第13話 実は怪物ですね!?
胸に咲いた白薔薇に触れて、エルは仄かに頬を赤らめた。
エルは居心地が悪くなり、隣に座る女装男を横目で睨んでやる。
「勘違いしないでくださいッ」
これでは、自分がこの男に心を許したみたいではないか。そんなことは決して有り得ない。魔法が使えるのは凄いと思うが、それだけだ。
決して花をもらって喜んでいるのではなく、本物の魔法使いに会えて感激しているのだ。そう言い聞かせながら、エルは首を横に振る。
彼を一目見たとき、素直に美しいと思った。
本物の太陽みたいに輝く髪や笑顔が、とても眩しく思えたのだ。自分のような陰鬱な黒髪や藍色の瞳などではなく、光のような人。そして、強くて逞しくて……歌劇好きのエルが思い描く、理想の女性だと思った。
これからの時代は女が強くなくてはいけないのだ。きっと、エルが待ち望んでいた女性に違いないと確信していた。恋心にも似た熱情が胸に溢れ、彼女のためならなんでもしたいとさえ思った。
それなのに、蓋を開ければ男だという。
自分の理想が一瞬で崩壊し、酷く絶望した瞬間だった。その衝撃は、小手先の魔法ごときでは癒されるものではない。絶対に許せない。
だいたい、男のくせに、どうしてこんなに綺麗なのだろう。その時点で、いろいろと間違っている。
エルの髪は真っ黒で野暮ったく、じめじめした印象しかない。瞳の色だって、夕暮れみたいに暗くて、あまり美しくなかった。
自分と容姿が似た兄エアハルトは男だから気にしていなかったが、エルにとっては嫌で仕方がない。
黒髪ではドレスもあまり映えず、社交界でも目立たない存在だろう。髪に染粉を使おうとしても、黒髪の色が強すぎて、金や茶の粉ではあまり綺麗に色が変わってくれない。むしろ、逆効果だった。
男のくせに、自分に与えられなかった理想の容姿を神から授かるなんて……おまけに、魔法まで使えるとは。
「ま、まさか……ッ」
ある考えに辿り着き、エルはとっさに声を上げてしまった。すると、隣の男が不思議そうに首を傾げて、こちらを振り返る。
「な、なんでもありませんッ。あなたのことなんて、少しも考えていませんから!」
「俺のこと考えててくれたんですか?」
「だから、違います! 怪物かもしれないとか、吸血鬼かもしれないとか、食べられちゃうかもしれないとか、そんなこと、全然考えてませんからッ! 私を惑わそうとしても、無駄ですよッ」
「は、はあ……?」
なんとか誤魔化して、エルは男から顔を背けた。
そうだ。こんなに綺麗な男がいるはずがない。本で読んだ怪物の類かもしれないと思った。気を抜けば、エルの血肉を狙って食べようとするかもしれない! まあ、なんて恐ろしい!
「俺、怪物に見えるんですか? 角とか生やした覚えはありませんが!?」
「だから、違うといっているでしょうッ。正体なんて、見破っていないのですからね。だ、だから、私を食べる必要なんて何処にもないのですよッ! 秘密は守りますから!」
「何処をどう誤解したら、そうなるんです!? ……というか、俺、ちゃんとした人間ですし。触ってみます?」
「ひぇゃぁっ」
いきなり手を掴まれて、エルは狼狽して奇声を上げてしまう。
男の胸に手を当てさせられて、エルはガクガクと口を開閉させた。そして、手首を掴む男の手を無理に振り解く。
「俺、怪物でしたか?」
掌に残った鼓動の感覚が消える前に問われ、エルは思わず頬を染めてしまった。
「怪物にだって、心臓はありますッ。黒とか緑とか、そんな色の血が流れているかもしれないじゃないですか」
「俺、どんだけ嫌われてるんですか……普通にショックです」
「どこまでもですッ」
「酷いな……でも、そういうところが可愛いんですけど。面白そうだから、ちょっと弄ってみたいかも」
「なッ……そんなこと言われたって、騙されませんからッ。私なんて、食べても美味しくありませんからッ」
「いや、食べませんし……それとも、食べて欲しいんですか?」
「や、やっぱり、私を食べるのですねッ」
「…………そろそろ突っ込みに疲れたんですけど。くそっ、魔法使いとか適当なこと言うんじゃなかった」
「なにか言いましたか?」
「気のせいです。超気のせいです。なにも言ってません」
男が楽しそうに笑うので、エルは恥ずかしくなって顔を伏せた。遊ばれているようで、なんだか腹が立つ。
そうしている間にも、馬車が大聖堂の前に止まる。
エルは逃げるように立ち上がって、早々に馬車から降りようとした。
「殿下。一応、俺、婚約者役なんですけど」
