第十二話 トトキと風景
黒い岩肌へと全身が打ち付けられる。
そう思って身を硬くしました。
けれど、いつまで経ってもその時は来ません。
気がつくと暖かくて頼もしい感触に包み込まれていました。
ビロードのように洗練された、上質な包容力。
瞳を開けると、私をしっかりと抱きとめるイケメンの花森さん(60代)と目が合いました。
「……」
もうあと40年早ければ、間違いなく恋に落ちていたでしょう。
「ありがとう、花森さん」
「貴女はお嬢様の大切なご友人ですから」
だからお気になさらず。
そう言って、巨大チヌ(推定5キロ)を掲げ持った私(推定させません)を、軽々とお姫様抱っこして岩場をひとっ飛び。
陽毬ちゃんと称美ちゃんの待つ砂浜へ。
さすがの身体能力です。大財閥の令嬢を一手に任されているだけはあります。
しかも、全くこれっぽっちも釣りの邪魔にならないようなタイミングで、けれど危なげも無く私を助けてくれました。
チヌを釣り上げて倒れる瞬間までは、ちりめんじゃこ程度の気配も感じなかったのに。
物凄い技術です。
これほどの隠密能力と俊敏性があれば、川釣りで無双できるのではないでしょうか。
その技術、いつか盗んでやるのです!
「どうかされましたか?」
「ううん、なんでもない」
花森さんから目線を外しました。
でも、何故か嬉しそうな表情の花森さん。
彼に砂浜の上へとエスコートされると、歓喜と負けん気が等分で配合された元気印の笑顔と、さっきまでの激闘を讃える優雅な微笑みが出迎えてくれました。
「チヌ、獲った」
私は最高の成果を出したよ。今度は陽毬ちゃんの番だね。
その思いは口にせずにズシリとくる巨体を差し出すと、陽毬ちゃんが直ぐに意を汲んでくれました。
挑戦的に、キラキラと輝く少年のように笑みを咲かせます。
「おっしゃ、任せろトキりん!!」
言うや否や、右手に握りしめた愛刀ならぬ愛包丁を振りかぶりました。
「脳天にどーん!」
振り下ろされる包丁の柄。
すこーん、とチヌの眉間にクリーンヒット。
さっきまでビチビチと暴れていたのが嘘のように、ぶらーんと伸びきってしまいました。
相変わらずの手際です。惚れ惚れします。
もちろん相手が陽毬ちゃんでなければ、振りかぶった時点で怖くなって逃げ出すところですが。
「美ッ味美味にしてやるぜー!」
言うや否やチヌの顔面を鷲掴み。
ひゃはー!と梨の妖精みたいに突っ走って行きました。
魚は鮮度が命。そのための爆走でしょう。
相変わらず全力です。
「あの立派なチヌがどんな美食に仕上げられるのかしら。楽しみですわ」
「そうだね……」
お疲れ様ですわ、と労いながら隣に並ぶ称美ちゃん。
うん、確かに疲れました。
もうヘトヘトです。
「……」
でも、超大物を釣り上げたばかりなのに、陽毬ちゃんを見ていると身体がうずうずしてきます。
「……うん」
仕方がありません。
もう一釣り、いっちゃうのです!
「うふふ、仕様がありませんわね。まだ釣りをするのでしたら、比較的安全なポイントで行って下さいまし」
部長命令ですわ、と微笑ましそうにこちらを見てきます。
多分、私の挙動から読み取ったのでしょう。
さすがによく見ています。
ますます負けられない気持ちが強くなってきました。
可能なら船に乗って沖釣りしたいくらいの気持ちなのです。
でもさすがに身体が保たない自覚もあります。
そんな時。
ふわりと、視界の端に色鮮やかな魚が泳ぐのを幻視しました。
凪いだ海と空を泳ぐ魚たち。
私の中の心象風景。
うん。たまには何も考えずに釣りをするのも良いかもです。
むしろ、なにか新しい発見があるかもしれないのです。
「わかった。まったり釣る」
「ええ、そうして下さいまし」
早速、置きっぱなしの釣り具を移動させます。
足元の覚束ない岩場から、平らで安定した岩棚へ。
「ふぅ……」
こうして落ち着いてみると、激しい高揚感が薄く引き延ばされていきます。
すると、憧れに大きく近づいた感傷が湧いて来ました。
なんだか小波に揺蕩う海月みたいな気分です。
「ふわぁ」
不意に込み上げた欠伸を噛み殺していると、後ろから声をかけられました。
「ふふ、はしたないですわよ」
「うん」
称美ちゃんも私の隣に腰を落ち着けました。
というか、いつの間に二脚目の椅子が用意されていたのでしょうか。
相変わらずの花森さんクオリティです。
「……」
「……」
心地よい静寂が辺りを包み込みます。
いえ、それは嘘なのです。実際には若き天才調理人の「うおりゃー!」という叫び声がBGMとして響いてきます。
けれど私たち二人の間にあるのは、ごく自然な無言と時折しゃくり上げられる釣竿、あとはゆっくり回る日傘だけ。
称美ちゃんと陽毬ちゃん。
二人に出会えていなければ、そして同じ部活動をしていなければ。
きっと私の成長はもっと緩やかで、足踏みの多いものだったと思うのです。
それに少なくとも、私一人で釣りを行っていたならば、今回の釣果は得られなかったと断言できます。
陽毬ちゃんを見ているだけで、ふつふつと対抗心が湧く。
称美ちゃんが居てくれることで、安心して全力が出せる。
「……いつもありがとう」
「っ!!」
常に泰然自若としている称美ちゃんが、見たこともない顔で驚きを露わにしています。
イソギンチャクに謀反を起こされたクマノミくらいの驚き加減です。
もはや自分でも例えがよく分からないのです。
「驚き過ぎ」
「これは失礼致しましたわ」
そう言って、彼女はそっと手を口許に添える。
お茶目に微笑んでいますが許してあげません。
……というか、私の『ありがとう』はそんなに珍しいのでしょうか?
いつも感謝の気持ちは持っているつもりなのですが。
「ふふ、貴女の感謝はいつも伝わっていますわよ」
ただ、言葉で伝えられたのは初めてだから驚いた。
そう言われて納得しました。
たしかに普段なら言わない台詞なのです。
なんだか恥ずかしい。
けど、悪くない気分です。
「「……」」
また同じ静寂が辺りを包みます。
けれどそれは、先程よりも少しだけ温度を上げたように感じるのでした。
この後は幕間が一話入ってから、アクセル全開な陽毬のターンです。