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巫部凛のパラドックス  作者: 福畑 鮭一
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(プロローグ~第1章)

 プロローグ


 茜色に染まる羊雲。


 家路を急ぐ鳥の群れ。


 そんないつもと変わらない空を見上げながら少女は一人公園を歩いていた。


 一人になりたかった訳ではない。 

 

 とってもとっても悲しい出来事があったから、ただただ誰かに傍に居て欲しかっただけだった。

 

 まだ帰宅時間には少し早いのか、遠くには同じ学年位の子たちがワイワイと騒ぎながら楽しそうに走りまわっている。

 

 でも、引っ込み思案な性格のせいで、昔から周囲の子たちに話しかけられず、その輪に入れないでいた。

 

 だからいつも一人ぼっち。彼女の周りには親友と呼べる存在はなく、砂場が唯一の友達だった。

 

 砂は嘘をつかない。ちゃんと彼女の思い通りの形になってくれるし、負荷が大きければ何の文句もなく崩れ落ちる。唯一の思い通りになる場所。でも……。

 

 彼女の悲痛な叫び。


 「私もみんなとああやって遊びたかった」


 どうしてこうなっちゃったんだろう。と、頬を伝う熱いものを拭いながら、日課のように砂場で一人お城を作っていた。


 どのくらい時間がたっただろうか、ふと、人の気配を感じ見上げると、そこには、見たこともない同学年くらいの子が彼女を見下ろしていた。

 

 彼女は思う。


「ああ、この子も私をイジメに来たのかな? ぶたれるのはイヤだな、痛いし。でも、無視とかされるのはもっと心が痛いんだよ」

 

 その子は、何も言わずただ彼女を見つめているだけだったけれど、


「あっ、あの」

 

 不意に口が動き少し照れたような言い草で、


「一人じゃつまんないでしょ? 一緒に遊ぼうよ」

 

 彼女は一瞬耳を疑った。言葉の意味を直ぐには理解できなかった。それくらい、予想外の言葉がその子から発せられたのだ。

 

「えっ?」思わず聞き返す。


「だから、一人で遊んでいてもつまらないでしょ、さっ、行こうよ」


 そう言うとその子は手を差し、彼女はというと、少し迷ったけれど、恐る恐る差し出されたその手をとったのだった。


 それからは彼女にとって夢のような時間だった。追いかけっこをしたり、おままごとをしたり、その少女が待ち望んでいた日常がそこにはあった。晴れの日は汗を拭いながらかくれんぼ、雨の日は長靴と傘を差しまがら蝸牛の観察。毎日、毎日、時間がたつのも忘れて公園で遊んでいた。すごく楽しかった。だけど、少女の心の中には引っかかるものがある。


 それは、


「この子もそのうち私をいじめるかもしれない」そう思うと本気の笑顔は作れないでいた。


 あの子と出会ってから一ヶ月が過ぎようとしていた頃、彼女たちは当然のように公園前で待ち合わせ、二人図書館脇の道を歩いていた。ふと、視線を壁際に向けると、小さなダンボールが小刻みに震えており、なんだろう? と、小走りで近寄ってみると、蓋に「どなたか、この子を貰ってください」と綺麗な字で書かれていた。「何が入っているのかな?」気になった彼女はその中を覗いてみると、その中には一匹の子猫がその存在を賢明に訴えるかのようにニャーニャーと鳴いていた。


「君も一人ぼっちなのか。でも、私みたいにきっとお友達ができるよ」と、何の気なしに抱きかかえると、


「へえー、可愛い子猫だね」


 横からあの子の声。頭をなでようとすると、突然子猫が手の中で暴れ、それに驚いた彼女は思わず手を離してしまったのだった。


「あっ」


 そう言っている間に子猫はスピードを緩めることなく公園内を走り出してしまい、咄嗟に追いかけてしまう少女。


「そんなにあわてるとあぶないよ」


 後ろからあの子が何か言っているけど、あまり聞きとれない。


 必死で逃げる猫、夢中で追いかける彼女。


 どのくらい走ったろう。子猫が公園脇の道路に飛び出し彼女も追いかけて道路に飛び出してしまった。いつもなら右、左とちゃんと確認するのに、その日に限っては子猫に気をとられ、忘れてしまっていた。



「パアアアアアン」



 象の泣き声のような耳を劈く轟音に振り向く彼女が最後に見たものは、迫りくる悪魔のような黒い影と身動きがとれず、まるで脚が凍りついたかのようにその場に立ちつくし、ただただその陰が大きくなるのを見つめることしかできない自分の身体だった。




 第一章


 ………………

 …………

 ……

 階段を上るように、一段ずつ意識が浮上してくる。

 真っ暗な世界から薄白の世界に浮上していくような感覚で、もうじき覚醒するという瞬間、何かの衝撃が俺の顔を直撃した。

「痛えっ!」

 何が起こったか把握できずにゆっくりと目を開けると、そこには闇の世界が広がっていた。どうやら俺は寝ている状態だったらしいのだが、なぜ目を開けても闇なのだ? と、ぼんやりしているところでなにやら顔に固い感触を確認。何かが顔の上に載っているらしい。首だけを捻るとその物体がずり落ちるが、そこには、「改定・英和辞典」という文字が目に飛び込んだ。

「うお、英和辞典に襲われた!」

 半覚醒状態の俺は今ここで起こっている事が理解できない。しばらくは辞典を見つめぼんやりしていると、

「あっ、起きた?」

 頭上から降り注ぐ少し大人びた声。

 声の主を確認しようと視線を向けると、茶色基調のブレザーと若干短めのスカートに身を包んだ可憐な少女が俺を見下ろしていた。働かない頭でうすらぼんやりと思考を取り戻そうとするが、寝起きのため視点が若干ブレ気味だ。

「あ……れ? 麻衣か?」

「もう、ちゃんと起きないとダメだよ。新学期から遅刻しそうでどうするのよ。おじさんとおばさんから留守を預かってるんだから、しっかりしてよね」

 少し拗ねたような口調で口を尖らせるが、幼馴染が起こしに来るなんてのはギャルゲーやそれに準じる何か漫画的な展開だけで、男なら一度は憧れるシチュらしいのだが、腐れ縁の幼馴染なんて響きがいいだけで、現実なんてものは得てして面倒なものなんだぞ。

 寝起きにぼんやりそんな思いに耽っていると、

「やっと起きた。もお、先に下行ってるから早く来てよね」

麻衣は部屋を出て階段を小刻みなステップ音と共に降りて行った。

「……」

 やっとのことで上半身を起こし、しばらく目の焦点が合っていないかのように宙を彷徨ってみるのだが、さっきのは夢だったのか? 小さい女の子が出てきていた話だったような気もするのだが、完全に覚醒して時間が経過してしまえば夢のディテールなんていちいち覚えている訳もなく、まあ、よくある事さと、起き上がろうとすると、

「こらー早く来なさいー」

 窓の外から麻衣の怒号が聞こえる。こりゃ早いとこ支度をしなければ鉄拳制裁が炸裂しそうだ。おまけに遅刻するわけにはいかないし、そろそろ駅へ向かうとするかねえ。


 しかし、何だ。春の休みというのはこんなにも短いもんなんだな。重力加速機に入った素粒子のようにあっという間に目の前を通過してしまい、本日より新たな生活が始まるという訳だ。などと感想とも言えない陳腐な想いを抱きつつ学校へ向かい、駅から学び舎へと続く田んぼ道を二人で歩いていると、横を歩く幼馴染が不意に口を開いた。

「ねえ、蘭。同じクラスだといいね」

「その呼び方はやめろって言ってるだろ」

 ちなみに蘭とはおれのあだ名らしい。もっとも、今は麻衣しかこの呼び方はしていないがな。

「いいじゃない。もうこの呼び方に慣れちゃったんだもん。今更他の呼び方できないよ」

「なんだっていいだろ? 名前でもさ。何でよりにもよってそれなんだよ」

「何よー。昔は蘭子ちゃんなんて呼ばれてたくせに」

「だあ、そっちの呼び方はもっとやめろって言ってるだろ。なら、もう蘭で構わん」

「小学校の頃は女の子みたいな格好ばっかりしてたくせに」

「それは小一か小二の頃の話だろうが、いとこのお古だから仕方ないだろ。トラウマを思いださせないでくれ。それにこの街に帰ってきた時は普通だっただろ」

「はいはいそうね。ずっと入院していた病弱な蘭子ちゃん」

「だから、それは違うって何度も言ってんだろ。あれば病気じゃない。怪我だ」

「もう、ずっとその言い訳ばっかり。わかったわよ。じゃあ、そういうことにしていておげる」

「まったくもって納得がいかないのだが」

「あっ、クラス分けが掲示されてるよ。ねえねえ、どうなってる?」

 いつのまにやら校門前まできていたらしい。何かに夢中になると時の経つのは早いというが、駅を降りた俺たちは、何の感慨もなくここまで来てしまった。

 さっきまでのからかいモードが嘘のようにご機嫌になった麻衣はクラス分けボードを一組の方から確認し始めると、

「あっ、あったよ。で、私は……っと、あっ、同じクラスだよ」

 振り返って微笑むが、やっぱ普通に見るとカワイイ部類なのかなあ。中学の時も結構モテてたらしいからな。

 そんなたわいも無い、いかにも高校生然たる会話をしながら校舎へと向かって歩を進めた。

 まあ、一般的に言って新しい年度が始まるとなると、部活動やらなんやらの勧誘合戦が始まるものと相場が決まっている。昇降口付近には何かの部活か同好会のどちらかと思われる女子生徒がメガホンで必死に叫んでいるじゃないか。こういう勧誘合戦は定番中の定番で、俺も漫画やアニメでそんなシチュエーションを何度か見たことがあったかと思う。

 いや、実際見た事があるのだが、その女生徒に視線を向けた俺は、

「…………」

 こんな無言しか口から発することはできなかった。なぜならば、俺をはじめとする周囲の学生は、皆一様に困惑した表情を浮かべているからだ。

 と、言うのも、今日が何の日かと言うと、制服の真新しい俺たちがこの学び舎でバラ色と思われる生活をスタートさせる日、すなわち入学式の日なのだからな。普通入学式の日に部活の勧誘なんかするか? そういうのは学校生活に慣れてきた頃にするもんじゃないのか。

「ねえ、もう勧誘の人がいるよ。高校ってすごいよね」

 隣ではしきりに麻衣が感動しているようだが、すごいって言うか入学式の当日に新入部員を勧誘するなんざ、よっぽど人気のない部活か今にも人数不足で廃部寸前のところだな。

「まあ、高校には色々な人がいんじゃないのか?」

 あまり興味を持てずそそくさと校舎へ向かおうとして振り返ると、

「……」

 麻衣が立ち止まっていた。

「どうした?」

「あっ、あのね。あの子」

 そう言ってしきりに何かを叫んでいる女子生徒を指さすと、いつもの、のほほんとした様子でとんでもないことを口にしやがった。

「あの子一年生だよ」

「はい? 何言ってんだよ。部活の勧誘をしてるってことは上級生に決まってるだろ」

「だって、見てよあのリボン。私のと同じ色だよ」

 麻衣の視線に沿うように女子生徒の胸元を見つめると、確かに麻衣と同じ青いリボンが春の風に揺らいでいた。

「……」

 なにゆえにあの同級生と思われる女子生徒はこの日に勧誘をしているのだろうか。って言うか、まだ式典が始まっていないから、正確にはこの学校に入学していないだろ。

 そんなツッコミを心の中で入れていると、不意に女子生徒と目が合ってしまった。女子生徒は獲物を見つけた脊椎動物のように、口角を吊り上げるとこちらに向かい大股で歩み寄って来るじゃないか。

 ヤバイ、なんとなくこんな奴と関わらない方がいいかもと、俺の第六の感が告げている。咄嗟に麻衣の手を取り校舎へ向かおうとするが、振り向いた俺の前には既に女子生徒がニヤケ顔でそこに居た。

「ねえ、あなたたち」

 女子生徒は両手を腰にあてがい口を開く。うららかな春の陽気に包まれて、これから訪れる高校生活に周辺と同様桜色の妄想を抱いていた俺は次の言葉で完全に頭の中が凍りつくこととなった。

「私と一緒にもうひとつの世界を探しにいかない?」

 何の恥ずかしさも感じられず意味不明な言葉を堂々と言い切りやがった。太陽の光が肩にかかる髪に反射し、まばゆい輝きを見せており、それが桜吹雪と相まって幻想的に思える。ああ、おれは入学式前に夢を見ているのか?

