第一話 トトキの風景
肌をなめる陽射し、程よく乾いた空気、夏と秋が7対3くらいの外気温、そして潮の満ち引き、さらには釣り場まで。
私が憧れを抱く女性釣り師、波澤翠さんと出会った日とほぼ同じ環境なのです。
あの日、まっすぐに海と相対する彼女の背中を目の当たりにして。
そこに凛々しくも美しい、宝石のような輝きを見ました。
そんな彼女が、巨大なチヌを鮮やかに釣り上げるその姿に、私は心の底から憧れを抱いたのです。
「ふぅ」
何年も待ち望んだ環境条件。
湧き上がる興奮を鎮めるために、短く息を吐き出します。
あの時とほぼ同じ条件で釣りができる。
あれから自分はどれだけ彼女に近づけたのか…今の私が試されます。
くぅぅ、ダメです。
大好物を撒き餌されたみたいに、否応無くテンションが上がってしまいます!
ふむむ。
では、こんな時にピッタリの格言を一つ。
『穏やかなることを学べ』
これもまた、アイザック・ウォルトンの言葉です。
彼の著書を締めくくる一文なのですが、シンプルかつ胸に響く名言だと思うのです。
「釣りたい」という欲を抑え、「まだ来ないのか」と逸る気持ちを整え、あくまでも泰然と為すべきことを為す。
まさに釣りの真髄なのです。
また、『学べ』というフレーズが重要です。
ただ欲をなくすのではなく、自らの精神力でもって、欲を保ったまま努めて穏やかになるという矛盾を求める、なかなか厳しい一言なのだと思うのです。
私はまだ、完全に実践できてはいません。
あの日の凛々しい背中は遠いのです。
けれど、そうなれるように日々努めています。
釣り師を志した日と同じ環境、同じ釣り場でチヌを狙うことが出来る。
これは、まさに千載一遇のチャンス。
そんな大事なタイミングでこそ、穏やかでなくてはいけません。
だから私は……眼を閉じてイメージします。
全方位に広がる凪いだ海。
水中には一匹たりとも魚はいなくて。
でも私の周りには、空中を泳ぐ色鮮やかな魚たちと巨大な鯨。
足元に広がる、鏡のような水面にちょんと座って。
意味もなく水中に糸を垂らしながら、彼らをぼーっと眺める…。
……そんなイメージ。
眼を開くと、心が凪いでいるのを感じます。
余談ですが、歩いている途中で急に立ち止まって、こういう事をやり始めると、大抵は微妙な表情をされたり、注意を受けたりしてしまいます。
そうすると、凪いだ心に波紋が少し広がるのです。
でも陽毬ちゃんと称美ちゃんの二人は、「負けないぞ!」って言いたげな笑顔と「準備はできましたか?」と問いかけるような柔らかい微笑みで、私を出迎えてくれます。
すると、凪いだ海のイメージに、暖かな夕陽の色合いが重なるのです。
「うん、いい感じ」
ちゃんと落ち着いたところで、気を取り直して釣りに集中します。
……の前に、まずは今日のサカナを決めなくてはですね。
私たちサカナ部は活動開始の際に、今日は何を釣るか話し合います。
大抵の場合は、陽毬ちゃんが今日の料理を提案して、それに使用する魚を私が釣るのです。
季節や場所によっては、その魚が棲息していないこともあるので、その場合は違う料理を作ってもらう様に言いますが。
でも、基本的には陽毬ちゃんの注文に沿います。
狙った魚種を、狙い通りに釣る。
それが釣りのあるべき姿ですから。
中には、目的もなく竿を振る人もいますが、あれは単なる腕の運動であって、釣りではないです。
数学で例えれば、得るべき解答も分からずに、何となく数式を弄ってカッコつけてるだけなのです。
確かにルアー釣りでは、海へとルアーを投げ込んで釣糸を巻く、それ自体が楽しいという面もあります。
それでも対象の魚が不明確な状態のまま、闇雲に投げまくったところで、まず魚は掛からないのです。
それでは結局、釣りというより棒を振るスポーツだと思うのです。
話が逸れましたね。
ともあれ、あくまで釣り師になるための修行として、日々の釣りをしている私にとって、特定の魚さえ狙っていればいいので、言ってしまえば狙うべき魚はなんでもいいのです。
むしろ、思いもよらない注文に対して応えるための道筋を、手持ちの知識や道具を使って生み出す、というのは良い修行になります。
だから今日もいつも通り、陽毬ちゃんはレシピを用意していることでしょう。
でも、今回は譲れないのです!
磯に到着早々、私は申し訳無さと一緒に、そっと手をあげました。
「どうしたの、トトっち?」
陽毬ちゃんが、曇りのないキラキラした瞳で覗き込んできます。
その斜め後ろでは、優しく微笑む称美ちゃんが、私の背中を押すように頷きかけます。
二人の真っ直ぐな視線に、遠慮は無用なのだと思い出しました。
『三人がそれぞれ、自分らしく邁進できる居場所を』
それが、この部の成り立ちなのです。
だから私は、
「今日はチヌが釣りたい」
まっすぐな我儘を口にしました。