二、劫火の果てに
熱気と、目の前にあるものの巨大さに俺は息を呑む。
彼我の距離はおよそ二メートルもない。
だというのに、ドラゴンの巨躯は俺の視界に収まり切らない。
左目をなくして視界が半減しているにしても、その大きさは疑うべくもない。それほどに、巨大。
顔をこちらに向けているという以外に、どんな体型をしていて、どんな姿勢を取っているのかもわからない。それは、次の動作が読みえないという事に他ならない。
次の瞬間、俺はこいつにペロリと一飲みにされるかもしれないし、視界の外から尻尾や足で潰されるかもしれない。体当たりが準備されていたとして察知しようがなく、俺の運動性能では避けえないやもしれない。
首筋の冷汗は、白刃の冷たさと鋭利さを持って伝い落ちた。
自失の一秒を過ぎ、躊躇の二秒が過ぎ、恐怖の三秒を経て、
「ままよ!」
俺は、ドラゴンの全貌さえ知らぬまま飛び出した。仰向けに寝転んだ状態から、腰を中心に回転。垂直に百八十度、水平に百八十度ひっくり返って、這いずるように走り出す。
向かうは、ドラゴンの顎の下。
(せめて、目は頭についている二つだけにしてくれよ……!)
もちろん未知の生物である。喉の下や俺の視界の外にも眼球を持っていない確証などない。視覚以外の手段で此方の位置を察知するかもしれない。
そうでない方に賭けた。
結論から言えば、賭けには半分勝った。
ドラゴンは確かに俺を見失った。
しかし、そんなことはドラゴンにとって何の問題でもなかったのだ。
俺の頭上で、地獄の釜の蓋が開きつつあった。
俺が滑り込んだのはドラゴンの顎の下。その正面には四本の大樹のごとき肢が千年の根のごとき爪で地面を掻いている。古代遺跡さながらの天井には透明に煌めく鱗が並び、高さは俺がギリギリ立って歩けるほどもある。その先で、尻尾が別個の生命を持つ毒蛇の様に立ち上がり、一回強く地面を打つと、
――咆哮。
突然下がった天井を腰を抜くことで何とか躱し、ドラゴンの腹の下を運動量保存の法則にすがりつくように転がり出る。右前脚と後足の間に倒れ込んだ俺が見たのは、地面に伏したドラゴンが、首を廻らし咢から炎を噴き上げて、周囲を瞬く間に焼き尽くす様だった。
「なっ……!?」
まるで、神話の再現。薄暗かった視界は一瞬にして光輝に包まれ、爆炎の昇天に引きずられて空気が引きちぎられる音で世界が満ちる。瞬く間に視覚と聴覚が白熱する。
その莫大な熱量は、直接蒙らなかったことなど何の救いともしなかった。何とか熱波の達する一瞬前に顔を覆い、目を閉じ耳をふさぎ口を噤んだ。
それでも、火傷は避けられなかった。
来ていた制服に染み込んでいたあの雷雨の名残りは一瞬で蒸発した。その蒸散に、服を着ていた部分だけは救われた。
むき出しの手と顔は、そのまま苦痛の源と化した。
それでも声を上げたりなどして熱で肺を焼く事だけは防いだ。それが、せいぜい何秒生命を伸ばすことになるのか。あるいは安らかな死を遠ざけただけなのではないか。そんな煩悶が、何度も頭をよぎった。
熱は、そのまま上昇気流となり、どこかからか冷たい風が吹きよせていた。乾燥していて埃っぽくて、それは火傷の痕をさらに傷つけたが、それでもその涼風は俺にとって慈雨にも等しい恵みではあった。
ドラゴンが身を起こした気配があった。空気が鳴動し、地面が振動する。
