導入 ~釣り師に憧れる少女、桔梗トトキ~
はじめまして。
桔梗トトキと言います。
……いきなりですが、ここで格言を一つ。
『魚釣りとは、深遠な数学のようなものだ』
これは、アイザック・ウォルトンという作家の言葉。
次の釣りに備える時はいつも、この一文が頭に浮かんできます。
狙った魚を釣るための道筋を立てて、竿を選び、糸を選び、仕掛けを選び、それらを組み合わせて、底知れぬ海中へと投げ入れる。
それは、最適解を得るための理論を考察して、演算装置を選び、数式を選び、定理を選び、それらを用いて茫漠な自然法則へと挑んで行く、そんな行程に似ていると思うのです。
でも、そうして試行錯誤をいくら繰り返したって、思い通りには釣れてくれなくて。
釣りの底知れなさを痛感させられながらも、確かに深遠な数学かもって納得します。
「ふふ」
でも、そうやって幾度も失敗したって、諦めるどころか「次はあれを試そう」「ここを変えてみよう」ってウキウキしながら再挑戦してしまうのだから、数学者も釣り師もかなり酔狂な人種なのかも。
自分のことながら、つい笑ってしまう滑稽さです。
そんな酔人(狂人?)を志す私は、今日も今日とて海釣りに向かっていました。向かっていたのですが、しかし、
「うーん」
おかしいです。
いつもなら天候を感じ取りながら、今日の釣りについて戦略を練っているはずなのに……。
気がついたら釣りそのものについて考えてしまっています。
「どうしたの、トトっちゃん?」
そういって心配してくれたのは、その小さな身体に、料理人になる夢とアグレッシブさを詰め込んだ元気っ子、日向陽毬ちゃん。
いつも気の向くままに動き回っているけれど、意外と周りの事をよく見ている。例えるなら、冬の回遊魚みたいな子です。
一つの事をやりだすと、他の事が頭からポロポロ落っこちてしまう私には、到底マネの出来ないことで、少し羨ましいときがあります。
「上手く集中できない」
これを言ったのは私です。
何かを言葉にするとき、語尾をどうしたら良いか未だに解らないのです。
どんなチョイスをしてもピンと来ないので、いっそのこと断定口調にしています。
自由な陽毬ちゃんはもちろん、お嬢様の十六夜称美ちゃんも、疑問に思ってはいないようなので、もう断定口調のままで良いかな、と最近では思ってます。
……というか、やっぱり集中できていません。
なぜ、語尾について考えているのでしょう。
普段なら今頃、釣りの事で頭がいっぱいいっぱいの筈なのに。
首を傾げる私に、陽毬ちゃんがまばゆい笑顔を向けます。
「そういう時は、これだよ!」
彼女は背負った巨大バッグから、水筒と大きなガラス瓶を取り出しました。
瓶の方には、キラキラする黄色い物体が籠められています。
「それはなに?」
「キャンディードレモンだよ!」
きゃん……なんでしょう。
手渡されたそれをよく見ると、それはどうやら輪切りのレモンが、砂糖でコーティングされたもののようです。キラキラしていたのは、表面の砂糖でした。
取り敢えず、試しに一口。
――――カリッ!じゅわっ。
「んんっ!」
薄い飴を噛んだような楽しい食感と共に、程よい酸味によって私の唾液があふれ出しました。味わう程に柔らかな甘みが…多分レモンをはちみつに漬けてあるんだと思います。甘すぎず、けど酸っぱすぎもせずで、あいかわらず最高の塩梅です。
そこですかさず渡された水筒には、香り高い紅茶が入っていました。口内で残っていた砂糖の甘みとわずかな酸味が、紅茶の風味と混ざり合って互いを引き立て合い、そしてほのかな余韻を残して流れ去ります。
我慢できなくて、もう三枚ほどもらいました。
舗装されていない砂利道で歩きながら食べているのに、なんだか庭園でティータイムをしているような気分です。
こんなおいしいものを作れる陽毬ちゃんも、それを最大限引き立てる紅茶をセレクトした称美ちゃんも、やっぱり流石の一言です。負けていられません。
……気が付けば、感覚もかなり戻ってきていました。
普段通りに、周囲の気温を、風の湿り気を、陽射しの強さを、ちゃんと鋭敏に感じ取れていて。
まるで魔法、いいえ、撒餌で活性を上げられた冬魚みたいです。
「うん、絶好調」
ばっちり脳内も魚まみれです。
回遊魚な陽毬ちゃんと、ジンベイザメみたいに優雅さ溢れる称美ちゃんに、レモンと紅茶のお礼を言った後、万全になった五感を駆使して、今日の気候情報を改めて精査してゆきます。
(っ!これって……)
自然へと意識を傾けると、その瞬間に既視感が襲ってきました。
この感覚は味わったことがある、どころか、忘れたことはありません。
これに気が付かなかったということは、本当に絶不調だったのでしょう。
肌をなめる陽射し、程よく乾いた空気、夏と秋が7対3くらいの外気温。
間違いない。これは、あの日と同じ。
彼女に、憧れのあの人に出会った日と、全く同じ気候条件です。
ついにこの日が来た。
「よし」
今日はチヌを釣ろう。
そう決めました。