「ねえ、ちゃんと聞いてるの? もう一つの世なんて面白いと思わない?」

「えーっと、何を言っているのかわからないのですが」

 女子生徒は前かがみになりながら俺の顔を覗いてくるが、何言ってんだ? こいつ。

周囲を見渡すと、他の新入生は俺たちを避けて通っており、遠くから冷ややかな目で見られまくっているじゃないか。

「だから、何度も言っているじゃない。私と一緒にもう一つの世界を探しましょうって」

 少しどころかとんでもなく痛い奴は腕を組んで堂々と胸を張っているが、何故えそんなに偉そうなんだ?

「いっ、いや、だから意味がわからないんだけど」

「意味なんて後からついてくるもんでしょ。今はわからなくていいの。そのうちきっと見つかるわよ」

 いやいや、本当に意味がわからない。

「ほら、あなたも」

 そう言って女子生徒は俺と麻衣の手を取り歩き出した。

「あっ、あのう、どこへ行くんですか?」

 まんざらでもなさそうな麻衣であるが、何故この状態で平静を装えるんだ?

「時間が惜しいのよ。こういうことはすぐに行動を起こさないと。今から探しにいくわよ」

「探すって何をですか?」

 麻衣の問いかけに立ち止まった女子生徒は、立ち止まり振り向くと、

「こんな退屈な世界じゃなくて、もっと楽しくって、幸せに満ち満ちているもう一つの世界をよ」

 校門脇に咲く桜に負けるとも劣らない笑顔で言い切りやがった。

 ちょっと待て。もう一つの世界だなんて、こいつは何を言ってんだ?

 俺がどうやって、この痛々しい同級生の呪縛から逃れようか必死になって考えていると、予鈴っぽい音に女子生徒は一瞬立ち止まり、

「あっ、チャイムが鳴っちゃった。もうすぐ入学式が始まるわね。じゃあ、いい? 今日の放課後からもう一つの世界を探しに行くわよ!」

 そう言うと同時に手を振りながら校舎へと向かい歩き出した。その後姿を呆けた顔で眺めることしかできない俺と麻衣。なんか、入学早々に厄介な事象に巻き込まれちまったぞ。

 なんてことを思いながら、つつがなく高校に入って初めての儀式(入学式という睡魔との戦いだ)を終え往年の軍隊よろしく一列になりながら教室へと戻ってきた。初日は席が自由らしく窓際の特等席を早々にゲットした俺は、校庭を見下ろしながら一息ついてみる。

 しかし、今朝の話はとんでもなく意味不明な事だよな。もう一つの世界だなんて誰が信じるってんだ。ここはアニメや小説の世界じゃないっつうの。などと入学式前のハプニングに思慮していると、

「あれ? あんた」不意に声が浴びせられた。

「まさか同じクラスだったとはね。ちょうどいいわ。もう一つの世界を探しに行きましょう」

「おいおい、さっきも言ったろ? まったくもって意味がわからないんだが」

「あら? それこそ朝言ったでしょ。意味なんて後からついてくるんだから。今はいいのよ。わからなくても」

 なんの戸惑いもなく再び意味不明な電波話が炸裂しやがった。

「さあ、今日の放課後から探しまくるわよ」

「やなこった。なんで俺がお前に協力せにゃならんのだ」

「何言ってるの。あんたはこの私が認めた人材なのよ。つべこべ言わずに従えばいいの」

 目を輝かせながら俺に言葉を吐きかえるが、何故、俺?

「なーんか。あんたとは初めて会ったような気がしないのよね。実は前に出会ったことがあるとか? そうなれば運命的よねえ」

 なんとなく、あっちの世界にトリップしているような気がするが、ここは華麗にスルーが吉と見た。

 電波女の話を右耳から左耳に流しながら、頬杖をつき、窓の外を見つめていると、

「ちゃんと聞いているの?」

 いてて、耳を引っ張るな。しかもお前の大声で耳鳴りがするだろ。

「この私が話をしてあげてるのよ。ありがたく思いなさい」

 両手を腰に宛がい、無い胸を張りながら俺を見下ろしてくるが、何なんだこいつは。

 俺が反論をしようと席を立つと、担任教師が小走りでやってきてこの学校最初のホームルームが始まるのであった。ちきしょう。入学早々こんな奴に関わっちまうなんて、俺の高校生活はどうなっちまうってんだ?

 まあ、そんな事に辟易としている場合ではない。ホームルームということは入学式後のお約束、自己紹介などというこれまた忌々しき儀式があるものと相場が決まっており、俺も若干どもりながらそのミッションを見事にこなした訳なのだが、安堵を醸し出している俺の後で、教室を一瞬で凍りつかせた奴がいたのは想像に容易いだろ? そこで判明したことは、あの電波野郎は巫部凜かんなぎりんという名前らしい。字が難しいと、ご丁寧に黒板に書きやがった。ついでに朝聞いたようなとてつもなく痛い事を言っていたが、忘れた方が懸命だろうな。

 若干のトラブルはあったものの、初日の行事は入学式のみらしい。ホームルームが終わると今日の工程は終了だ。巫部とか言う痛い奴が何か言っていたが、今日はソッコーで帰っちまおう。


 翌日。入学初日よりは通学も幾分落ち着き、ややのんびり目に麻衣と田んぼ道を歩いていると、

「我々は知らないだけなの。もう一つの世界はきっとあります。私と一緒に探しにいきましょう」

 なんとなく聞き覚えのある声が耳に入った。どうしてだろう、昨日もこんな会話を聞いたような気がするな。

 その声が発せられる方向を見てしまうと災いが降りかかりそうなスメルがプンプンと感じられるので、ここはああえてシカトしてだな。俺は、その呪文のような言葉を極力耳に入れないように麻衣と二人昇降口へと向かうが、不意にその足が止まることとなってしまった。はて、何故俺は前に進む事ができないのだろうか。

 首だけを捻って後を確認すると、案の定巫部凜がにこやかな顔で俺と麻衣の肩をがっちりとつかんでいた。

「おい、何やってんだ」

「あんた昨日逃げたでしょう」

 ここで動揺してはダメだ。毅然とした態度を保たないとな。そう重いながらも巫部は笑顔のまま俺に語りかけるが、笑顔のままっていうのが若干怖いぞ。

「さて、何のことでしょうか」

「だから、昨日の事よ。放課後にもう一つの世界を探しに行くってこと。まさか、忘れた訳じゃないでしょうね」

「おいおい、あれって本気だったのか? てっきり冗談かと思った」

「冗談な訳ないでしょう。まあいいわ。今日は気分がいいから特別に見逃してあげる。いい、これっきりだからね」

 腰に左手を宛がい、右手の人差し指をビシっと俺につきつけるが、人を指差すな。

「じゃ、今日の放課後からとことんいくわよ。覚悟しておきなさい」

 最後に何やら怪しげなスマイルを一つだして巫部は校舎へと向かい闊歩していった。

「……はあ、昨日の話ってマジな事だったのか?」

「そうだねえ、本気っぽいよね」

「せっかく高校生になって、楽しそうな学園生活を心待ちにしてたんだけどなあ、なんかとんでもない事に巻き込まれたよな」

「そう? でもいいじゃない。入学早々お友達ができたんだから」

 この子はなんてお気楽なんだよ、まったく。なんとなくこの状況って、「お友達と楽しく高校生活」ってよりも、ちょっと痛そうな奴に絡まれてカツアゲされている気分っぽいのは気のせいなのだろうか。

 午前中の授業とやらが終わり、昼休みが終わっても俺の気分は優れない。そりゃそうだろ、入学式前に女子から話しかけられるなんてことはこの上なく歓迎すべき事柄なのだが、それが、バラ色の情事ではなく、どちらかと言うと南米あたりで咲いてそうな毒々しい不吉な花の色の事情だったとはな。しかもあんな話だろ? まったくもって意味がわからん。これから俺はどうしたらいいのか、頬杖をつきながら、窓の外を見つめ暗澹たる気分を増幅させずにはいられなかった。ああ、このまま放課後が来なければいいのにな。

 しかし、まあ、時間の流れというものは残酷なもので、授業を二つ受けると放課後がやってきてしまった。はあ、これからどうなるのか、考えるだけでも憂鬱になっちまう。だが、ここでどうだろう。昨日のようにホームルームが終わると同時に脱兎のごとく廊下に飛び出しちまえば、巫部凜という存在から逃げ失せる事ができるのではないか? よし、我ながらいい案だ。ホームルームの終了と同時にダッシュだなこりゃ。

 担任教師がホームルームの終了を告げ、クラス委員長が起立、礼、と言った所でミッションスタートだ。鞄を掴むとドアに向かい一目散。勝利を確信し、引き戸を開いた瞬間、

「あんた、何やってんのよ」

 視線を上げた俺に巫部が仁王立ちで睨みを効かせていた。

「……」

 何だ? 何が起こったんだ? 確かに俺はクラスの誰よりも早くドアに到達した。だが何故巫部が目の前にいるんだ? 未だ呆けている俺のネクタイを掴むと、弾んだような声で廊下を歩き出した。

「さあ、行きましょう」

「あっ、あのちょっと……」

「なによ」

「いっ、いやあ、ちょっと俺、今日は用事があるんだけどなあ」

「へー、で?」

「で、とは?」

「で、何なのよ。私が会話をしてあげてるのよ。ありがたく思いなさい。さあ、行くわよ」

「ちょっ、ちょっと待てよ」

 俺の声なんか完璧にシカトし、理不尽さ全開で廊下を歩いていく巫部とその後を犬かなにかのようにネクタイを引っ張られながら歩かされているのだが、なんの罰ゲームなんだよ。一体。

 無言のまま、どこかの空き教室らしき所に俺を押し込めた巫部は、

「さっ、いきなりもう一つの世界を探すって言ってもどんなものかわからないわよね。今日は私がみっちり教えてあげる。さあ座った座った」

 そう言うと巫部はポケットから取り出した眼鏡を掛けながら腕まくりし、俺に向き直るのだが、何故に眼鏡?

「この方が気分出るでしょ。私女教師って響きに憧れているのよねえ。なんかそそられるものがない?」

 断言するが、まったくもってない。

「ほら! ウジウジ考えてないでさっさと座りなさい! もう、何回も言わせないの」

 これまたどこから取り出したか分からない差棒を俺につきつけるのだが、何で俺がこんな痛い奴の言うことを聞かなけりゃならないんだ。本気もんのアホの子だなこいつは。

 俺の同情なんて、甚だ感づいていない巫部は肩越しに俺の後に視線を向け、

「そんな訳でいい? 夕凪さん」

「はい、いいですよ」

 まるで麻衣がここにいるかのように話しかけるが、何言ってんだ? 咄嗟に振り向くと、麻衣がにこやかな笑顔で立っていた。って、何で麻衣がここにいるんだよ!

