第20話 煩悩退散です!
煩悩は断ち切らなければならない。
そう思い立ってからの行動は早かった。
エルは早速、必要な荷物を袋に詰めはじめる。縄に、コンパス、地図……寒かったらいけないので、毛布も必要だ。あと、枕。この枕でなければ、眠れない。お茶もしたいので、ティーセットも。身なりを整えるための姿見に……。
「あっ、お弁当も必要ですね!」
今から厨房を借りられるだろうか。うんうん唸って思案していると、部屋にギーゼラが現れた。
「殿下、何処かへお出掛けなさるのですか?」
「ええ、ちょっと山篭りしようと思いまして。以前にハルが言っていました。山の妖精の力で、悪しき魂を清めることが出来るらしいのです。私、今からお願いしに行ってきます。早く、煩悩を取り払わなければ!」
エルは「他に要りそうなものはないでしょうか?」と、首を傾げながら、荷物の山を見た。
どうせなら、東方の秘術に倣って滝修行というものもしてみたいものだ。あと、何処かの国に生首を模したお守りがあるらしい。ドラゴンの爪なども効きそうだが、兄が戻ってこなければおねだり出来ないと思う。
エアハルトから教えてもらった知識が初めて生かせそうで、なんだか嬉しくなった。
「今から出掛けるのですか? お命を狙われているかもしれないのに、危険ではないでしょうか」
「あ……そうでしたね」
「それに、今日は午後から王前会議ですわ。有力貴族の皆様を集めての会議の場、先日の襲撃についても協議するそうです。殿下は出席されませんが、王宮にはいらっしゃった方が良いと思いますわ。山篭りでサバイバル生活する殿下の図も捨てがたいのですが、うふふ」
「うう……そうでしたね。忘れていませんよ。勿論。ただ、ちょおと失念していて……私は、どうすれば良いのでしょう。噴水を滝に見立てて修行でもした方が良いのでしょうか?」
「まあ、水も滴る良い女ですか? ステキです!」
目を光らせるギーゼラを余所に、エルは本気で頭を抱え込んで、その場に座り込んでしまった。
どうしよう。早く、この気持ちをなんとかしたいのに。
昨夜、ほんの少しだけ、エルはアレクに気を許してしまった。
だが、これ以上はダメだ。彼はいつか、国へ帰ってしまう人なのだ。好きになって良い相手ではない。
また独りにされてしまうのだから。
戦争は起こらない。
けれども、アレクはエルの傍にはいてくれない人だ。役目が終わったら帰ってしまう。ずっと一緒にはいられない。
好きになっては、いけない人。
「や、ヤダ、私ったら、『好き』なんて言葉で考えたら、本当に相手を好きみたいではないですか。ダメダメ、彼は『お友達』なのです。ああ、そう言えば、今日作った約束のクッキーがまだ渡せていませんね。違います、違います! 深い意味はないのです。だって、『お友達』ですから!」
いつの間にか赤く染まっていた頬を押さえて、エルはブンブンと首を横に振った。
これ以上にないくらい動揺しているせいで、思考を口に出してしまっていることなど、どうでもよくなっている。
そんなエルの様子を観察しながら、ギーゼラは「うふふふふふふ」と満足そうな笑みを浮かべて、妄想に耽っていた。
「とりあえず、お菓子を渡しに行ってはいかがですか? 二人きりになれるよう、わたくしが監視しておきますから。うふふふふふふふ」
「え、あ、は、はい。そ、そうですね。約束、ですものね。クッキーは渡さなければなりません……って、二人きりですか!?」
「しばらくは、あまりアレクシール様とご一緒のところを、他の方に見られない方が良いと思いますよ。なんでも、先日の騒ぎの首謀者がルリス側の人間だと噂する方々もいらっしゃるそうですし……花嫁を疑っている方もいらっしゃるそうです」
「そんな! 誰がそんなことを!」
ギーゼラの言葉に反応し、エルは大声を上げてしまう。
「どうしてですか!? アレクは私を助けてくれたのですよ! それが何故、命を狙うなんて。あんまりです! ……誤解です。ひどい」
確かに、同盟に反対する貴族は多かった。シュヴァイツァー伯爵などがそうだろう。この間も、アドリアンヌの陰口を言っている現場を見たばかりだ。
だが、命の恩人に疑いをかけるなんて、恩知らずも良いところだ。
もしかすると、父王たちもアレクを疑っているのだろうか。そうであれば、早めに誤解を解かなければならない。
アレクは良い人だ。無条件に人を信じてはいけないと、よく忠告されるが、エルには彼が悪い人間には見えなかった。
