第2話 お嬢様って呼ぶな!
アレクの顔がみるみる蒼ざめていった。
厚いカーテンの隙間から外の景色を眺めていたせいだ。
「は、腹が痛い。無理無理無理!」
「流石に馬車の旅は疲れましたか。ご安心ください、王宮はすぐそこです」
「イヤだ、遠回りしてくれよ」
「無理ですね」
サラッと断られてしまい、アレクは蒼い顔のまま俯く。
王宮に入ったら最後だ。身代わりが成功しようが、しまいが、二度と祖国の地を踏めない気がする。アレクにとって、この道のりは地獄のように感じた。
「大丈夫ですよ。グリューネは規律正しい国ですし、エアハルト殿下に悪い噂もございません。結婚式を控えた花嫁の寝室を夜這いするような真似はしないでしょう。そのようなことがあれば、私が全力で阻止します」
「阻止してくれるのは有難いけど、王子にナイフは投げるなよ? 頼むから、そういうの辞めてくれよな?」
「イヤだなぁ、お嬢様。そんなことは致しませんよ」
シャレットはコホンと咳払いしながら、懐にナイフを戻す。
そうこうしているうちに馬車は止まり、王宮の広場に入っていく。再びカーテンの隙間から外を覗くと、隣国からの花嫁を一目見ようと集まった民衆の姿が見えた。
「さあ、参りますよ。練習した通りにお振る舞いください、お嬢様」
「その『お嬢様』ってのが、わざとらしく聞こえるんだけど」
「そのようなことはございません、お嬢様」
「この野郎、あとで覚えてろ」
頭からベールを被り、アレクはシャレットを睨みつけた。
ゆっくりと開いた馬車の外を見遣る。
馬車の前に敷かれた真紅の絨毯。その両脇を囲むように、グリューネの近衛兵たちが並んでいた。視線の先にそびえる白亜の王宮は日射しを受けて黄金に輝いており、美しさと威厳を湛えている。
「さあ、お嬢様。こちらへ」
シャレットに手を取ってもらいながら、馬車を降りる。
本当は一人でも充分だが、今は侯爵令嬢アドリアンヌを演じなければならない。男ではなく、教養の行き届いた貴族の子女として振舞うのだ。
「なんて、清楚で可憐なご令嬢なのでしょう」
「お美しいですな。このような花嫁を頂けて、エアハルト殿下は幸せ者だ」
「我が国も安泰でしょう」
遠巻きに花嫁を見物していた貴族たちが賞賛の言葉を口にする。
元は犬猿の仲であった両国だけに、嫌味の一つや二つ言われるかもしれないと覚悟していたが、表で口にする者はいないようだ。
アレクは羽根つきの扇子で口元を隠して息を吐いた。
そう言えば、今まではあまり気にしなかったが、アドリアンヌは社交界の華と呼ばれる存在だった。数々の男を手玉に取る悪女などとも評されていたが、美人であることには間違いない。
自覚はないが、その姉に似ているということは、自分も美人の部類に入ってしまうのだろう。
どうせなら、美丈夫として持て囃されたかったが。
「侯爵令嬢。恐れ入りますが、こちらでお召し物を替えて頂きます」
「へ?」
王宮に入って早々、着替えのために衣裳部屋へ通されてしまう。突然のことに、アレクは焦って周りを囲んだ貴婦人たちを見た。
「王宮では、王族以外の女性が紅をまとうことは禁じられているのです」
「え、ええ。そう、なのです、か?」
自分の紅いドレスを見下ろして、アレクはぎこちない声で言いながら、笑顔を引き攣らせた。
ルリスでは、祝い事の際に紅い衣装を着るのだが、こちらでは事情が違うらしい。まだ婚礼を挙げていない花嫁は、王族ではないので紅はまとえないということだ。
政略結婚において、結婚式の当日に夫婦が初対面ということは珍しくない。だが、戦争状態にあった両国の事情を考慮して、こうして事前にアドリアンヌがルリス王宮へ入るという措置が取られていた。