いそいそと馬車を降りようとするエルの背に、男が不満の一言を漏らす。
そういえば、すっかり忘れかけていたが、今は兄の身代わりで公務中だった。
大聖堂の前には、王族を見ようと詰め寄る多くの民衆たちも集まっている。自分の婚約者ということになっている相手をエスコートして歩くのは当然だ。
「……お手を」
私情を押し殺して、エルは男の前に手を差し出した。すると、向こうも控えめに手を取って笑う。
「ありがとうございます」
手袋越しに手が触れて、なんだか気恥ずかしい。
笑っている顔は、どう見ても美しい令嬢なのに、手の感触は少し硬い男のそれだ。普段から剣を扱っているのか、華奢な見た目に反して、意外と頑丈だった。いつもフワフワと裾の広がるドレスを着るのは、その逞しさを隠すためなのだろう。
「まぁ、綺麗なお姫様……エアハルト殿下は幸せ者だわ」
「ルリスの姫というから、どんないけ好かない女かと思っていたが、可愛らしいお方じゃないか」
「心配だったけど、お似合いのようでなによりだよ。これで、次の代も安泰だねぇ」
「エアハルト様、お幸せに!」
「結婚式当日が楽しみだわ」
二人を見た民衆の賞賛を余所に、当人たちは沈黙してしまう。
本当に結婚するのは兄であるのに、自分のことのように恥ずかしく思った。それでも、エルはなんとか、笑顔を貼り付けてみせる。
本当のところはどうであれ、国民が結婚を祝福してくれて嬉しく思う。
グリューネとルリスは戦争状態にあった。その国の女性を娶るなど、国民には受け入れがたいことだっただろう。
貴族の中にも、未だに同盟を快く思わない者もいるのだ。先日の狙撃は、そういう派閥の者が仕業だったのかもしれない。
警備の兵士たちの間を進む。当初の予定よりも警備は強化されているようだ。
エルがエアハルトの身代わりを務めていることも、アドリアンヌが偽者であることは伏せてある。両人のことが知られれば、大変なことになってしまうだろう。
「なんだか、二人だけの秘密みたいで恥ずかしいですね」
男がこっそりと声を潜めて笑った。考えていることが読まれてしまったのだろうか。相手は魔法使い、いや、怪物なのだから有り得るかもしれない。
エルはわずかに眉を寄せながら、横目で男を睨んだ。
「勝手に人の心を読むなんて、最低です」
「あれ、同じこと考えてたんですか?」
「な……ッ」
やっぱり、読まれている? そう思った瞬間、急に心臓の鼓動が高鳴る気がした。この音も聞こえてしまっているのだろうか。
こんなものを聞かれたら、まるでエルが彼に好意を抱いていると誤解させてしまうではないか。
魔法使いであることは尊敬するが、このようなことに魔法を使うなんて最低だ。やっぱり、この男は悪い怪物に違いない。エルは強く確信した。
大聖堂のファサードを潜り、中へ入る。
内部は薄暗く、大きな薔薇窓やステンドグラスから差し込む淡い光に照らされて、神秘的で独特な空間を作り出していた。暗い天井に浮かぶ大きなシャンデリアの蝋燭が揺らめく様は、言い表すことが出来ないくらい美しい。
元々、宗教的な神聖さを醸し出すために考案された建築様式であるだけに、その効果は充分に発揮されている。グリューネ王国が誇る建築物の最高峰とも言える場所だ。
「…………?」
最奥に向かって歩く途中で、男が不意に天井を見上げる。
あまりに立派な建物なので、驚いているのだろう。ルリス王国の建築は格式が高いが古臭いと聞く。自国の誇りを見せつけた気がして、エルは一人で気分が良くなった。
「ふん。どうですか、とても素晴らし――」
「エル、危ないっ!」
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
唐突に名前が呼ばれたかと思うと、身体を思いっきり突き飛ばされていた。
「なん、で?」
気がついたときには、なにか巨大なものが床に落ちて破壊される音が、聖堂の内部に響き渡っていた。
「エル……大、丈夫、か……っ」
鎖が切れて、無残に落下したシャンデリア。
無数の蝋燭やガラス片が散乱し、金細工の骨組みが有り得ないくらいグニャリと曲がっている。
「エアハルト殿下、大丈夫ですか!」
「殿下、お怪我は!」
周囲の兵士や王妃がエルの安否を確認しようと駆け寄る。しかし、エルの瞳には、そんなものは映っていなかった。
私のせい?
自分を庇ってシャンデリアの下敷きにされてしまった人物……黒でも緑でもなく、自分と同じ緋い鮮血が床に流れるのを見て、エルは声にならない悲鳴を上げた。