第16話 魔法使いは凄いのです!
月光花、月夜の貴婦人、月の妖精――様々な異称のある白い花。
その蕾が綻ぶのを見守って、エルは頭上の月を仰いだ。
王宮の庭園に設けられた巨大な温室のガラス天井から、月明かりが覗き込んでいる。
透き通る銀の光を受けて、白い花の蕾がゆっくりと開花していった。
昔、兄がエルのために贈ってくれた花だ。
やや北方に位置するグリューネには珍しい南国の花で、月夜にしか開花しないという。
この花が大好きで、以前は開花時期が来なくても毎日のように見に来たものだ。
――僕が魔法をかけておいたよ。この花の妖精が、きっと大好きなエルを慰めてくれるから。
悲しいことがあったら、この花が癒してくれるよ。そう言って笑ったエアハルトの顔を思い出しながら、エルは白い花に触れた。
花は慰めの言葉など発しない。美しさで悲しみを紛らわしてくれるだけだ。それでも、エルにとっては充分だろう。
ここが、自分だけの「泣く場所」なのだから。
ここで泣いたら、もう明日からは泣かない。そう自分に言い聞かせてきた。
昼間は、いつもギーゼラが一緒にいてくれる。けれども、泣かなければ癒せない悲しみもあるのだ。
今回もこれ以上、泣くのはやめよう。明日からは、平常心で生きなくてはならない。そう言い聞かせながら、エルは涙で潤んだ眼で愛しげに花を撫でた。
男の人は嫌いだ。いつもエルを置いて、何処かへ行ってしまう。
大好きだった一番上の兄ルドルフは戦場へ赴いて、そのまま帰ってこなかった。自分によく仕えてくれた臣下も戻らない者がいた。
みんな、国のために戦いに行くと言って。男として生まれた義務を果たすと言って。
みんな女に生まれていれば、戦争など行かなくて済んだのに。そう思うようになっていた。誰もが「帰ってくる」と嘘を吐いて、結局、エルを独りにした。
エルが好きだった男で帰ってきたのは、エアハルトだけだ。彼はいつも傷一つ作らず、楽しい武勇伝を聞かせてくれる。自分は魔法使いだから大丈夫だと言ってくれる。
決して、エルを独りにしない。
怖いのだ。好きになった人たちが何処かへ行ってしまうのが。
みんなを奪った戦争は嫌いだ。
戻って来られないかもしれないとわかっているのに、大丈夫だと笑いながら嘘をついて、死地へ赴こうとする男たちは、もっともっと嫌いだ。愚かで大嫌いだ。
敵国を恨めばいいのかもしれない。彼らを殺した相手を恨んだ方がいい。
でも、誰も戦争に行かなければ良いだけの話なのだ。帰ってくるなんて嘘をつきながら、死んでしまう愚か者がいなくなってしまえば、良いのだ。
男の人は嫌い。
平気で無茶をして、気がついたらいなくなってしまう。
「ごめんなさい」
本人に言う勇気のない言葉が空気に溶けて消える。
このまま、また一人いなくなってしまうなんて、耐えられなかった。エルのために無茶をして、いなくなるなんて……嫌だ。
エルと仲良くなりたいだなんて嘘をついて。
本当に、本当に嫌いだ。
「……エル?」
誰もいないはずの温室に、もう一つの声が上がる。驚いて振り返ると、予想外の人物が立っていた。
「な、なんで、あなたがッ」
エルは思わず声を上擦らせながら、後すさりした。しかし、その拍子に後ろ向きに身体が傾き、倒れていってしまう。
「あッ……」
だが、地面に倒れてしまう前に、力強い腕がエルの腰を抱きとめた。
「大丈夫ですか?」
顔を覗き込まれ、エルは悲鳴を上げそうになる。
男装のエルを抱きとめて見下ろす青い瞳。愛らしい桃色のドレスに反して力強いしなやかな腕が心地良く思えた。
アレクシール・ド・ベルモンドは、心配そうにエルを見下ろす。しかし、エルは気が動転して、そのまま相手の身体を突き飛ばしてしまった。
「イッ、ってぇ……」
突き飛ばされた衝撃で、天敵の男は顔を歪めて座り込んでしまう。その瞬間、エルはようやく彼が怪我人であったことを思い出して駆け寄った。