そのわずかな余波が伝える力強さは、あまりにも、あまりにも雄弁だった。彼我の差が、比べるのもおこがましいほどに絶大であることを、語るでもなく知らしめた。
周囲では、火が付いた何かが勢いよく燃える音がする。その炎がもたらす熱も、焼けた肌には敏感に感じられた。目も、鼻も、耳も、これではきくまい。そう思った。祈ったのかもしれない。俺がこのまま死ぬより前にドラゴンが気が付かずに立ち去れば、万が一には生き延びられるかもしれない。そう思えば、無性にうれしくなる。無性に、情けなくなる。焼かれたせいか、涙は出ない。
――祈願、不要――
不意に、反論が頭の中に飛び込んできた。飛び込んできた、と言わざるを得ないほどに唐突で、平成で、どこか幼いような場違いな考え。その、あまりの異質さに、思わず俺は応答していた。
なにが、ちがうというのだ。
――活路、手中。確定的有利――
誰がいるというのだ。
何があるというのだ。
ドラゴンが動く。地面が鳴動する。その爪のこすれ合わせる音が、俺にとってはギロチンの落ちる音にも等しい。鎧袖一触、あの巨大で強力な生き物が、俺を殺すのに確たる意図さえ必要あるまい。
炎を吹く巨大なドラゴンの前に、俺はあまりにも無力だ。
身は焼かれ、手足は萎えた。俺はあまりにも無力だ。
――無力、否定。所有者内包――
ない。
そんなものは有りはしない。
――現在、距離。要発動魔術――
拗ねたようなその思考に、俺は喉をふるわせる。唇さえ焼き付いていなければ、吹きだしもしたかもしれない。まるで子供の言い分だった。
この声は、何を言っているのか。
俺が助けを呼べばやってきて、この場を切り抜けさせてくれるとでも?
――否定、否定。絶対的暴力――
あいつ?
あのドラゴンを倒してみせると、そういっているのか。
それは愉快だ。
――肯定、愉悦。存在価値有――
それは愉快だ。
本当に愉快だ。
――殲滅、確定。欲我欲充溢。人間、禍獣。迷宮、王国。王族、臣民。貴方、魔剣。唯一我存在!――
狂ったように吠え猛るその言葉が、その熱が、俺を侵していく。
だが、かまうものか。
――俄然、召命。無銘光輝剣――
来い。
来い。
――――来いッ!
初めに感じたのは、異物感だった。
切り裂かれ失われた左目が、いきなり膨れ上がったような感触。なにかがまぶたを押し上げ、さらに突き出してくる。
たまらす俺はそれを掴んだ。硬い。どんどん左目が熱をもっていく。ドラゴンの人は異質な、熔岩のような粘度のある熱さ。
俺はそれに耐えきれず、掻き毟るように左目の異物を掴み――咄嗟に引き抜いていた。
その、途端。
ひかりが。
視界に光が満ちた。
懐かしくて新しい視界が俺の前に広がった。
「左目が……?」
失われたはずの視界。それが光を取り戻していた。思わず手を見、そして顔に触れる。
手の中に、己の左目から引きぬいたハズの異物を見たとたん、俺はさらに驚きの声を上げた。
「これは……あの妖刀!?」
そこにあったのは、まぎれもなく狂気にかられた師匠の振りまわしていた凶器。俺の左目を奪った凶刃。それを取り上げ雷に打たれ、気が付けば己はドラゴンの目前にいて、刃は己の手にはなくなっていた。しかし、まさかおのれの身体、しかも目に埋まっていたとは……?
