第参話 賞味いたしますわ~黒鯛アピアリング~
部活動が始まりを告げて、各々が釣りに料理にと邁進する御二人。
どこまでも真っ直ぐに駆けて行くその先には、時に岩壁や断崖が待ち受けていますの。
それら万難を排するのが部長としての、そして人の上に立つ『十六夜』としての責務ですわ!
少量ならまだしも、余りに大量の練り餌を(手鞠寿司ほどの大きさですわ!)陽毬さんが食べようといていましたので、大丈夫とは思いつつも大事を取って阻止した後、きっちりと注意喚起して。
トトキさんが脱水症状を起こす前に、釣りへの集中力を削がぬようコッソリと、花森に水分補給をさせて。
その他、細々とフォローや備えを巡らせます。
大なり小なり彼や是やをこなしている間に、そろそらトトキさんが釣りを開始する頃合いになりましたわね。
水分補給をしたとは言え、まだまだ残暑の厳しい季節。
熱中症などのイレギュラーによって、トトキさんが姿勢を崩して海へ落水、などと言う事態も有り得ます。
ここは、十六夜流救命術皆伝の花森が……あら?姿がありませんわね。
と思ったら、背後に広がる藪の方から戻って来ました。
「うふふ」
なるほど失念していましたわ。
またもやフォローされてしまいました。
この程度なら気付いて然るべきでしたわね。
トトキさんと陽毬さんを前にするとついつい見惚れてしまって、全体を見ることが出来なくなってしまいますわ。
反省しなくては。
ーーーシュッ!……ちゃぽん。
自省している間にトトキさんが第一投目を放ちましたわね。
「わくわく!」
期待感を全身で表現する陽毬さんと供に、我等が釣り師の釣果をゆったりと待ちます。
暫くして、アタリが来る事なく糸を巻き取るトトキさん。
どうやら初投では釣れなかったご様子。
とはいえ、彼女の真価は数を釣るとこに在りませんわ。
言うなれば、盛り合わせではなく本日の一皿。
精神一到、研ぎ澄ました一振りで大物を狙い撃つ。
透き通った飴細工の如く、華麗にして儚いその釣りスタイルは、どこか刹那的でもありますわ。
トトキさんに庇護欲を掻き立てられるのは、主にその辺りが要因かもしれませんわね。
「おっ!」
陽毬さんから声が上がります。
見遣れば釣り竿の穂先が、僅かながら弧を描いていますわ。
どうやら食い付いた様ですわね。
程なくして水揚げされたのは、小さなサイズのアジ。
少し旬を過ぎているため、脂の乗りと旨味成分の量が少し物足りないかも知れませんわね。
その辺りを踏まえて、陽毬さんが如何に調理するのか。
想像するだけで火照ってしまいそう!
勿論そんな様子は、お首にも出しませんわ。
ポーカーフェースは交渉事の基本でしてよ?(くるくる)
「お嬢様、手遊びは御控えください」
「あら、ごめんあそばせ?」
つい気持ちが昂まって、日傘をくるくると回す癖が出てしまいました。
よろしくないですわね。
そんな私は置いておいて。
トトキさんから陽毬さんへとアジが投げ渡されました。
釣り針から外す手際も、受け取って水槽に放つ動作も、どこまでも洗練された無駄のなさです。
「むむむ」
どうやら陽毬さんは、アジを見ながらメニューを細かく詰めている様ですわね。
食材に合わせて最適な調理を取捨選択する。
大切な事ですわ。
「……っ!」
あら、トトキさんの方から鋭い気魄が!
早くもチヌが掛かったのかしら?
「いけ!釣り上げろととっちゃん!!」
陽毬さんの元気な声援を背に受けるトトキさん。
竿が激しく振り上げられ、釣り糸が高速で巻き取られて、
「……ふぅ」
と思ったら、唐突に意気消沈。
これは嫌な予感が致しますわね。
程なくして、とても御座なりに持ち上げた竿先には予想通り、フグがぶら下がっていましたわ。
ガックリと膝をつく陽毬さん。
大ダメージですわね。
彼女はフグの調理資格を得る為に、十六夜家のフグ料理の専門店で修業中の身ですの。
その店の板前たち、もちろん大将も含めて、全員が陽毬さんの実力を認めていますし、フグ調理師資格の試験を受けても大丈夫と考えていますわ。
しかし、資格を得る為には試験に合格するだけでは無く、二年の実務経験が必要ですの。
試験だけでは測りきれない部分と言うものは、どうしたって排除出来ませんもの。
こればかりは致し方ありませんわね。
勿論、十六夜の権力で横車を押して、陽毬さんに特例扱いで資格を与える事も、不可能では御座いません。
けれど、その手は使いませんわよ?
取り決めを破る前例など、あってはならないものですから。
その様な不届きを積み重ねた先に、江戸時代の様な「ふぐ食禁止令」の施行される未来が待ち受けているのですから。
一見すると非効率かつ不条理に思えても、長い目で見れば効率的で合理的なシステムですわね。
私にとって不都合であっても、ちゃんと尊重しますわよ?
その度量もまた『十六夜』としての持つべき価値観ですの。
けれど、陽毬さんにそれを求めるというのは、当然ながら出来ない注文ですわ。
その後も満漢全席の如く、次から次へとフグを大盤振る舞いするトトキさん。
そして引っ切り無しの精神攻撃によって、もはや身体の輪郭が崩れ去って、宛らキュビズムの様になった陽毬さん。
「うふふ」
地獄絵図ですわね。趣きがありますわ。
けれど、そろそろ気を取り直して頂かなくてはいけませんわね。
トトキさんは深く集中するが故に、深みに嵌ってしまう事がありますの。
今がまさに、それですわ。
さあ、サポートして差し上げますわ!
「くっ……」
あら?
突如、トトキさんが地に膝をつきましたわ。
「どうか致しましたか?」
「ううん、大丈夫」
そう言って立ち上がったトトキさんに、もう先程までの視野狭窄は見られません。
どうやら自力で立ち直った様子ですわね。
私のサポート無しでも、自身のコンディションを制する。
望ましい成長ですわ。とても素晴らしくてよ。
「お嬢様、紅茶が入りました」
「……。気が回り過ぎですわよ、花森」
御二方が私の手を離れて行く。
そんな一握の寂しさを、敏感に察して癒してくれる老執事。
彼が二十代の頃には、いったい幾人の女性を泣かせていたのでしょうか。
何はともあれ。
もうトトキさんは大丈夫ですわね。
……そう思って、まったりと眺めていたのも束の間。
彼女の竿が、過去に類を見ない大物を捉えた様子ですわ!
あまりの暴れ具合に、このままジリ貧になるか、バクチを仕掛けるか迷っているのかしら。
「うふふ」
もう、仕方ありませんわねっ!
やはり未だ未だサポートが必要なご様子。
なら手助けするのは、吝かではありませんわ。
「トトキさん、安心して全力を振り絞ってくださいまし!」
つい出してしまった明るく弾んだ声。
それは私とトトキさんの間を貫いて、美しくも頼りない彼女の背中を押したのでした。
そして、空を泳ぐように。
巨大なチヌが釣り上がったのですわ。