「もう、急に教室を飛び出して行くんだもん、ビックリしちゃったよ」

 いつものおっとりした表情で言葉を発する麻衣なのだが、何故この子はこの状況を受入れているのだろうか。

「これで役者は揃ったわね。じゃあ、早速授業を開始するわね」

 教壇に立つ巫部と律儀に机についている俺と麻衣という言う摩訶不思議な構図なのだが、何故俺たちはこんな先生と生徒ごっこに付き合わされているのだろうか。その答えは簡単だ。ここで断ろうものなら永久磁石並みのしぶとさでこいつは俺たちに付きまとう事相違ない。ならばここで少しでもそのリスクを回避しなければならないと考えるのはおかしな事じゃないだろ?

 そんな憤怒、落胆、呆然、その他全ての感覚を通り越してほぼ無の境地にたどり着いた俺に向かい、こちらは対照的に絶対的なやる気満々な様子の巫部は勢い良く黒板にこんな文字を書き始めた。

「Meny Worlds Interpretation」

 どうでもいいが、筆圧が強すぎでチョークが折れまくってるぞ。 

「あんたは、エヴァレットの多世界解釈という現象を知ってる?」

 振り向いた巫部は俺に対し差棒をビシっと突きつける。

「多世界解釈?」

「まあ、あんたのようなアンポンタンには分からないかもね。いい? 多世界解釈とは、世界は可能性の数だけ平行して存在し、それが次々と枝分かれしていくという考え方よ。もし電子がどこかで発見される可能性の波であったのなら、その可能性の分だけそれぞれの世界がある。つまり、ある地点における電子の観測者と別地点の電子観測者は、別々の世界で別々の電子を観測する人になるという事なのよ」

「ちょっと待て」

「なによ」

「言っている意味がわからんのだが」

「はあ? こんなのは量子力学の基礎中の基礎でしょ。なんでわからないのよ。これだから最近の若者は学力低下が懸念されてるのよ」

 心底落胆したかのように肩を落としているが、お前は俺と同じ学年の若者じゃないのか。それに量子力学だって? 言葉のイメージでそこはかとなく物理ちっくな話だし俺にとっては高等すぎて異世界の呪文のようにしか聞こえないぜ。

「それじゃ、シュレディンガーの猫はどう?」

 こんどは猫の話か、猫がどうしたって。

「かいつまんで説明するわね。例えば、蓋のある容器に生きた猫と、放射性物質のラジウムを一定量、ガイガーカウンター、アルファ粒子検知器付きの青酸ガス発生装置を入れたとする。もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すとこれを検出器が感知して青酸ガスの発生装置が作動し、猫は死ぬわよね。しかし、アルファ粒子が出なければ検出器は作動しないので猫は生き残る」

 訳がわからんし、それは動物虐待って言うんじゃないのか?

「確率の話よ。ここで、アルファ粒子が出る確率が五十パーセントだとしたら、一時間後に猫はどうなってると思う?」

「そりゃあ、毒ガスが発生して死んでるんじゃないのか」

「馬鹿ねえ、そんなの蓋を開けて見るまではわからないじゃないの」

「おいおい、揚げ足を取るなよ、なんだそりゃ、とんちか?」

「違うわよ、確率の問題なのよ。つまり、蓋を開けるまで、猫が生きているという状態と死んでいるという状態が一対一で重なっていてその二つの世界が平行に存在しているという訳」

「そりゃそうだろうな。蓋を開ければ解決するんだもんな」

 もっともだと思うだろ? 確かに猫の生死はわからない。だが、蓋を開ければたちまち解決じゃないのか。俺がよほど小難しい顔をしていたのだろう、巫部は研究成果を学会で発表している学者のように、

「問題はそこよ。通常、蓋を開ければ猫の生死がわかり、世界はどちらか一方に収束する。でも、収束しなかったらどうなると思う? 猫が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在してしまったとしたら? 二つの世界があることになるわよね」

 まあ、そうだろうな。確率の話っぽいし、二パターンの世界があってもおかしくないだろう。ただ、俺たちの存在している時間軸は一つだ。いくら二パターンの世界があろうが、確実に存在できるのは一つの世界のみな訳で、猫が生きている世界と死んでいる世界のうち、観測された世界が正となり、もう一つの仮定世界は棄却される。即ちそれは俺たちが呼吸をするのと同じくらい、至極当然のことだろう。だが、巫部は、

「私はそのもう一つの世界を探したいのよ。それはきっとこの世界のどこかに存在しているわ。探し出し、その世界へ行くことが私の夢なの」

 恥ずかしさをおくびにもださず堂々と言い切りやがった。ここまではっきり言われると逆に清々しささえ感じちまうだろうが。

「待て待て待て、なんでそこまでもう一つの世界に拘るんだよ。って言うか何でもう一つの世界の存在をそんなに信じられるんだ? 俺なんてまったく持ってそんな存在信じてないぞ」

「そんなの楽しそうだからに決まっているじゃない。考えてもみなさい。こんな退屈しかない世界じゃなくて、何もかも心が躍るくらい楽しいようなもう一つの世界があるのよ。それはきっと素晴らしいところだわ。まさしく桃源郷ね。私はそんな世界をこの目で見てみたいのよ」

 両手を腰に宛がい、胸を張りながら話終える巫部だが、なぜそこまで荒唐無稽な事を信じてるてんだ? 俺には到底理解できないレベルに達しているような気もするのだが。

「これで、もう一つの世界について理解できたでしょ。さあ、明日から探しまくるからそのつもりでいることね」

 堂々と言い切った巫部は颯爽と踵を返し、それを無言で見送ることしかできない俺と麻衣。

数秒後に麻衣が口を開いたのだが、俺にはその時間が数十分にも感じられた。人間、突拍子もない話を聞いた後は脳が無意識のうちに脳が記憶を削除にかかるらしい。

「ねえ、もう一つの世界を探すなんて楽しそうね」

「おいおい、麻衣まであんな奴の言葉を信じているってのか? 俺はまったくもって信じられないぞ。なんだよ、もう一つの世界って」

「でも、私たちがいるこの世界じゃなくて、もう一つの世界なんてロマンチックよねえ。一体どんな所かしら? 私はいるのかなあ」

 若干うっとりぎみに語っているのだが、肯定派がここにもいるなんて、二対一でその訳のわからん世界とやらを探すはめになっちまったっていうのか? 俺には到底理解できないね。


 さらに翌日の放課後、今日から捜索を開始すると朝から散々言われていたので、耳にタコどころか、ダイオウイカができてしまっている。が、そんなものに付き合ってられるかってんだ。ここは一大決心のもとホームルーム終了と同時に廊下へ向かいダッシュ! 昨日は見事にやられたが、今日は俺の方が紙一重の差で早かった! 後方では、巫部が何やら叫んでいるが、そんなもん知るかってんだ。

 さて、とは言ったものの、家に帰っても特にやることがないので、校舎内を意味もなく散策してみようか。さすがに上級生の廊下にいくのは躊躇われるので、もっぱら教室棟と渡り廊下で繋がった特別教室棟だけだが。

 一階、二階を一通り周り、三階へと歩を進めた。階段を登るもこれといって何もない。そりゃそうだよな。いくら高校といえどもいきなり何か面白そうなイベント。そう、食パンを加えた美少女が走って来て、あの角で出会いがしらにぶつかり、「どこ見てるのよ!」的な言葉から始まる淡いラブストーリーなノリだ。

「…………」

 やばい。冷静に考えるとすげー恥ずかしい上にとてつもなく寒いじゃねえか。そんなラッキースケベ的なイベントはリアルではあり得ないってーの。

 そんな、いっそうのこと二次元にダイブしそうな思考をしてみるが、当然のように特に何もないまま、三階の突き当たりまで来てしまった。

「しょうがない。戻るか」

 端まで来てしまったのだから、後は階段を下りるしかない。下りの階段に一歩踏み出そうとした瞬間。俺は気づいてしまった。

「あれ……屋上があるのか?」

 下りの階段の横には上りの階段。この階が最上階ってことは、残すは屋上のみってことになる。このまま帰ってもすることがなく、巫部に捕獲される可能性もあるので、乗りかかった船だぜ、と、俺は上りの階段に足を踏み出したのだった。


 今さらながらに思うが、この一歩こそが日常と非日常の分水嶺だとは思いもよらなかった。いやいや巫部にとっ捕まった時点で日常とは程遠いのだが、そんな事すら生ぬるいと思わせる出来事に巻き込まれていってしまうのか? 退屈しのぎに屋上に行くだけなんだ。この時の俺を責められないよな。


 ギギギと重い扉を開くと眩い光に包まれた。今まで校舎内にいたものだから、一瞬目が眩んでしまうが、そんなものは直ぐに収まった。

 茜色に染まろうかという空と少しの羊雲。さらにフェンスの群れ。その奥には田植えを待つ田園風景。いたって普通、どこにである放課後の屋上だ。扉を出てみると心地よい風が頬を掠め、校庭からは運動部の掛け声が聞こえていた。

「なかなかいい場所じゃないか」

 昼寝にはもってこいの場所だな。ここならば巫部の呪縛から逃れられるかもしれない。とりあえず散策してみるかと一歩踏み出したときだった。

「……?」

 一瞬だが、何かが視界の隅に飛び込んだ。二度見するように視線を戻すと、夕日に照らされた人影らしきものがフェンスに背を預け、体育座りの格好で俯いていた。ここは学校の屋上だし生徒がいても不思議ではないのだが、良く見てみるとその人影はボロボロのマントを羽織っているじゃないか。

 誰もいない屋上、いきなり現れた怪しい人影、ホラー要素満載でいつもの俺じゃ即行で逃げ出したくなるのだが、時の気まぐれか、その人影に興味を抱き一歩踏み出した。

 とは言ってもいきなり近ずきすぎるのも何なので、十分に距離をとって覗き込んでみると、どうやらその人影は少女らしい。しかも同級生くらいだ。マントを羽織っているので制服のリボンはおろか制服そのものも見えないが、確かに少女が俯き加減に寝ている光景だった。

 こんな所で一人マントを羽織っているってだけでなんだか穏やかじゃないじゃない気もするが、こんなところで眠り呆けているなんて、無防備もいいところだ。しかも、春になったとはいえ、夜は未だ冷えるからな。風邪をひいちまうんじゃないのか? もうすぐ下校時間だし、ここは起こしてやった方がいいのかねえ。

 そんな軽い出来心的なノリだった。決して邪な考えがあったわけじゃないぞ、俺は少女の目の前に立つと、少し身を乗り出した。

「あっ、あのう」

「…………」

 若干ビビリながら恐る恐る声を掛けてみたのだが、こんな返事しか返ってこない。まあ、返事が返ってこないと言うよりは、完璧にシカトされているようだなこりゃ。

 とにかく、ここで引き下がっては男が廃るってもんなので、再度勇気を振り絞ろうとしていると、

「……ぅん」

 何とも艶やかな声が上がった。一瞬ドキっとさせられたが、その少女の顔を除き込むと、どうやら寝息をたてていたらしい。よかった。いきなりあんな色っぽい声をだされても俺が困るってもんだ。

 そんな若干の感嘆を抱いた瞬間だった。

 いきなり少女が顔を上げ、覗き込んでいた俺の目の前に少女の顔がある。

 と、思った俺は次の瞬間宙を舞っていた。何だ? 今度は何が起こった? 冷静に判断しようとするが、既に上下の感覚がなく、上を向いているのか、下を向いているのか考えがまとまる前に激しくどこかに叩きつけられた。着地してから少し滑っていったということは、ものすごい力が加えられたってことだよな。

幸い頭を打つなどの重症ではなかったので、コンクリートで擦った足を引きずりながら、痛てえなこの野郎! と起き上がると、さっきまで俺がいたところが十メートル程先に見えるじゃないか。おいおい、こんなにすっ飛ばされてよく死ななかったもんだ。普通なら死亡フラグが立つくらいにヤバかったんじゃないのか?

