第漆話 賞味いたしますわ~称美 天真爛漫~
昭和初期を想わせる、驕奢な洋館。
華々しくもゆるりと息衝く屋敷の周囲には、自然公園と見紛うほどの庭園が広がっている。
巨大な噴水、薔薇の生垣、純麗な芝生。
美しい緑の中を、3歳くらいの幼女と10代後半の少女が走り回っていた。
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「わあああ〜い!」
美しく整った生垣の間を、一人の幼女が心底楽しそうに駆け抜けてゆく。
まん丸な瞳と整った顔立ち。
利発そうに切り揃えられた髪と可愛らしいフリルドレスが、ふわりふわりと風に踊る。
「お、お待ち下さいお嬢様!」
対して、彼女を追いかけるのはどこか愛嬌のある少女。
年齢は大学生くらいだろうか。
黒のエプロンドレス、いわゆるメイド服の裾をたくし上げ、セミロングの髪を乱しながら、子供の底無しなスタミナに必死で食らいついてゆく。
「ぃぃ〜やっほーう!」
「は、はしたないですよ、お、お嬢様!」
わずか3歳にして身についているのは、フリルドレスを一切汚す事のない優雅な所作。
その美しさとは裏腹に、幼女は狭い隙間をちょこまかと走り回り、うまく追跡の手を逃れ続ける。
「ひゅ〜うぃごぉ〜!」
「お、お勉強を、さ、再開しないと、……というか、な、なんか聞いた事ある、言い方のような」
配管工の某有名ゲームを連想するメイド服の少女。
「まぁ〜りぉう!おーきどーきー!!」
「ど、どこで覚えたんですか!?」
私が怒られるー!と叫びながら、メイドが追跡スピードをあげる。
が、その出鼻を挫くかのように、突如立ち止まる幼女。
機を逃すまい!とメイド少女が確保。そのまま抱き上げた。
「や、やっと捕まえた!」
「よし。じゃあ、おへやにしゅっぱつ!」
さっきまで全力で逃げ回っていたにも関わらず、捕まった途端にけろっとしている。
それどころか、勉強部屋へ連れて行け!とメイドの腕の中から指示を出す始末。
子供らしい気分屋ぶりであった。
「はやく!はやく!あと5分ね」
さらには急かしてくる。
「疲れすぎて走れませんよ。それに危ないですから、ゆっくり歩いて戻りましょう」
「でも、おとうさまがかえってきちゃうよ?」
「え……」
「だってさっき、おとうさまのくるまがみえたもん」
その一言に、顔色がさーっと青褪めるメイド少女。
「さ、さっきって、どれくらい前の事ですか、お嬢様?」
彼女の雇い主であり、幼女の父親であり、そして現十六夜家当主でもある、十六夜壌砥。
彼はいつも帰宅して三十分ほど書斎に篭り、その後に愛娘の様子を見に来るのだ。
「んーとねぇ」
小さなお嬢様はアゴに指を置いてわざとらしく虚空を見上げると、たっぷり間をとってから言い放った。
「30分くらいまえかな?」
「どうしてすぐ言ってくれなかったんですかぁ!」
ーーー五分後
「ハァ、ハァ……」
「ふんふふん〜♪」
お荷物を抱えての猛ダッシュで疲労困憊したメイドと、ハイスピードな乗り物を堪能して上機嫌なお嬢様は、なんとか五分以内で勉強部屋に戻れたようだ。
そこは二十畳ほどの、(この家にしては)控え目な広さの部屋。
壁に掛けられた黒板には英文や中文、フランス語などが綴られている。
随分とハイレベルだ。いわゆる英才教育というやつだろうか。
それら多国語を年端もゆかない女の子に指導できるということは、この振り回されっぱなしの少女も、相当な才女であることが伺える。
今は、息も絶え絶えな所為で、そうは見えないが。
そんな才女の荒い息も、次第に収まってきたようだ。
「すぅー、はぁ……。よし!」
すっかり息を整え、授業を再開しようとしたその時。
まるで見計らったかの様に、トントンと扉を叩く音が響く。
突然に追いかけっこを終わらせ、早く早くと私を急かし、そして息を整えたドンピシャのタイミングでのご主人様来訪である。
あたかも幼女が全てを読んでいたかの様な出来過ぎた流れに、空寒いものを感じてしまう。
(まさか、ね)
そんなことより、今はご主人様への応対だ。
「はい、どちら様でしょうか」
