしその足は突然止まってしまう。なぜなら前に立ちふさがる者がいたからだ。
「よう…さっきはよくもやってくれたな…」
クロノスの前に現れたのは、五人の男たちだった。
「おっと…逃がさねぇぞ。」
後ろからさらに五人が現れて、前と後ろでクロノスの行く手と退路を断った。
「やぁ君たち。さっきぶりだな。道に何か忘れ物でもしたのかな?だとすれば残念だ。俺は何も拾っていないよ。もっているとしたら別の誰かじゃないか?」
男達の殆どはクロノスの記憶にない完全な初見の顔であったが、その中のうち三人には見覚えがあった。先ほどリータに絡んだ。男達である。彼らを確認したクロノスは聞くまでもないことを聞いてみた。
「それとも…他に何か用かな?」
「知れたこと…さっきのお返しをしてやろうと思ってな。」
「さっき?おかしいな。俺は君たちに何かしたっけ。俺の記憶が間違っていなければ俺は君たちに何かされた方だったと思うんだよね。」
「はん‼どっちでもいいさ。どうせお前はここで死ぬんだからな。」
「あらやだ三流台詞。伝統の名宝の一文だな。ここまでありきたりなのはもしかしたら生まれて初めて聞いたかもしれない。」
今度の男たちの手には酒瓶などでない。剣やナイフが握られていた。正真正銘クロノスの命を狙ってきたのだろう。特に何をしたわけでもないのにそれでも襲ってくるとはこりない連中だと、十人の敵を見てもクロノスはひるむこともなく、見知った男の一人を紅い目で見つめ続けた。
「ずいぶん余裕じゃねぇか?内心ビビってんだろ!?」
「色男様をギッタギタにし放題‼って言ったら俺も俺もと集まってきたんだ。」
「色男とは照れるね。もっとも、これでも女性との逢瀬に結び付く勝率は高くないんだ。」
「何を言ってやがる?囲まれて怖くなって頭でもおかしくなったか?」
「こっちには元冒険者もいるんだぜ?同業者ぶっ殺して追われてるらしいがな‼」
男の一人が変わった格好の男を指さすと、指名された男は得意げに手を振って見せた。
「アハハ。殺しだけじゃないよ。強姦と窃盗と強盗と詐欺と…あとなんだっけ?まぁいいや。死ぬんだから教えてやる必要はないよな。同業者嬲って殺すのは最高に楽しいんだよな。女じゃなくて残念だけど。」
「ああ、なんか街の住人と違うオーラを放つ奴がいたかと思ったが、元同業者だったのね。でも俺は君を知らないからどうせ小物だろう。」
「…言ってくれるじゃないか。まぁいいよ。どうせあんたはこれから苦しんで死ぬんだから‼」
「挙句の果てに勝手に逆切れされるし…やっぱ裏通りなんて来るもんじゃないな。はぁ…」
「コイツ…舐めやがって‼もう財布を出したって許してやらねぇからな。ぶっ殺してやる‼」
男たちは裏通りの上に広がる空を見ていたクロノスに、ナイフや剣を持っていっせいに向かっていった。
「十人全員臭いがひどい。これは殺しと犯しを何度もやった臭いだな。指名手配の有無を確認していないが、仕留めた奴は確実に「殺害処分を許可」だろう。ま、裏通りの掃除をボランティアでやったと言えばヴェラも許してくれる。…物理的には余計に散らかってしまったが。血は…跳ねてないな。やれやれ…」
クロノスは服や磨き立ての靴に汚れがついていないことに安心して、何食わぬ顔で来た道を引き返していった。その体には傷の一つもなく、さきほどの男達とは何もなく円満に解散したのかと思えてくるくらいだ。
しかしそんなことはありえない。ほら、彼が通った道を振り返ればそこには…
「ひひ…あくま…‼」「うげぇ…‼」「許して…許して…」
彼が去った裏通りには、目の焦点が合わず何やら譫言を呟き続ける三人の男。それと周囲には物言わぬ死体となり果て血の海に沈んだ七人の男と、彼らが持っていた剣やナイフなどがばらばらの欠片となって残されていた。死んだ男たちの表情は死んだ瞬間で固まっており、薄暗い裏通りの中でも一人残らず絶望と恐怖の色が見て取れた。
「ひひ…」「げぇ…」「助け…」
残された三人の男たちはクロノスの姿が去った後でぴたりと呟きを止め、同時に同じことを口走る。
「「「その紅い瞳には絶対会うな。会えば俺もお前も殺される…‼」」」
生き残った男たちはもう悪さをできないだろう。本物の、死に、出会ってしまったことで。
「ああ許して…神様ごめんなさい…‼」「助けてください神様…‼」「地獄に…行きたくねぇよ…‼」
男たちはまたそれぞれ譫言を呟き続け、今までいないと決め込み、ないがしろにし続けた神に祈り続けたのだった。