 しかし、どうして俺は人間大砲のように滑空していた? 何かがぶつかってきたとか? いやいや違うな。まさか、あの少女に突き飛ばされたとか? まさかな。と言って先程の少女を見つけようとするが、さっきまで居た場所は既にもぬけの殻だった。

「……あれ? おかしいな」

 頭をかいたその時だ、上空に何かの気配を感じ、咄嗟に見上げた俺の視界に飛び込んできたのは――。

 少女だった。さっきまでフェンスに寄り掛かっており、可愛い寝息をたてていた少女が、空中で両腕を振りかぶり飛翔しているじゃないか。夕日に反射した何かが眩い光を発している。ああ、なんだか幻想的な光景だなと、呆然としながら見守る事しかできい俺と、時間が止まったかのように空中にいる少女。だが、次の瞬間に俺は現実に引き戻されることとなった。

 少女は振りかぶっていた何かを俺に目掛けて振り下ろす。その顔は何の表情も読み取れず、まるで蚊を叩き潰すような何でもない動作のようだった。

「くっ!」

 少女が振りかざした物が俺に触れようかとした刹那、瞬間的に身の危険を感じた俺は咄嗟に隣の空間に飛び込んだ。着地を考えていなかったものだから、派手に膝を擦り剥いてしまったが、そんな事を言っている暇はない。振り返った俺が目にしたのは、女の子には似合う筈もない長い何かを振りかざした格好のまま片膝をついていた少女だった。 

 少女は、ゆっくりと首を捻り、床にひれ伏している俺を見つけると、これまたゆっくりと立ち上がって、華奢な体を揺らしながらこちらに向かって足を踏み出した。

「ちょっ、ちょっ」

 やっとの思いで喉から振り絞ったが、まったくもって言葉になっていなかった俺の必死の叫び声も少女には聞こえていないのか、特に歩みをやめる気配はない。

 俺は、必死になって這い蹲っていた体に速攻で命令し、立ち上がろうと膝を立てると、少女が持っていた物が行き手を阻むかのように掲げられたのだが、目の前にあるそれは紛れもなく日本刀。通常日本刀ってのは七十センチ位だと何かの本で読んだことがるのだが、俺の目の前で鈍い輝きを放っている鋼はゆうに一メートルを越えており、文字通りの長刀だった。

 しかも、さっきまで俺が居た場所が結構な深さまで抉られてるってことは、その刀マジもんなのか!

「…………」

 少女は無言のまま俺を見下ろしている。その表情は、無表情という比喩がぴったりの何の意思も感じられず、俺をゴキブリや何やらと思っているのかもしれない。何だ? 俺が起こしたのがそんなにマズかったのか? それで不機嫌モードなこの子は八つ当たりをしているだけなんだよな? そうだよな? たのむ、そうであってくれ!

 そんな俺の思惑とは裏腹にゆっくりと少女の腕が上がる。なんだこりゃ、もお完全に意味がわからん。もうしかして、俺は死ぬとか? いやいや冗談がキツイぜ。そうだ! これはドッキリなんだ。誰かが仕掛けた罠に違いない。今もどこかで、誰かが俺を見て笑ってんだろう。ほらもう少しで「ドッキリ大成功!」と書かれたプラカードとヘルメットを被った奴が出てくるもんだ。そうに違いない。

 俺が現実逃避している間にも彼女は何の感情も見いだせず、一瞬視線が鋭くなると同時に、腕を振りかぶった。長刀が空を切る音と、もう思考停止状態でそれをぼんやりと眺める事しかできない俺がそこにいた。

 あと少しで、スイカ割のように俺を構成するパーツが飛び散るっていう間際、

「あっ、ちょっとタンマ」

 なんとも緊張感のない声が聞こえてきた。

「これって、人間だよね~」

 何だ? 何だ? この状況にまったくにつかわない声だ。ゆっくりと視線を上げると、少女が振りかざした切っ先が俺のすぐ頭上にあるじゃないか。

「ねえねえ、ゆきね。やっぱこれって人間だよね? どう思う?」

 口の動きから少女が喋っているようには見えないが、誰が喋っているのだろう?

「……わからない。でも、こいつ敵かも」

 今度はその少女の口が動いた。

「でも、見た目は普通の人間ぽいし、さっきはコンタクトをとろうとしていたように思えるんだけど」

 また、どこからの声。話しかけられた少女はゆっくりと口を開き、

「こんな所に一般の生徒がいるわけないじゃない。ここはいつも鍵がかかっていて誰も入ってくることなんかできやしないのに。だから、やっぱこいつは敵なんだよ」

 そう言って少女は、再び腕を振り上げた。ちょっ、ちょっと待てよ、やっぱ俺は真っ二つにされちまうのか?

「ちょっと待ってくれ!」

 今度はちゃんと言葉になってくれた口に感謝し、少女を見上げると、さっきまでの表情はどこへやら、呆けた表情で俺を見つめていた。

「ほらー、やっぱり一般人だったじゃない。よかったね。ミンチにしなくって」

 どこかからとんでもない声が聞こえてくるが、とりあえず刀が振り下ろされないということは、生命の危機から脱出したってことなのか? しかし、さっきまではなんの表情も見出せなかった少女が今度は魂を抜かれたかのように立ち尽くしているぞ。

「えっと、あの……」

 何を話していいのやら分からない俺は多少の焦りとともに、コミュニケーションを図ろうと、言葉を選んでいると、

「本当に一般生徒なの?」

「ああ、校舎内を探索しててたまたま来ちゃったみたいなんだけど……」

「何で、一般生徒がこんなところにいるのよ!」

 何となく説教されているような若干キレ口調で俺を睨んできた。

「いっ、いや、何でって言われても、散歩してただけであって」

 会話が成立したっぽいので、俺も落ち着きを取り戻し、少女を見つめている。背は俺の胸くらいだが、なにより、腰まではあろうかという絹のような髪がものすごく特徴的だ。

「さっきも言ったでしょ。ここは一般生徒が入れる場所じゃないんだってば。何で来ることができたのか説明してちょうだい」

 でも、言葉は使いは乱暴すぎる。

「いや、あの。普通にドアノブを回したらドアが開いたんだけど……」

「はあ、何言ってんの? ここは施錠されていたはずだけど! 本当の事を言いなさい! さもないと……」

 再び長刀を振り翳し始めた!

「本当だってば、普通に鍵が開いてたんだって!」

「まあまあ、お二人さん。そんなにいきり立たないの。ゆきねもいいわね。少し落ち着いたら?」

 再びどここからか声が聞こえてくるのだが、見た感じ、この屋上には俺とこの少女(ゆきねと呼ばれていたような気もするが)しか見当たらない。誰がどこで喋ってるんだ?

「分かったわよ、さくら。でも、ここに一般生徒がいるって少しおかしくない?」

「それはそうだけど、彼は間違いなく一般生徒だわ。気配も一般人そのものじゃない。いい、あなたは集中すると周りが見えなくなる悪い癖があるから、今度から気をつけなさい」

「わかったわよ」

「不貞腐れないの。さて、じゃあここで質問。ゆきねはさっきどうやってここまで来たの?」

「どうやってって、校舎内からここへ通じる階段を上ってきたに決まっているじゃない」

「じゃあ、そのとき、あそこの鍵を閉めた?」

「……あっ……」

「はい、解決。ゆきねがドアの鍵を閉め忘れたおかげで彼が屋上に来ちゃったってわけ。まったく、いつも言ってるでしょ。休む時は防御を固めてからにしなさいって」

「わっ、悪かったわね。いつもはきちんと鍵をしているんだけど……たまたま、そう、たまたま今日に限って忘れちゃったのよ!」

「でもねえ、そのおかげで彼はもう少しでミンチになっちゃところだったのよ」

 ゆきねと呼ばれていた少女がこちらを振り返る。

「だいたいねえ、あんたがこんあ所に来るのが悪いのよ! 立入り禁止って看板が見えなかったの!」

 今度は矛先がこっちにきやがった。

「いやいや、そんなのなかったって。あったら、来てないでしょ」

「本当でしょうね」

 少し目の色が変わったじゃないか。

「本当の事を言うなら今のうちよ。素直に私を探りに来たった言えば、その勇気に敬意を表し、腕の一本位で許してあげるけど、騙した場合は、満足に歩けなくなるくらいは覚悟しなさい」

 どちらに転んでも無傷では帰れないのかよ。

「いやいや本当だって。学校を探索しててたまたま来ちゃっただけなんだ。決して他意はないんです」

「ふーん」

 そう言って少女は俺の目を覗き込んだ。吐息がかかる距離に俺は少しドギマギしちまうじゃないか。

「嘘は言ってないようね。わかったわ。信じてあげる」

「よっ、よかったー」

 どうやら命の危機は脱したらしい。まったく、入学早々死んでたまるかってんだ。

「ん?」

 ここで、やっと冷静になれた俺は、ある事に気づいた。

「なっ、なあ」

「何よ」

「君ってここの生徒なのか?」

 見ればこの少女はこの学校の制服を着ていなかった。

「そんなことはどうだっていいでしょ。いいことを教えてあげる。しつこ過ぎる詮索は命をあっさりと失う原因になるわよ」

 そう言うと、もう俺から興味が薄れたと言わんばかりにソッポを向かれてしまった。やれやれ、とんだ目にあったが、ここは大人しく退散するかねえ。俺は踵を返すが、その瞬間に切られないなよな? と若干の不安もあったのだが、今こうして生きているということは杞憂に終わったって証拠だよな? こんな日はさっさと帰って寝ちまおう。

 


 そんな変てこな少女と遺憾ながら出会ってしまった翌日、一晩寝て起きてしまえば昨日の出来事などオブラードに包まれた苦薬のようにぼんやりしてしまうってもんで、いつも通りの田舎道を麻衣と歩き、教室の戸を開けると、

「あんた昨日何やってたのよ」

 巫場がそこに立っていた。

「よう、巫部。いい天気だな」

 仁王立ちで待ち構えている巫部に片手で挨拶をかまし、通りすぎようとすると、

「ちょっと待ちなさい」

 後ろから俺の肩をつかまれてしまった。くそう、スルーはできなかったか。

「放課後は探索だって言ってあるでしょ。それをサボるなんて、いい度胸してるわね。どんなおしおきが必要かしら?」

「いやいや、昨日は用事があって帰らざるを得なかったんだ。断じて故意ではない」

「本当でしょうね?」

「本当だって。ホントに何にもないぞ」

「わかったわ。そこまで言うなら信じてあげようじゃないの」

 何故、上から目線で言われているのか訳がわからない。

「まあいいわ、じゃあ、明後日から捜索を再開するわよ」

「明後日?」

「そう、残念なことに私にはちょっとした用事があるのよね。遺憾ながらこちらを優先させなくちゃならないの。でも、明後日からはちゃんと探すわよ。いい? 三日後にはもう一つの世界を見つけてあげるから覚悟しておきなさい!」

 人差し指をビシっと俺に突きつけると踵を返し自席へと戻っていった。

 しかし、本当に厄介な事になったもんだ。これが俺の属性なのか? 厄介な事に巻き込まれ属性ってか? そんなもんは願い下げだ。俺は普通の学校生活で良いのだからな。キャラ的にはモブで十分なんだけどなあ。そんな溜息交じりの愚痴は春の穏やかな空気の中に霧散していった。


 さて、放課後。今日は巫部の呪縛はないらしい。こりゃ早々に帰って録り溜めたアニメでもみようかねえと昇降口を抜け、駅へと続く田んぼ道を一人歩いていると、

「あっ、あのう……」

「ん?」

 弱々しい声が聞こえ何気に振り向くと、そこには、ショートカットの女生徒が一人佇んでいた。

「あっ、あのう、そのう……」

 女生徒は少し落ち着きのない様子で、視線を左右に向けている。

「どうかしました?」

 普段、あまり麻衣以外の女の子から声を掛けられることの無い俺だが、こういう時は紳士的にってのが鉄板の対応だよな。

 とりあえず、急かしてはいけないと女生徒の出方を伺うと、

「あの! 私は天笠美羽といいます! けっ、けっ、携番電話の番号を教えてもらえませんか?」

 いきなりの逆ナン。マジで? 

