第14話 私のせいです。
私のせいだ。
自分を守ってくれた男が運ばれていく姿を思い返して、エルは両手で顔を覆った。
「私のせいで、あの人は……」
咽び泣く声が部屋中に響く。いつも一緒にいてくれるギーゼラも締め出してしまったので、その声を聞く者は誰一人としていない。エルは声をいっそう大きくして、寝台のシーツに顔を埋めた。
絨毯の上に広がった緋い血の色が忘れられない。呪いのように瞼に焼き付いて、一向に離れてはくれなかった。
怪物などではない。自分と同じ血をした、人間。エルを食べるどころか、命を二度も救ってくれた。
本当はわかっていた。認めたくなかっただけ。
裏切られたという事実ばかりに腹が立ち、彼に抱いていた好意そのものもなかったことにしたかった。自分だって身分を偽って兄の代わりをしているくせに、彼を受け入れる勇気がなかったのだ。
男の人なんて嫌いだ。みんな、自分を置いて何処かへ行ってしまう。
エルを独りにしてしまう。
けれども、彼といる時間が楽しかったのは事実だ。それは嘘ではない。女として尊敬もしていたが、心から楽しむことが出来た。仮装大会や食事など、あんなに楽しい時間を過ごせたことは、ほとんどない。
謝らなければ。
もしも、このまま彼が――考えたくなかった。大怪我をした人を見たことがないエルにとっては有り得ないくらい大量の血が流れていたのだ。
医者が処置を施したが、まだ目が覚めていないらしい。勿論、エルとエアハルトが入れ替わるときに世話になっている、口の堅い医者だ。彼が男だということは、絶対に漏らさないと思う。
このままになってしまうのは嫌だ。彼に会って、ちゃんと謝りたい。
「でも……」
今更、どんな顔をして彼に会えば良いのだろう。
なんと言って、謝れば良いのだろう。
「あいかわらず、僕のエルは可愛いね」
唐突に部屋の扉が開き、聞きなれた声がする。
エルは反射的に顔を上げ、入室した人物を見上げた。
† † † † † † †
一度目は矢、二度目はシャンデリアの落下。
警備の兵を強化したというのに、あまりに大胆な手口を使われてシャレットは頭を痛めていた。
眠ったまま寝台に横たわるアレクの隣に腰掛ける。
「アレク様」
二度目も、すぐ傍にいてやれなかった。
自分が隣にいれさえすれば、アレクに怪我を負わせることはなかったのだ。シャレットならば、エル共々、無傷で救い出すことくらい容易い。
なんと言っても、執事修業時代にサーカスに入団し、空中ブランコの花型芸人にまで上り詰めたのだから。
けれども、今回は怪我をしたアレクの正体が露見しないように尽力することしか出来なかった。エルフリーデの手配してくれた医者が事情のわかる男で、本当によかった。
幸い、アレクの怪我は命に関わるものではないが、背中に一生消えない傷痕を背負うことになった。
「こんなことなら、執事修行のときに医学もやっておけば良かったですね」
あいにく、薬草学は学んだのだが、外科手術までは網羅していない。
主のために万能で在ることが、ベルモンド家の執事に課せられた義務だというのに。一生の不覚だ。もう一度、修行をやり直さなければならないかもしれない。
いや、そもそも、シャレットには、最初からアレクを守る力がなかったのだ。こんな格好で花嫁の真似事をすることになったのも、全部シャレットの力不足だ。
いくら反対しても、一介の執事には当主や国王の意見を覆す権限はなかったが、それは言い訳かもしれない。
それに、シャレットはアレクに対して大きな不義理をしている。
例え、当主や国王に強要された結果とはいえ、アレクに対してこのような隠しごとをしている状態では――。
「本当に、ダメですね」
一度目も、二度目もアレクがいなければ、エルは命を落としていたかもしれない。あまり頭の良い主人ではないが、剣筋や運動能力は元々優れていた。そうでなければ、ルリス王宮の近衛騎士などにはなれなかったはずだ。
ルリスの近衛騎士は他国のようにお飾りではなく、歴史ある誉れ高い地位である。家柄だけで勝ち取れる代物ではない。
昨夜、シャレットから手品を教わるときも、失敗を繰り返しながら必死で習得しようと努力していた。
本人が恥ずかしがるので、あまり表に出したがらないが、いつも陰で努力しているのを、シャレットは知っている。
「アレク様、申し訳ありません」
幼い頃のシャレットは、代々ベルモンド家に仕える執事の家系という理由だけで、厳しい修行を強いられることに不満を覚えていた。
父親の意味不明な完璧主義に振り回されて、サーカスだの、奇術師だの、音楽家だの、冒険家だの、様々な分野の師に弟子入りさせられてウンザリだった。
それでも、耐えてみせると決意したのは、アレクに会ったお陰だ。
十も歳の離れた弟のような主人は、周囲から全く期待されていなかった。三男という立場を考えれば当たり前であり、そのように振舞うべきである。
しかし、アレクは抗った。
「俺、王宮の騎士になってやる! 自力でなんとかしてみせる。俺だって、やれば出来るって絶対に見返してやるからな!?」
幼い子供が粋がって発した言葉など誰も相手にせず、剣術の家庭教師すら雇おうとしなかった。それでも、アレクは独学で地道に稽古を行ったり、親の書斎に忍び込んで、騎士道の本を読み漁ったりしていた。
「それでは、隙だらけですよ。剣筋がデタラメです、アレクシール様」
いつものように裏庭で素振りをしていたアレクに、シャレットは溜息交じりで助言する。修行で仕込まれたので剣には多少の覚えがあったため、つい口を挟んでしまったのだ。
しかし、その後でシャレットは失言に気づいた。自分は、まだ見習い執事であり、仕える家の令息に口を出せる立場ではない。
すぐに詫びようとした。だが、アレクは青い眼を輝かせて笑った。
「お前、強いの? なぁ、相手してくれよ。一人じゃつまんないんだよ」
思いがけない言葉だった。シャレットは大いに戸惑ったが、相手をしろと命令されているのだから仕方がない。
アレクから差し出された木刀を受け取って簡単な説明をしてやる。
「私でよろしいのですか、アレクシール様?」
「アレクって呼んでくれよ。長ったらしくて、なんかイヤでさぁ。それに、俺独りじゃ、本を読んでも剣術がよくわかんなくってさ」
アレクは屈託ない笑顔でシャレットの顔を覗き込む。使用人を人として扱わない主も多い。が、この少年はシャレットのことを友人かなにかのように扱い、親密に距離を詰めてきた。
その距離感に躊躇して、シャレットは思わず引いてしまう。
「仮にも良家の坊ちゃまが……口調をお改めください」
「ア・レ・ク!」
なんだこのご令息は。戸惑うシャレットに反して、アレクは当然のように笑っている。
「……かしこまりました、アレク様」
とうとうシャレットが折れると、アレクは満足げに笑って木刀を振り回した。彼はくるりとシャレットを振り返ると、満面の笑みを浮かべる。
「お前、名前なんていうの?」
太陽のように弾ける笑顔に、シャレットは自然と唇を綻ばせた。
「シャレット・コストレと申します」
「よろしくな、シャレット」
あのとき以来、シャレットはアレクの従者だ。
父からはもっと優秀な兄たちに仕えろと言われていたが、シャレットは譲らなかった。
シャレットにとって、アレク以上の主人などこの世に存在しないのだ。