「私だ。入るぞ」
黒檀の扉が押し開かれ、オールバックに髪をまとめた壮年の男性が現れた。
当然ながら、彼が十六夜壌砥である。
上品なスーツと重厚感ある落ち着きを身に纏う姿には、人の上に立つ事が日常となった者に特有のオーラを持っていた。
「どうだ、称美。勉強は進んでいるか?」
「うん、だいじょうぶだよ」
「『うん』ではない。『はい』だ」
「はい」
不服なのだろう。幼い称美の唇が少し尖る。
「お前は十六夜家の一員として産まれたのだから、この程度の勉学などこなせて当然だ。その調子で励みなさい」
「…はい」
「いいか、これはお前の為だ。遊び呆けている時間はないのだよ」
「……はい」
はい、と返事をするたびに、少しずつ唇が尖ってゆく。
それでも反発しないのは利発であるが故に、厳しさもまた愛だと理解しているのだろう。
しかし遊びたい盛りなのは厳然たる事実。
その板挟みで、結局何も言えなくなってしまう。
その後も幾つか小言を聞かされて頬も少しずつ膨れてきた。
しかし彼女にとっては幸いな事に、ここで救いの手が差し伸べられる。
「称美や、元気にしとったか?」
開いたままだった扉から、闊達な老人がひょっこりと顔を出す。
先代当主の十六夜暴である。
「な、親父!いつの間にグルメ旅から帰って……」
「あ、おじいさま!」
てててっ、と小さな称美が駆け寄り、そのまま抱きついた。
それを優しく抱き留めて頬擦りする暴。
「おうおう、元気そうじゃのう!」
「むう!ひげじゃま!!」
「おっと、すまんかった。謝るからお爺ちゃんのこと許してね?」
「えー。じゃあ、たびのおはなしきかせてくれたら、ゆるす!」
暴は「容易い御用じゃ!」と言いながら、称美と部屋を出ようとする。
が、扉の前で壌砥が進路を塞いだ。
「親父、まだ称美は勉強中だ」
「まったく、少しくらい良かろう。頭固いのう」
「かたいのう!」
不満そうな暴と、その言葉に乗っかる称美。
二人で頬を膨らませて抗議する。
「そっちが甘すぎるんだ! まったく。親父の奔放さの所為で、俺がどれ程苦労したか……」
疲れた様子で右手を額に当てる。
しかし、暴はそのリアクションにも何処吹く風。
いや、むしろ積極的に利用した。
右手で視界が遮られた瞬間を見計らい、壌砥の傍をすり抜けて部屋からエスケープしたのだ。
「なっ!」
「よっし、逃げるぞ称美や」
「ひゅーうぃごー!!」
「おお、英語を覚えたか!偉いのう!!」
孫を褒めそやしながら、齢60には見えない脚力を発揮する暴。
「……はぁ」
こうなればもう止められない。
壌砥は未だに、暴の逃げ足に追いつけたことが無かった。
否。彼の知る限り、本気で逃げる暴を捕らえる事が出来る人間など、執事の花森くらいなものである。
「まったく、妖怪ジジイめ」
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目を開けると天蓋が見える。
柔らかなベッドから身を起こすと、窓から刺す朝日が目を灼く。
「……」
なにか、良い夢を見ていたような気が致しますわ。
とても懐かしく、そして暖かい夢。
ーーートントン
「お嬢様、失礼いたします」
オーク材の扉が押し開かれ、エプロンドレスを身に纏った女性が現れる。
私が幼い頃からお世話になっている、侍女の丹羽雫さんですわ。
台車を押す彼女はベッド傍で立ち止まると、
「おはようございます、お嬢様」
こちらをどうぞ、といつも通り一杯の水を給仕して下さいました。
「ええ、おはようございますわ」
程よく冷えた水が寝起きの頭と身体を潤す。
すっきり目が覚めると同時に、夢の残滓も消えていった。
「お嬢様、本日のお召し物です」
すっ、と差し出されたのは制服。
今日から私も中学生ですわ。
まあ小学校と大差ないでしょう。
きっと無闇に私の機嫌をとる者と、故なき嫉妬を向けて来る者しか居ませんわ。
まぁ『十六夜』として教育された私にかかれば、全ての学友と上手く付き合う事なんて朝飯前ですけれど。
人の上に立つ者として、本音と建前は大切ですもの。
ですから、きっと私は間違っていない筈ですわ。