「私、初めて見たときからお友達になりたいって思ってました。それで、もしよければ番号……教えてもらえませんか?」

 少し顔を朱に染めた女生徒は上目がに俺を見上げるが、とうとう俺にも春が来たか!

「ダメ……ですか?」

「いやいや、全然だめじゃないよ。いきなりだったから少し驚いただけだ」

 涙目になるのは反則だろ。しかも、よくよく見ると結構な美少女じゃないか。こんな状況で断るやつなんざいないっつうの。俺は携帯を取り出すと、手早く番号を交換した。しかし、高校入学早々に麻衣以外の女子と連絡先を交換できるなんて幸先いい学校生活だな!

 交換を終えると、女生徒は「ありがとうございます」と最高の笑顔で嬉しそうに携帯を胸に抱え学校へと戻っていったのだが、俺はというと、飛び跳ねたい気持ちを抑え、あくまでクールに振舞おうと全身に指令を出すが、その顔はきっと今まで無いくらににやけていたんだろうな。

 女生徒の姿が校門に消え、早速携帯を確認すると、どうやら彼女に名前は天笠美羽あまがさ みうというらしい。顔と同じで可愛らしいなまえだな。と再びニヤケ顔全開になっていると、メールの着信。

「先ほどは突然すみませんでした。私、あなたにとっても興味があります。ですから、これからよろしくお願いします」

 可愛らしい絵文字も添えられており、俺の学校生活はバラ色だぜ! と思わずガッツポーズしてしまった。なんて返せばいいか、その場で三十分粘ってしまったのは言うまでもないだろ。

 

 その日は夜まで天笠さんとメールタイム。そこでわかったことは、隣町から通っていること、入学式の日に俺を初めて見たなど、本当にたわいもない会話だった。時間を忘れメールをするっていうのが、こんなにも楽しいものだったとはな。

 夜も大分更け、日付が変わろうかという時間なので、もう寝ると返信すると、

「もう、大分遅いですね。すみません。でも、もっとお喋りしたいです。学校の屋上とかならゆっくりお喋りできると思いませんか?」

「そうだね。特別教室棟の屋上なら静かで結構いい雰囲気だったよ」

 それだけ打つと、俺は携帯を枕元に置き、深い闇へ誘われるように思考を停止させた。その後、携帯が鳴らなかったってことは天笠さんからの返信は無かったってことだな。


 思考が段々と浮上し、視界が白くぼやけてきたころ、突然携帯が鳴り出した。アラームかと思ったが、軽快なJ‐POPはメールの着信音らしい。半分寝ぼけた状態で携帯を見ると、

「おはようございます。太陽さんが元気いっぱいでとってもいい朝ですね。学校でお会いしましょう」

 天笠さんからのメールに昨日から何度目かわからないニヤケ顔になってしまった。

 そんな朝から脳内お花畑全開ってなもんだ。休み時間も天笠さんからのメールは止むことを知らず、「俺ってリア充だ!」と大空に向かって叫びたいくらいだぜ。メールの内容はまあ、ありふれたものだけどな。

 昼休み。早々に弁当を食い、天笠さんからのメール三昧だぜ。と意気込むが、教室では他の奴の目もあるし、あんな話(妄想)やこんな話(妄想)はできないよな。ここは体育館裏にでもしけこむとするかねえ。

しかし、このミッションは巫部はもちろんのこと、麻衣にすら見つかってはいけない。空気のようにゆらりと教室から消えないとな。

 タイミングを見計らい、ダッシュ! どうやら誰にも見つからなかったらしい。上々機嫌の俺は思惑どおりに体育館裏にやってきたのだが、そこには予想だにしない人物が待ち構えていた。

「やっと来たわね。待ちくたびれたじゃない」

 少しむくれ顔になったのは、見間違うことのない、つい先日俺を殺しにかかったあの少女。(確か「ゆきね」と呼ばれていた気がするが)。さっきまでの浮かれ気分が一瞬で氷ついた。

「あっ、あのう、何で君がここにいるんだ?」

「何でって、あんたを待ってたんじゃない」

「俺を?」

「そうよ。もう、三十分も待ってんだから」

 待ち伏せか! まさか、この前の続きをしようってんじゃないだろうな! ゆきねは、俺に向き直ると、薄ら笑いを浮かべながらゆっくりと向かってくるじゃないか。いや、この構図は恐怖しか浮かばないぞ。そんな俺の妄想をよそに、涼しい顔の少女は、

「あんた、狙われているわよ」

「はい?」

 とんでもないことを言い放ちやがった! 狙われてるって俺がか? 何に?

「だからあいつらにマークされてるってこと」

「あいつらって? 誰だよ」

「呼称はわからない。でも、私と敵対している組織よ」

「……」

 いやいや意味がわからない。なんで、この少女と敵対している組織とやらに俺が狙われなくちゃならないんだ。第一「狙う」ってどういう意味だ。

「文字通り、あんたは奴らに狙われているわ。そう、命を。だから気をつけなさい。学校でも決して一人にならない事。できれば家でも誰かのそばがいいわね」

 いきなりの命の危機に思考が回らない。こいつは何を言ってるんだろうか。

「いやいやいや、命を狙われるとか冗談も大概にしてくれよ。この平和な世界でそんな物騒なことになるわけないだろ」

「あんたの周りではね。でもこの世界のどこかでは今も戦争が起こっている。平和ボケしているあんたにはわからないと思うけど、この場だけが世界の全てじゃないのよ。

 まあ、確かに、過激派やら政府軍なんてキーワードはニュースで良く見るのだが、ここは平和な日本だぞ。そんなのはどこか遠い国の話じゃないのか。

「まったく、これだから人間はダメなのよ。今置かれている状況が全てだと思い込んでる。勘違いも甚だしいわ。命の危機なんて身近にあって、誰でもすぐに死ぬ可能性だってあるのに」

「お前も人間じゃないのかよ、まったく。で、何で俺がその組織とやらに狙われなくちゃならないんだよ。ってか、そいつらは何なんだ?」

「そんないっぺんに質問しないでよね。いい? まず、あんたが奴らに狙われた理由。それは私と接触したからだと思われるわ。仲間だと思われたんじゃないかしら」

「たまたま屋上で出会っただけで仲間だと思うなんて脊髄反射的な考えじゃねえか。どうしてそうなるんだよ」

「今まで私は一人で戦ってきた。だから、接触する人間がいれば仲間だと思われるわよねえ」

「戦いとか仲間って一体どういうことなんだ。お前らは一体なんなんだ」

「それは……」

 そう言ってゆきねと名乗る少女は黙り込んでしまった。しばし訪れる沈黙。しかし、その静寂を破ったのは、意外な方向だった。

「ねえ、ゆきね。彼には話をしてもいいんじゃない?」

 目の前の少女とは違う声。だが、ここには、俺とこの子しかいないはずだが。

「だけど、さくら、こいつは一般人なのよ。こんなのに話してもいいわけ?」

「いいんじゃないかしら。ゆきねの不注意とは言え、あなた達は出会ってしまったのだから。一般の人間はあなたと出会うことさえできないはずなのに、彼は違った。これは何か運命なのかもね」