「元々、殿下たちの結婚に賛成していなかった人たちも多いですからね。妙なことにならなければ良いのですが……しかし、秘密をはらんだお二人というのも、なかなか美味しそうですわね。目の保養です。ということで、呼んで参りますけれどよろしいですか?」
「え、は、はい……」
とっさに頷くと、ギーゼラが物凄く楽しそうに身を翻して、部屋を出る。
「では、殿下は温室で待っていてください。わたくしがアレクシール様を呼んで参りますわ」
やけにノリノリで出て行ったメイドを見送って、エルは悩ましげな表情で額に手を当てた。
テーブルを振り返ると、今朝早く起きて作っておいたクッキーが置いてある。
自分なりに丁寧に包んで花まで添えてみたのだが、男の人は、こういったものを好むのかイマイチわからない。いや、自分から欲しいと言ったのだから、拒むことはないと思うが……。
手紙も添えた方が良いだろうか。昨夜は思うようにお礼も言えなかったし、感謝の意は示しておいた方が良いかもしれない。
そう思い、エルは紙とペンを手に取った。
「…………」
なにを書こう。
「………………」
まずは謝った方が良いだろうか。
「……………………」
いや、お礼も言わなければ。
「うう……ダメ、ですね」
ダメだ、書くことが浮かばない。
だからと言って、「ごめんなさい、ありがとうございます」一言だけでは、あまりに味気ない。
普段から公務などの関係で手紙を書く機会が多いと言うのに、情けない。貧相すぎる自分の語彙力を呪いながら、やはり手紙はダメだと思って紙を丸めた。
でも、直接なにを言えばいいのかもわからない。エルには、アレクに対する言葉が思い浮かばなかった。
早くしなければ、ギーゼラがアレクを呼んで来てしまう。
呼び出しておいて遅刻するなど、あまりに失礼だ。エルは悶々とする頭のままクッキーの入った包みを持って、温室へ向かった。
王宮の中を通って温室へ行く間、アレクになにを言おうか考えるので精いっぱいだった。
最初は「良いお天気ですね」からはじめよう。会話の基本だ。何気ない言葉から、徐々に言いたいことへと移していくのだ。
それから、温室の花について語って……いや、男の人が花に興味を示すのだろうか? もっと、違う話題の方がいい? エルには、男の人の趣向がよくわからない。
とりあえず、相手は魔法使いなので、兄のような武勇伝の一つや二つ持っているかもしれない。男の人は自慢話が好きだと聞いたことがあるから、それを尋ねれば良いだろう。
アレクはどんな冒険をしたのだろう。もしかして、竜を倒したことがあるのだろうか。何処かの魔法使いに弟子入りしているのだろうか。仲間には、どんな人がいるのだろう。勇者に会わせてくれたりするだろうか。
以前にエアハルトが話してくれた体験談は、実に素晴らしかった。特に、仲間を助けるために片腕を失ったくだりは、感動的だ。
あれ? でも、昨日会ったエアハルトには、ちゃんと二本の腕がついていた気がする。
おかしいな……きっと、仲間の魔法使いが治してくれたのだ。なにしろ、兄は伝説の宝剣まで持っているのだから!
そんなことを考えている間に、エルは温室まで辿り着いてしまった。慌てて見回すが、アレクはまだ来ていないようだ。
エルは安心しながら、温室の中央にある噴水の縁に腰掛けた。
明るい陽射しが、天井を覆うガラスから差し込む。
夜とは違い、明るい光が異国の木々や花を照らしている。充分な光を受けて植物たちが弾けるように喜んでいるのがわかり、こちらの気分まで安らぐ。
静寂の中で、噴水の水音だけが美しい旋律を奏でている。
水音だけで満たされていた温室に足音が響く。
来た……?
エルは緊張で身体が強張り、顔を上げることが出来なかった。そうしている間にも足音は徐々に近づき、自分の方へ迫ってくる。
「アレク?」
勇気を出して振り返る。
その瞬間、自然に笑みが零れたので自分でも驚いた。こんなに心臓が高鳴って緊張しているのに、少しもストレスだと感じていない。まるで、ずっと、アレクに会いたいと思っていたようだった。
いけない。そう思いながらも、アレクを待ち切れない想いが募ってくる。
だが、刹那。
振り返ろうとしたエルのうなじに強い衝撃が走り、急激に意識が遠退く。相手の顔を見る間もなく、大きく傾いた身体が、噴水の水盤へと吸い込まれていった。
「…………ッ!?」
大量の水が視界を覆い、蝕まれるように暗い闇に沈んでいく。
ぼんやりと、水面の上からこちらを覗き込む影だけが見えた。
だれ……?
苦しい、助けて。
そう叫ぼうとしても、口から零れるのは声ではなく、泡となった息だけだった。