「す、すみませんッ。ごめんなさい」
「だ、大丈夫、です。気合でなんとかしますから……これでも、一応はルリス王室直属の騎士なんですよ」
無理に笑ってみせる顔に力がなくて、余計に心配が増した。見れば、珠のような汗も額に浮かんでいる。大丈夫なはずがない。無茶をしてこの場に立っているのが丸わかりだ。
元はと言えば、エルのために負った怪我。
顔は無事だが、こんなに綺麗な容姿をした人がそんな傷を抱えてしまうなど、一生かかっても償えない罪だと思った。
それだけではない。自分は、この人のことを怪物だと言って退けようとした。それなのに、彼はエルのことを守ってくれたのだ。そのことが申し訳なくて、言葉も出ない。
本当は会いたくなかった。なにを言えば良いのかわからない。
「どうして、ここに来たのですか」
しかし、胸に募る罪悪感と後悔とは裏腹に、口を突いたのは厳しい声だった。本当はこんなことが言いたいわけではないのに、自分では止められない。
「いや、よくわからないんですが、この花のところに行けって言われて……まさか、エルがいるとは思いませんでした」
「誰が私を愛称で呼ぶことを許可しましたか。あなたの家柄は王族の血を引いた名門かもしれないけれど、私はこの国の王女ですよ。立場を弁えてください」
「す、すみません……殿下」
違う。こんなことが言いたいわけではない。エルは自分でなにを言っているのか、わからなくなってしまう。
「殿下は、ここでなにをされているんですか?」
問われて、エルは口篭った。
放っておけば、「あなたには、関係ありません」と言いそうになってしまう。しかし、不思議と口からはなにも出なかった。
代わりに唇が震えて、両の眼に熱い涙が溜まっていく。
「殿下?」
「見ないでください」
そう言って、俯いてしまうのが精一杯だった。眼から溢れた雫が頬を伝って、地面に落ちる。
どうして、今、泣いてしまうのだろう。独りになるまで我慢出来ないのだろうか。
「大丈夫ですか?」
男が困った顔でエルを覗き込み、おもむろに手を伸ばす。闇に溶ける黒髪に白い指先が触れ、エルはわずかに肩を震わせた。
「どうして、泣いていらっしゃるんですか?」
「知りませんッ……あ、あなた、魔法使いなんでしょう? なんとかしてくださいっ」
「なんとかって言われても……」
「魔法が使えないと言うのですか。信じていたのに! あなたなんて……あなたなんて、最低です!」
本当は、そんなことなんてどうでも良いように思えた。それよりも、どうやったら涙が止まるのかわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
「殿下」
間近で声がした。急いで顔を上げるが、途端、顔がなにかに埋もれてしまう。
「…………ッ!」
驚いて、声も上がらなかった。
背中に回された両腕が力強くエルを捕まえる。しなやかな腕に抱き締められて、エルは自分の顔が真っ赤に染まるのを感じた。
「な、な、ななななにをぉぉっ!?」
わずかに上下する広い胸板から心地良い熱が伝わり、彼の浅い息遣いを感じる。胸を打つ鼓動の激しさがリズムとなって全身を駆け巡った。思考が完全に停止し、エルは息をすることすら忘れてしまいそうになる。
「涙、止まってますよ」
呆然としている頬に指が触れ、目の前の男が微笑した。言われてみれば、今ので涙はピタリと止まっていた。
「魔法?」
自分では、どんなに頑張っても涙は止まらなかった。
しかし、彼は簡単にエルの涙を止めてしまったのだ。まるで、魔法でも使ったかのように。
「いや、これは魔法と言うよりは、その……」
「魔法使いは、なんでも出来るのですね。す、少しだけ、見直しました」
恥ずかしさを隠しながら、エルはボソボソと呟いた。しかし、すぐに「言うべきことはそんなことではない」と思い出す。
エルは俯いてしまいそうになる顔を必死で上げて、相手の顔を見据えた。