「うっ、運命なんて言いすぎよ!」

「まあまあ照れないの。だけど組織の件もあるから、彼には一応私たちの事を説明しておいた方がいいと思うわよ」

「はあ、こんな木偶の坊がなんの役に立つって言うのよ。こんなのはさっさとあいつらに殺られればいいんだわ。そもそも照れてなんていなんいんだからね!」 

 その本人が目の前にいるってのに、ひどい言われようだ。

「はいはい、でも、砂漠から一粒の砂を探し出すくらいの確率で役にたつかもしれないじゃない。それに、こっちの世界の協力者バディもいた方がいい気もするのよね」

「もう、好きにすればいいじゃない」

 プイっという擬音が聞こえそうなくらい、むくれるとゆきねはそっぽを向いてしまった。

 しかし、彼女は一体誰と話をしていたのだろうか。ここには見た感じ俺とゆきねしかいないのだが。

「さて、それでは人間さん」

 一体誰がどこで喋っているのか。まさかゆきねが腹話術でも使っているんじゃないだろうな。

「あらあら、話をする時は相手を見なさいって教わらなかった?」

「いや、教わりましたけど、どこにいるのか、さっぱり見当がつかないんですけど」

「えっ? 気づいてなかったの? それはごめんなさい。こっちよ」

 声がする方に首を捻っても何もいない。しいて言うなら、彼女の腰にぶら下がっている猫のぬいぐるみだけだが。

「ほらほら、ここよ」

 声の方に近づくが、声は少女の腰の辺りから聞こえる。

「もう、本当に分からないの? ここよ!」

 ついてにキレられてしまうが、ここと言われましても、どこにも人が見当たらないんですが。

「あなた、いい根性してるわね。それとも本当のおバカさん? ここだって言ってるでしょ!」

 段々声に怒気が混じってきた。こりゃ、早いとこ探し出さないと、俺の身が心配になってきた。

「ちょっ、ちょっと待ってくださいね。今見つけ出しますから」

「ふう、まあ、普通の人間には信じられないわね。しょうがない。現実を教えてあげるわ」

 その声を同時に彼女の腰にぶら下がっていたぬいぐるみが揺れだし、綺麗な放物線を描いて地面に着地した。

「…………」

 なんじゃ、こりゃ、ぬいぐるみが動いたぞ。

「これで信じられたでしょ。私はここよ」

「…………」

「これが現実なのよ。分かる? 私はここよ」

「…………」

「いい加減に理解しろやー!」

 ぬいぐるみはありえないほど跳躍し、俺の顔面に蹴りを入れたじゃないか。

「痛っ、ぬっ、ぬいぐるみに襲われたー」

 そりゃ、そうだろ、無機物の代表格であるぬいぐるみに襲われた日にゃあ、何がどうなったか意味がまったくわからん

「もう、疲れるからこれっきりにしてよね。いい? 私はここよ」

 胸をはるようにそのぬいぐるみは俺の目の前に立っていた。

「まっ、マジですか?」

「そうそうマジマジ、大マジよ。まったく、しっかりしてよね。それより自己紹介がまだだったわよね。私はさくら、この子の使い魔なの」

「使い魔? 使い魔っていったらアニメとか漫画とかに良く出てくる、魔術師と契約したってやつですか?」

 突然使い魔だといわれてもまったくもって意味がわからん。そんなのはファンタジーの世界だけだろ。

「そうそう、良くできました。私はこの子と契約して使い魔になったのよ。その詳細は教えられないけどね」

 もう、どこからツッコンでいいかわからない。いきなり命を狙われるとか訳のわからん話になったと思ったら今度はぬいぐるみが喋って使い魔だと? 冗談も大概にしてくれ。

「いや、すみません。少し頭が混乱しているようです」

 とりあえず、眉間を押さえて考えてみる。ええと、使い魔? なんじゃそりゃ。まったくもって意味がわからない。

「とりあえず、いいかしら」

 しびれをきらしたさくらが俺の前に進み出た。

「これから話すことは、あなたみたいな一般人には到底信じられないかもしれない。でも真実だからしっかり聞きなさい」

 しかし……猫に諭されているっていう構図はかなりシュールだな。

「いい、例えば、時間っていう概念はわかる?」

「はあ、時間っていったら連続していて、誰にも平等に流れるもんですよね」

「良く出来ました。そう、時間というのは、過去から未来へ向けて連続して続く世界共通の概念よね。学校ではそう教えるわ。だけど、その時間が一つじゃなかったら?」

「??」

 この人(猫)は何を言っているんだ? 時間が一つじゃないなんて。

「例えば、あなたがコーヒーと紅茶のどちらかを買おうか悩んだとして、結局コーヒーを選んだとする。この時の時間軸はいくつでしょう」

「は? コーヒーを選んだのなら、その後にコーヒーを飲むっていう時間軸しかなから一つですよね」

「そうね。通常ならばそう考えるわよね。でも、もし、紅茶を飲んでいるという時間軸も存在するとしたらどうかしら。二つの世界が存在することになるわよね」

「いやいや、それは結果論であってコーヒーを飲んでいる世界から紅茶を飲んでいる世界なんてわからないですよね。であれば、時間軸はその一つだと思いますが」

「そうよね。確かに片方の時間軸からもう一つの時間軸は観測できないから、その世界が絶対だと思うわよね。でもね。実際はあなたが紅茶を飲んでいる世界も存在したとしたら、どうなると思う?」

「いや、まったく想像できないですけど」

「この世界の他に無数に世界があるってことになるわよね」

「はあ、確かにいくつも時間軸が存在するのであれば、たくさんの世界が存在するとは思いますが」

「私たちはそれを平衡世界と呼んでいるの」

「へいこう世界?」

「そう、今私達が生活している世界とその昔に枝分かれした『あるはずだった世界』まあ、一言で言ってしまえばパラレルワールドよね」

もう一つの世界があるなんて漫画や小説の世界だけだろ。どうなってんだ一体。

「でね。ここからが重要なのよ。よく聞なさい。この平衡世界なんだけど、何も世界中の全ての人間が迷った時に発生するわけじゃないの。そんな事だったら、とっくに無限大クラスの世界が存在することになるからね。じゃあ、どんな時に発生するか。答えは簡単。特定の人間によって発生するのよ」

「特定の人間?」

「そう、私達はその人物をニームと呼んでいるわ。インド神話における『最初の木』という意味ね。この現象を引き起こしている最初の人物ってことよ。そのニームを私とゆきねは探しているの」

「ということは、平衡世界だの何だって、誰か原因の人がいるということなんですか?」

「そうよ」

 三文字で返答したのは、ゆきねだった。

「この世界のどこかにニームがいるはず。ニームを殺せば、平衡世界が無くなるのよ。で、一件落着ってわけ。私たちはその気配を追ってここまできたの」

「殺すなんて物騒な話ですね」

「そうでもないわよ。さくらが言った平衡世界が増えるとどうなると思う?」

「無限に世界が広がっていくだけなんだろ?」

「そんな簡単な話じゃなわよ。この世界には世界容量と言って平衡世界が存在できるキャパシティーがあるの。それを超えたら終わりよ」

「終わり……とは?」

「風船は空気を入れすぎるとどうなる? 一瞬で破裂するわよね。それと同じ原理で、増え続けた平衡世界はやがて世界容量に達してしまい、最終的には破裂してしまうってわけ」

「世界が破裂ってまさか」

「そう、一瞬でこの世界は無くなるわね。まあ、最も文字通り一瞬の出来事だから死という概念すら感じられないでしょうね」

 なんてこった。ゆきねの言っていることが本当ならば、世界が増えすぎるとこの世界が無くなるだと。冗談も大概にしてくれ。

「じゃあ、君たちは、その平衡世界をなんとかしようとしている存在なのか?」

「そうよ。私とさくらはこの世界と平衡世界を行き来できる。だから、この世界が滅亡しないようにニームを探してるってわけ」

「……」

 もう俺の想像できる領域を軽くぶっちぎっている気がする。何がどうしてこんなことになっちまって、何故俺が巻き込まれなくちゃならないんだ。

「ちゃんと理解した? 今ゆきねが言ったことはまぎれもない真実なの。私とゆきねは今までニームを探して生きてきたの。だけど、手がかりが掴めずじまい。このままじゃちょっとまずいのよね」

 さっきまで手で顔を洗っていたさくらがききねの隣に並び立つ。

「今はまだ平衡世界は少なくて世界容量は達しないわ。でも、別の問題があるのよね」

「別の問題、ですか?」

「平衡世界の中にはごくたまにだけれどバグが発生する時があるの。ニームが選択をしなかった世界がその延長線上じゃなく、闇に覆われるような感じで真っ暗な領域となってしまうの。で、その領域は文字通りバグだから異常な事象が数多く発生し、正常な世界まで浸食しようとするの」

 ハハッ、今度は闇に覆われた世界だなんて、これなんてファンタジー?

「それでね。そのバグはこの世界と平衡世界を覆い尽くそうと拡大を続けるの。そうなるとどうなると思う? 世界容量に達した時も終わるけど、バグに覆い尽くされた世界はその自浄作用により元に戻ろうとするわ。そなったら世界はその根源である人間を排除すると言われてるわ」

「排除って、もしかして」

「そう、全てをリセットして原始の世界に戻るでしょうね」

 なんてこった。世界容量に達してもアウトだが、バグが広がってもアウトだなんて、もう一体全体どうなってやがんだ。

「今現在では、世界容量に達するよりバグが広がるリスクの方が高のね。だから、ゆきねはバグが発生した時は速やかに処理しているのよ」

「じゃあ、今この瞬間もそのバグとやらが広がって世界滅亡へのカウントダウンが始まっているってことなんですか?」

「今現在、バグは発生していないわ。もし、奴が出てくるなら私が感じるもの」

「そうね、ゆきねはその勘だけは鋭いからね」

「その勘だけってどういう意味よ」

「まあまあ、いいじゃない。ところで人間さん。この話を聞いたのならニームを探すのを手伝ってもらえるかしら?」

 さくらはさらに歩み寄る。

「いっ、いや、一般人である俺にできることはないと思いますが」

「あまり過激なことは期待しないわ。この世界でバディがいるってことが重要なんだから」

「はっ、はあ」

「ふんっ! 精々足手まといにならないことね」

 何故かむくれ面になったゆきねは、用事は済んだとばかりに踵を返してしまった。その場に立ち尽くすしかできない俺。いきなり使い魔がでてきたり、平衡世界だのバグだのって、何がなんだかわからないっての。ただ一つ言えることは、このこの上なく危険な匂い漂う事象に巻き込まれちまったってことだけだ。

 はあ、一体俺が何をしたって言うんだ。なんか俺ばっかりが不幸な目にあっている気がするぞ。この先どうしたらいいのか……。

 いくら考えても妙案が思い浮かばない。ここは現実を逃避して寝ちまうのが一番かな。と、天笠さんとのメールもそこそこに放課後は速攻帰宅したのだった。


 さてさて翌日、昨日体育館裏で言われた突然漫画ちっくな世界に放り込まれてしまい、心の整理も自らの役割も納得せず、どうしたもんか登校する俺なのだが、教室に入った瞬間、

「さあ、今日から実地訓練よ」

「朝から元気だなあ」

 教室の入り口で巫部が仁王立ちしている巫部の横を何事もなかったかのようい通り過ぎようとする俺の肩がガシっと掴まれた。

「あんた、部長である私の言うことを聞けないってなら強制退部だからね」

「是非そうしてくれ。というかそんな訳のわからん部活に入ったつもりはない」

「うるさいわね。おとなしく私についてくればいいのよ。そんな訳でいい? 夕凪さん」

「はい、いいですよ。よろしくお願いします」

 仰々しくお辞儀をする麻衣なのだが、この適応能力が羨ましすぎる。

 そんなこんなで授業が一通り終了した。だが俺はこのまま手を拱いているだけではない。こんな面倒なことに時間を割いている場合じゃないんだ。先日も逃げ切れたってことは、今日もできるはず、がんばれ俺! と言わんばかりに、担任教師がホームルームの終了を告げ、クラス委員長が起立、礼、と言った所でミッションスタートだ。鞄を掴むと一目散にドアへ向かい、開けた瞬間、

「あんた、何やってんのよ」

 巫部が仁王立ちで睨みを効かせていた。

「……」

 一瞬で凍りつく俺。何だ? 何が起こったんだ? たしか、俺はクラスの誰よりも早くドアに到達したと思ったのだが、何故巫部が目の前にいるんだ? こららやまたまったくもってデジャヴュだなと、一人感心している俺のネクタイを掴むと、巫部は弾んだような声で廊下を歩き出した。

「さあ、行きましょう」

「あっ、あのちょっと……」

「なによ」

「いっ、いやあ、ちょっと俺、今日は用事があるんだけどなあ」

「へー、で?」

「で、とは?」

「で、何なのよ。この私が声を掛けてあげてるんじゃない。ありがたく思いなさい。さあ、行くわよ」

 巫部に引きずられながら昨日ゆきねに待ち伏せされていた体育館裏へとやってきた。

「さっ、今日はここを探すわよ」

「探すって何をだよ」

 巫部に引きずらられた事により完全に締まってしまったネクタイを少し緩めながらぶっきらぼうに言ってやると、

「決まってるじゃない。もう一つの世界をよ」

 本気もんのアホだなこいつ。俺の同情なんて、甚だ感づいていない巫部は肩越しに俺の後に視線を向け、

「そんな訳でいい? 夕凪さん」

「はい、いいですよ」

 咄嗟に振り向くと、麻衣がにこやかな笑顔で立っていた。って、何で麻衣がここにいるんだよ?

「もう、急に教室を飛び出して行くんだもん、ビックリしちゃったよ」

 いつものおっとりした表情で言葉を発する麻衣なのだが、何故この子はこの状況を受入れているのだろうか。

「これで役者は揃ったわね。じゃあ、早速行動開始!」

 巫部は腕を捲くる仕草をすると、体育館の壁やら脇の茂みやらを探しはじめた。しかし、本当にこいつは、もう一つの世界なんてものを信じているのかね。そんなもんある訳ないだろ。もし、あったとしてもこんな所にあるはずはない。時間の無駄なんじゃないのか? 

 しかし、昨日ここでゆきねに言われた事を思い返すが、考えれば考える程荒唐無稽過ぎる。本当に俺は昨日ここで話を聞いたのだろうか。まさか夢だったとか? さりげなくゆきねの痕跡を伺うが、当然のようにそんなものはないのだった。

 しかし、巫部の話しと言い、ゆきねの話しと言い、両方ともパラレルワールド的な世界の話だったような気がするな。最近はそんな話が流行ってるのかねえ? 