それは、結婚前に王宮の習慣や婚約者に慣れておいた方が良いという配慮だと説明されている。一貴族の結婚単位では珍しいことではないが、国家間の政略結婚では珍しい。
だが、実際には、まだ結婚していない。王子の婚約者に過ぎないアドリアンヌの扱いは微妙であり、このような嫌がらせの的になってしまうのだ。
衣装部屋の奥を見ると、貴婦人がこちらを嫌味たらしく睨みつけていた。いかにも、権威あるお局様と言った風情だ。
もしかすると、嫌がらせの一種なのだろうか。わざわざ、ドレスを着替えさせて王宮での印象を悪くしようとしているのだ。
いきなり嫌がらせを受けて、アレクは内心で悪態を吐いた。しかし、顔には笑みを貼り付けなければならない。
「では、仕方ありませんね。お嬢様、別のドレスをご用意致します」
シャレットが一礼しながら、アレクの横に歩み出る。だが、貴婦人たちがそれを阻止した。
「ご令嬢のお召し替えは、わたくしたちにお任せください。殿方はご退室願いますわ」
貴婦人たちがシャレットに出て行けと迫るので、アレクは冷や汗を浮かべた。
知らない女に着替えさせられて、うっかり男だと露見してしまえば一大事である。
かくなる上は自分で着替えるしかない。しかし、どう考えても、不慣れなアレクが一人でドレスが着ることが出来るとは思えなかった。
だが、シャレットは構わず爽やかな笑みを浮かべて、アレクの後ろに立つ。
「陛下や殿下をお待たせしては忍びありません。五秒ほど、お時間を頂戴いたしますよ……お嬢様、失礼致します」
次の瞬間、シャレットが懐からなにかを取り出す。
一瞬、ナイフでも出したのかと思ったが、アレクの予想は外れた。
アレクの頭から足の先までを覆い隠す黒い布。
「なっ!?」
目の前から黒い布が取り払われた瞬間、アレクは青い眼を丸く見開いた。
先ほどまで、確かに紅いドレスを着ていたはずなのに、いつの間にか、鮮やかな青いドレスに変わっていたのだ。首や耳を飾っていた装飾品や、髪型さえも変わっている。
「い、いま、なにを?」
貴婦人たちも目を丸めて驚いていた。しかし、当のシャレットは涼しい顔で微笑みながら、黒い布を懐に仕舞い込む。
「執事修行の一環で、奇術師に弟子入りしておりました」
お前、どんな教育受けて育ったんだよ。
思わず突っ込みそうになるのを我慢して、アレクは苦笑いした。執事の仕事はよく知らないが、そんなことまでしないといけないものなのか。
「では、参りましょう。お嬢様」
シャレットは澄ました顔でアレクの手を取り、部屋を出る。
二人が退出した後、部屋の中からは、
「あの執事、とても素敵ではありませんでしたか?」
「わたくしも、あのような従者が欲しいですぅ」
「侯爵令嬢様がお羨ましいですわ」
などと黄色い声が聞こえてきた。一言だけ、「あの女狐めっ! 悪女!」と喚いていたのは、嫌がらせを仕掛けた首謀者のものだろう。
なかなか清々しい。
「……シャレット」
「なんでしょう?」
声を潜めて言うと、シャレットが憎らしいくらい爽やかな微笑を浮かべる。
「アディが見つかって、ルリスに帰ったら……手品教えてくれ」
「アレク様、いえ、お嬢様……」
少々恥ずかしい思いをしながら言ってみたのに、シャレットはなんだか可哀想な生物を見るような目でアレクに視線を送った。
「ご婦人からおモテになりたいのなら、手品よりも、その残念な頭の中身を磨かれてはいかがですか?」
シャレットが本当に不憫な視線を向けてくるので、アレクはそれ以上なにも言えないまま、扇子で顔を隠した。
残念な頭で悪かったな!
よほど叫びたかったが、今は我慢しなければならない。そうしている間にも、国王の元へ案内する使者の姿が見えた。