 しかし、まあしょうがない。巫部に捕まっちまった以上は適当に与えられたミッションをこなすしかないのか。

「ねえねえ、もう一つの世界なんてどんなところなんだろうね」

 隣では麻衣が目を輝かせているが、そんなもん俺が知るか。もう一つ世界だ何だってのはくだらない都市伝説にもならないぞ。だがしかし、ここで否定しようものなら、なんとなくこの先もずっとストーキングされるような気がする。ここは、適当に協力するフリでもしていればいいかな。どうせすぐに飽きるだろうし、やれやれ付き合ってやるか。

 捜索開始後二時間が経過したが収穫は一切なしだ。まあ、そうだろうな。俺自身何を探しているのかまったく見当がつかないのだから。廃棄された机の中や茂みの中、色々な所を一応覗いてみるが、至極普通で、そこに何かがあるという訳ではなかった。

「うーん。ないわねー」

「なあ、今日はもうこの位にしとかないか?」

 巫部は捜索開始時と同じように地面にはいつくばり、石をどけてみたり、側溝の蓋を開けているが、太陽が傾き始め、空が朱色に染まりかかってきた。このままの勢いじゃ夜まで探すなんてことになりかねないからな。

 俺が発した言葉を完全にスルーしていた巫部だが、不意に立ちあがると、

「そうね。今日はこの位にしておきましょう。あっさり見つかっちゃったらなんの面白みもないものね。続きは明日でいいわよ。解散!」

 そう言うと、巫部は踵を返し校舎へと向かって歩き出した。

「何なんだよあいつは」

 溜息しか出ない俺に対し、何の疲弊もしていないような麻衣はいつもと変らない口調で微笑みかけた。

「見つからないものはしょうがないよ。ねえ、私たちも帰ろっか」

「なんで麻衣はそんなに状況を受け入れてるんだ? せっかく高校生になったってのに、あんな訳のわからん女に協力する事になっちまって。これからが思いやられるぜ」

「そう? 私は結構楽しいけどな。放課後にもう一つの世界を探すなんて、なんかロマンチックじゃない? きっと見つかったら楽しいことがあるよ」

 あっけらかんと言い切るが、何故そこまでポジティブシンキングなんだ? 俺には到底理解できないね。

 それからは毎日のように放課後は形はおろか存在するかもわからないものを探すという活動だ。ったく、何の部活動だよ。だが、文句を言おうものならその十倍以上の勢いで逆ギレされる。何なんだよもう。

 だが、こんあ俺でも唯一の救いは天笠さんとのメールのやり取りだ。連絡先の交換をして以来ずっとメールのやり取りをしている。内容は、まあ、たわいもないもんで、そこから一歩踏み出すなんて勇気は、今の俺は持ち合わせていない。たわいもない会話で十分なのさ。今では、広大な砂漠にあるオアシスのように俺も荒んだ心を癒す唯一のコミュニケーションとなっていた。


 そんなこんなで、ある放課後、相変わらず傍若無人女、巫部に口撃されているのだが、今日は巫部の嫌味攻撃は通じない。俺は仏の心を持ったのだからな。いいさいいさ、言いたいのであれば言わせておけばいい。なんたって、俺の鞄の中には、春の到来の先にある春爛漫を予感させる「ブツ」が入っているのだからな。


 事の始まりは、本日の朝に遡る。

 麻衣と田園風景の中をなんとなく通学し、今日も巫部につきあわなくてはならないのかと、辟易としながら自分の靴入れを開けたのだが、その瞬間俺は自分の目を疑った。

 上履きは昨日と同じ位置に置いてあるのだが、その上には、なんともファンシーな封筒が上履きの上に乗っているじゃないか。

「??」

 疑問に思い、封筒を手にとってみるが、至って普通の封筒だ。表面には、猫を模したような模様があり、いかにも女子が使いそうな封筒だった。しかも裏面には、「天笠美羽」という手書きの丸文字。

「……!」

 言葉を失う俺。そりゃそうだろう。靴入れに入っているファンシーな封筒。しかもあの天笠さんの名前が書いてあれば、こりゃあ。誰だってついに春が来たと思うだろ?

 即行でトイレに篭り恐る恐る開封しようとするが、若干の動揺に手が震えがちだぜ。

 可愛らしい肉球マークのシールを剥がすと、これまたいかにも女子が使いそうな可愛らしいピンクの便箋が姿を現した。

 逸る気持ちを抑えながら、慎重に開いてみると、

「放課後、音楽室にてお待ちしています 天笠 美羽」

 短い文章だが、これで十分だ。ついに俺にも春が到来したってもんだ。しかも、あの天笠さんからということは、メールの延長からの恋愛なんてテンプレートに沿ったものだとしても俺の高校生活がバラ色一色に染まったも同然、トイレの個室の中で思わずガッツポーズをしちまったぜ。


 と、いう訳で、なんとしても今日は巫部の呪縛から逃れなくてはならない。麗しの天笠さん、待っていてください。

「なーんか、顔がにやけてるんだけど」

 目の前に仁王立ちする巫部は少し不機嫌そうに俺を見下ろした。

「いっ、いや、なんでもないぞ」

 やばい、嬉しさ有り余って表情に出ていたらしい。ここで感づかれる訳にはいかないよな。

「今日も本格的な捜索よ。いいわね」

「いや今日は少し用事があるのだが……」

「どうせ大した用事でもないんでしょ。さっ、行くわよ」

「いやいや待ってくれ。ものすごく重要な事なんだ。終わったらすぐいくから、見逃してくれ!」

「そう言って逃げる気じゃないでしょうね」

「絶対に逃げないって。だから、な?」

 両手を合わせて懇願してみる。俺はこれから音楽室へ行き、女子の告白を受けるなんてミッションを遂行しなくてはならないのだからな。ここは何を言っても見逃してもらわなければ。

「ふーん。よっぽど大事な用っぽいわね。わかったわ。私もそこまで鬼じゃないもの。だけどいい? 明日から毎日有無を言わず手伝うって誓いなさい。そうすれば今日は見逃してあげるわよ」

「する。なんでもする。だから、見逃してくれ!」

「そう、そこまで懇願するとわね。いいわ。今日は見逃してあげる」

 そう言って巫部は踵を返すが、これって無事逃れられたって事だよな。必死にお願いしすぎて、あいつが出した条件はあまりきこえながったけどな。

 とりあえず見逃してもらったっぽいので、音楽室へ向かいダッシュした。確か特別教室棟の三階だったはずだよな。


 階段を二段抜かしで駆け上がり、特別教室棟三階へ到着した。廊下には人影がなく、そこには無音が支配する静寂な世界が広がっていた。

 ここまでダッシュしてきた体を落ち着かせようと、三度深呼吸してから、俺は人生で初となる告白を受けようと歩を進めた。

 音楽室の扉の前、かなりいい感じでビートを刻む心臓に落ち着けと指令を出してから、ドアノブに手を掛け、一気に開いた。

 音楽室特有の匂いが鼻をつき、顔を上げた俺の目に飛び込んできたものは、一人の女子生徒だった。両手を胸の前で組み、静かに窓の外を見ていた。

「……」

 言葉を失う俺。茜色に染まりつつある背景と窓際に佇む女子生徒。どこぞやの絵画にあるような、なんて絵になる構図だ。

 女子生徒は俺が入ってきたのに気付いたのだろう。ゆっくりと振り返ると、やさしく微笑んだ。

「……」

 さらに言葉を失う俺。肩まである髪が風に舞い、少し短めのスカートを穿いた女子生徒は、やっぱり、というか、かなりの美少女だぞ。

 あっけにとられている俺を見つめながら、少女は口をゆっくり開いた。

「あっ、あのう」

「はっはい」

「まっ、まずは、来てくれてありがとうございます」

 若干どもりながら丁寧に頭を下げる天笠さん。

「ああ」俺は短く返答し、この季節と同じように、春を告げる告白という言葉を待っていた。、

「あっ、あのう、そのう……」

 天笠さんは、若干挙動不振ぎみに周囲の地面に視線を泳がせていたが、突然顔を上げると、

「なっ!」

 俺が一言発する間だった。手を後ろに回したと思ったら、勢い良く腕を振り上げるが、その手には何か黒光りするものが握られていた。

「パンッ!」

 爆竹を一発炸裂させたような乾いた音が音楽室に響く。何事かと音のした方に視線を向けると、天井に向けている黒光りした物体から煙が立ち上り、わずかな火薬の臭い。焦点が合ってきた俺の目の前にあるものは間違いなく拳銃だった。えっ? これって本物?

「あんたも、不運よね。あいつと関わらなければ死ぬこともなかったのにね。でも、残念、あんたはここで死ぬのよ」

 そう言って天笠さんは、握っている物を俺に向けた。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ、なんで君が……」

 やっと言葉になってくれた口に感謝し、何故俺がこんな事に巻き込まれるのかと逡巡してみたが、さっぱり心当たりがない。この前のメールやっさっきまでのしおらしい態度と百八十度どころか一回転半くらい違うじゃねえか。何がどうなってやがるんだ。

「何にも知らないって顔をしているわね。まあ、このまま殺しちゃってもいいんだけど、さすがに意味も分からなくて死ぬのは嫌でしょ。死ぬ意味もわからない雑種を消すなんて私も目覚めが悪いものね。時間が惜しいけどここは教えてあげるわ」

 銃口を俺に向けたままゆっくりと天笠さんは語り出すが、いきなりの変貌に思考がついていかない。

「あんたは、あの子に会ったでしょ」

「あっ、あの子?」

「狩人よ。私達の組織と対立する存在」

「狩人?」

 激しく動揺しまくっている俺は天笠さんの言葉を反芻することしかできない。

「もう、本当ににわからないの? それとも本当のおバカなのかしら? まあ、どっちでもいいけどね。特別にもう一回聞いてあげる。あなたは、先日の放課後、ここの屋上で狩人に会わなかったかしら?」

「屋上って……まっ、まさか、ゆきねの事か」

「ゆきねっていうの。まあ、こっちは名前さえ知らなかったんだけどね。でも、これではっきりしたわ、あなたはあの子の仲間ってことよね。じゃあ、死んでもらうわ」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ、仲間になったっていうか、勝手に巻き込まれただけなんだけど」

「ふーん。でも、この世界の秘密、知ってるんでしょ」

「秘密って?」

「平衡世界やバグの存在よ」

「っ!!」

「ほらやっぱり知ってるんじゃない。この事は私達しか知らない事象なの。一般人に知られたとあっては、その存在を消すしかないのよね」

 ものすごく冷徹な声なのだが、まさか、ここで俺はあっさり殺されちまうのか? 若干冷静になりかけたので、落ち着いて考えみるが、ついさっきまでおっとりした口調の天笠さんが、いきなり豹変した。しかし、ゆきねの事を知ってるし、何がどうなって……、まさか、ゆきねが言ってたやつらって天笠さんの事だったのか?

「きっ、君たちの目的はなんなんだ」なんとか、腹の底から声を絞り出す。

「もうすぐ死ぬんだから聞いてどうするの? まあ、いいわ。冥途の土産に教えてあげる。地獄の案内人にでも自慢するといいわ。いい? 動かないで聞きなさい。眉一つでも動かせば、あっと言う間に動かない肉塊のできあがりよ」

 若干低めの声での脅し文句に怖さ倍増だ。天笠さんはゆっくりと銃を下ろすと、語りはじめた。

「あなたは、この世界をどう思う?」

「この世界って? いま、俺たちが生活をしている世界ってこと……か?」

「そうよ。この何もかも行き詰った世界。地球由来の資源を貪り、人間以外の生物の命をなんとも思わない、己が欲求のためだけに生きている人間が蔓延っている世界よ。人類の進歩も望めない閉塞しきった世界。残るのは、このまま資源が枯渇し、奪い合いを始める愚かな人間だけよね」

 いやいや、そりゃ相当なネガティブ思考だぞ。

「私達天笠研究所は、この先の人類はいかにあるべきかを研究するために立ち上がったのよ。でも、研究を進めれば進めるほど、この先の人類に明るい希望はない。いくら、化石燃料を減らし、自然エネルギーを使ったって、たかが知れている。人類の欲望は飽くなきものだから、しばらくすればまた化石燃料を奪い合い、地球を傷つける。このまま地球を痛め続ければどうなると思う?」

「どうなるって……」

「最終的に地球のエネルギーはゼロになるわ。人類はいなごの大群と同じよ。資源を貪り続け最終的には空にしてしまう。唯一違うところは、他に逃げ込む場所が無いってこと。資源を食い尽くした人類に待っているのはそう、滅亡しかないのよ」

 いきなりの大演説だが、この女は何を言ってるんだ? 地球のエネルギーだの滅亡だの。いきなりすぎて言っている意味が半分もわからん。

「私達は悩んだわ。人類が生きていくにはエネルギーが必要。でも、そのエネルギーの大半は地球の生命。人類が生き長らえても地球が死んでしまっては元もこうもないわよね。この永遠の命題に直面したとき、答えがでたの」

「答えって」

「そう、こんな閉塞しきって先の無い人類ではなく、この世界を新しい人類に託してはどうかってね。そう考えると全てが解決するわ。このまま資源を貪り続けるのならば、その人類がいなければいい。でも、人類を存続させたい。なら、いったん全てをリセットし、新たな人類に世界の行く末を任せてもいいのかもしれないって」

「なっ、何言ってんだよ。人類を滅亡させるなんて」

「滅亡とは言ってないわよ。全てをリセットさせるの」

「同じじゃないか! でも、どっ、どうやって」

「簡単じゃない。あなたは、狩人からバグの話を聞いたんでしょ? バグがこの世界を覆うとどうなるのかしら」

 確かに、昨日ゆきねとさくらがバグについて話をしていたような気がする。バグがこの世界を覆いつくすと、えっと、確か『バグに覆い尽くされた世界はその自浄作用により元に戻ろうとするわ。そなったら世界はその根源である人間を排除すると言われてるの』ゆきねの声で鮮明にリフレインする言葉。そうだ、人間を排除って、滅亡のことじゃねえか。

「わかったようね。平衡世界のバグがこの世界を覆い尽くせば、地球は防衛反応として、今まで被害を受けていた人類を排除するのよ」

「でっ、でも、結局は人類がいなくなってしまうんじゃ」

「私達の研究によると、この世界は人類を排除後、また新たに生命体が生まれると言われているわ。その生命体が進化を続ければ何億年後かには、再び人類が誕生するかもね。でも、その間、地球はだれからも傷付けられない。再びたくさんの資源を貯め込むことができるわ。だから、私達は、バグが世界を覆うように観測しているの。いつか来るその日までね」

 なんて壮大は話なんだ。この世界をリセットし、また、生き物を太古の生命体からやり直しさせるなんて。もう、話が大きすぎてついていくのがやっとだ。

「と、いう訳でバグを排除する狩人が邪魔なのよ。バグを刈られていたらいつになってもこの世界を覆わないからね。そうしないと私達の研究も進まないもの。でも、安心しなさい。あんたは、一瞬にしてリセットされるんじゃなくて、ちゃんと痛みを感じて人間らしく死ぬことができるんだから」

 再び銃口が俺に向けられる。おいおいマジかよ。本当に俺はここで殺されちまうのか? ゆきねに聞いた話といい今日のこの出来事といい、もう、日常が恋しくなるくらい非日常なことに来ちまっている。

 動くことも逃げることも叶わず、掲げられた銃口を見つめるしかない俺。ゆっくりと彼女の親指が撃鉄にかかる。ああ、あの人差し指が動いた瞬間、俺の人生も終わるんだな。なんて、死の間際に以外と冷静なんだな。

 彼女の表情がわずかに動く、そしてさきほど聞いたばかりの破裂音!

「パァン!」

「キィン!」

 一瞬遅れて金属音。

 胸に激痛が走り、俺の意識が暗い池の中に沈み込むように薄れ…………てない?

 確かに銃声は聞こえた。直前までの銃口は俺を確実にロックオンしていたし、俺は銃を発射したと同時に逃げるなんて反射神経は持ち合わせていない。じゃあ、今、ここで何が起こったんだ?

 反射的に瞑ってしまった目を恐る恐る開くと、目の前には、小柄な女性生徒の背中が見えた。その向こうには、驚愕の表情となった天笠さんが呆然と立ち尽くしているじゃないか。

「だから言ったじゃない。奴らにマークされているって」

 振り返らずに聞こえるその声は間違うことのない、あの日、俺を訳のわからない厄介ごとに巻き込んでくれやがったゆきねのものだった。

「なっ、何で君がここに……」

「説明はあとよ」

 言うと同時にゆきねは天笠に斬りかかった。我にかえった天笠さんは咄嗟に銃を構えるが、ゆきねの方がわずかに早かった。しかし銃で受け止められてしまう。しばらくは力と力が拮抗していたが、天笠さんは左足を踏ん張ったまま、右足でゆきねを蹴り飛ばした。

「くっ!」

 後方に吹っ飛ばされながらも、見事に着地を決めたゆきねに、天笠さんは立て続けに二発銃を見舞う。ゆきねは、華麗な跳躍で右の空間に飛び込むと再び斬りかかった。

 だが、そこで俺がみたものは、左手に銃を持ちならが、背中に回した右手にナイフを握っている天笠さんだった。ここでゆきねが斬りかかり銃で受け止められてしまうと、天笠さんの右手がゆきねの左わき腹をとらえてしまう。しかも、ゆきねは両手で長刀を握っているもんだから、死角からの一撃に対処が遅れてしまう!

 咄嗟に危ないと叫ぼうとするが、時既に遅し、ゆきねの一撃を天笠は左手に持っている銃で華麗に受け止めていた。万事休す。天笠さんの右手がスローモーションのように、ゆきねのわき腹へと達しようかとする刹那……。

「えっ?」

 この声を発したのは天笠さんだ。優位に立っていたはずの彼女の声に右手を見ると、ゆきねのわき腹に届くか届かないかくらいで止まっているじゃないか。しかも、その手を良く見ると……。

「動物のシッポ?」

 獣と思われる毛の塊、良く見るとしっぽのように長いものが天笠さんの腕にまとわりついており、その拘束力で動きを封じられてしまったらしい。いくら力を入れようともその拘束は協力で、手をプルプルと震えていた。

「あらあら、戦況はちゃんと見極めなくちゃだめよ、ゆきねったら戦いになると夢中になっちゃうんだから」

 この聞いたことのあるお気楽な声は間違うはずもない。昨日散々聞かされた使い魔さくらのものだった。

「ふん、でも、こうして無事に勝ったんだからいいじゃない」

 汗だくでゆきねを睨みつけている天笠さんとは対照的に、余裕たっぷりのゆきね。おいおい、今はそんな状況じゃないですよ。

「こっ、この! ふざけるな!」

 天笠さんは渾身の力で刀を振り払うが、振り払われ長刀はそのまま切っ先を翻し、天笠さんの首筋に宛がわれた。

「くっ!」

 天笠さんが焦りの表情にみるみる変化していく。俺を余裕で殺そうとしたのに、いきなりのゆきね登場、しかも、隠し武器により勝利を確信した瞬間の大どんでん返し。

「勝負あったわね」

「くっ、殺しなさいよ。どうせこ人類は滅亡の道を辿るのみ、遅かれ早かれ皆リセットされるんだから」

「そう、じゃあ、楽にしてあげる」

 ゆきねの腕に力が籠められる。その切っ先を少しでも動かせば天笠さんは赤い液体をばら撒いて絶命するだろう。そんな、逃げ出したいほどの場面で天笠さんはやけに落ち着いている。もう、死を悟ったからなのか。彼女はゆっくりと目を閉じた。

「ふんっ!」

 だが、次にゆきねがとった行動は、意外なものだった。長刀を天笠さんの首筋から離すとそのまま鞘に納めてしまった。その場にへたり込む天笠さん。

「まあ、気が変わったわ。あんたを倒すのは簡単だけど、ここで殺しちゃったら目覚めが悪いからね。貸一つってことで」

 そのまま踵を返すと、俺の方へと向かって歩を進めた。一方、天笠さんはというと、

「私たちは必ずこの世界をリセットさせる。それをあなたは、世界の隅っこで指を咥えて眺めていなさい。いい、私たちは必ず目的を達成させるから。それと、ここで、私を殺さなかったことを後で後悔させてやるわ!」

 最初の方は良かったが、後半は思いっきり下っ端属性な捨て台詞を吐き、走り去っていった。

「……」

 今まで壮絶な命のやり取りを見せられていた俺は言葉が出ない。そりゃそうだろ、生きるか死ぬかの瀬戸際をこんな目の前で見せられたんだ。今まで平々凡々と生きてきた俺には、かなり刺激が強すぎだ!

 そんな思いに耽っていると、ゆきねの顔が目の前にあるじゃないか。

「もう、だから忠告したじゃない。奴らにマークされているって。今回はたまたま助けに来られたけど、もう少し遅かったらあんたはそこに転がってたのよ」

 なんとも恐ろしいことをさらっと言いやがる。

「まあ、いいわ。当面の脅威は去ったから、これでやっとニーム探しが本格的に始められるわね」

「そうね、と言いたいところだけど、いい、ゆきね。さっきも言ったけど、あなたは熱くなると視野が狭くなるきらいがあるわそこをなんとかしないとね。いつか、あっさりやられちゃうわよ」

「いいじゃない、さくら、勝ったんだから、結果が全てだって」

「勝ったからいいってものじゃありません。いいですか……」

 さくらの説教が始まったところで、ゆきねが不意に振り返った。

「ほら、何してんの、行くわよ」

「あっ、ああ」

 あんな戦いがあったにもかかわらず、余裕の表情のゆきねに、ああ、こいつらは本当に俺の知っている世界の存在じゃないみたいだな。と、ぼんやりと思ってしまった。

 ゆきねと別れ、田んぼ道をぼんやり歩きながら、さっきの出来事について思い起こしてみるが、しかし、ゆきねも天笠さんも本気で殺し合っていた。本気で命のやり取りをしていたのだ。今までテレビや小説なんかの中でしたみたことのない世界。金属と金属が派手にぶつかり合い、散る火花。お互いの命を狙った吐息。どれをとっても、今まで淡々と生きてきた俺には縁のない光景だった。だが、あの時の息遣い、二人を目で追うことしかできない緊迫感を顧みるに、あれはまごうことなき現実で、到底忘れられそうにない出来事だ。ということは、本当に俺はあのゲームや漫画のような世界に巻き込まれちまったってことなのか? 俺に主人公属性なんてある訳ないし、何が一体どうなってやがるんだ。

 とは言ってもあれは夢ではない訳で、この現実を受け入れなければならいのか。久々に吐いたため息は、茜色に染まった空に虚しく消えていった。


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