すらりと細い鉄色の刀身を悩ましくも仄かに反らし、そこに浮く赤銅色の墨流めいた刃紋は艶やか。手に触れれば驚くほど繊細な白銀の柄に、気怠げに淀んだ黄金の目釘。
何一つ違わず記憶の通り。
あの妖しい刀がこの手の中にある。
見た目に対して驚くほどの軽さもそのまま。軽く一振りすれば、まるで生まれてきたときからこの手にあったかのように馴染む。恐ろしいほどに、馴染む。
――容姿、媚態。実用十二分――
不意に。今度はもはや疑いようもなく、俺の頭の中で俺以外の声がした。
いや、そうではない。俺は俺に語りかけてくるこの声が、何者なのかを知っている。
――比翼、連理。一蓮華托生――
「……おまえは、俺に話しかけてくるお前は、この刀なのか」
否定と確信が同時に胸に去来する。
はたして。
――肯――
さざめくような笑いの感触とともに、今までで最も短く簡潔で、そして俺にはうかがい知りようもない万感の思いを込めた一言が、返ってくる。
会話が、成立した。
言葉が、通った。
――嗚呼、嗚呼。巫山戯潤雨。利器、権利。利刀光輝剣。殺戮、虐殺。畢竟殺人刀――
その言葉の全てを理解できたわけではない。
人間の言葉とははっきりと異質な、言語ならぬ言語。表意と内心の乖離を矛盾としてそのままぶつけてくるような、その独特の語法。
「わかった。お前を使わせてもらう」
けれど。
何よりもそのことを求められているのは、それだけははっきりと分かったのだ。
「早速だが、気付かれているな」
視線を向ければ、ドラゴンが此方を見ている。見計らって、観察している。あの存在には俺一人など塵芥にも等しいだろうに。
ならば、ドラゴンが推し量ろうとしているのは、警戒しているのはこの刀に他ならない。ドラゴンゆえの、魔法的な直観なのか。アレがそこまで身構えるというのならば。それはひどく頼もしい。
「頼りにさせてもらう」
――喜――
返答を得て、俺は刀を構えるのと、ドラゴンが咆哮を上げたのは、同時だった。
その顎に立ち並ぶ牙の隙間から除く眩い光が、一瞬辺りを暗くする。
炎が来る!
咄嗟に下した「逃げるべきだ」という判断を、肉体が裏切った。
否。
――火炎、伐採。照覧光剣呪――
俺の手は妖刀に釣り上げられるように上へ伸びた。
あの時と同じ。
この姿勢は、あの雨の中師匠がとったのと同じ。そして、雷に打たれた直前の俺がとったのと同じだ。あれは、この妖刀の意図だったのだ。となれば、次に何が起こるのかも、そしてこの剣士としてあるまじき姿勢にも、ある程度の予想がつく。
果たして――赫光。
あたりを照らしていた先ほど火炎放射の燃え残りよりも、ドラゴンが新たに繰り出そうとしている炎の玉よりもなお赫るく。なお眩く。なお煌めいて。妖刀から発せられたと思しき光が、辺りを圧倒した。
「これは……」
そして、俺は見た。
これまで、ドラゴンとその炎しか見るべきものもなかった俺に、その光は俺のいる空間の全貌を見せてくれた。
剣を掲げた俺は、円形の空間の端の方にいた。
床は丸く平坦。いかなる工芸の技術の粋か、半径百メートルは越さんばかりのその空間はほぼ完全な半球形である。全体的には土造りと思しいが、ところどころ煌めくのはドラゴンの炎によってガラス化したものであろうか。
右手と、左手に一つずつ、小さな入口がある。本当に小さい。いや、距離感からして俺にとってはむしろ見上げる様であるはずだが、しかしこのドラゴンに対しては小さいと言わざるを得ないのではないか。
ドラゴンは巨大だった。ちょっとした家と同規模の容積、下手をすれば短めの電車ほどの体長がある。四足二対翼。長い尻尾と長い首。全体的な印象としては雷竜の首を肉食恐竜に挿げ替え翼を足した感じか。姿勢、肉のつき方、足の形からして二足歩行は不可能。また、羽についてもこの巨体を持ち上げうる揚力を捻出しえるとも思えない。色は、赤い光の下で確かなことは言えないが、おそらく全体的に赤褐色。光から目を背けようとした、という半端な状態で固まっている。
そして空間の中央。ここからおよそ三、四十メートル先。ドラゴンがまるで守るように背にする先に、なにかがうず高く積み上がっている。ドラゴンと比べればさほど大きな塊ではない。全体的にキラキラとしていて、平坦でつややかな、それなりの大きさの断片的な表面を持っていることがわかる。一番印象として近いのは、天然の水晶の塊だった。
あとは、まるで掃き清めたように塵ひとつない。本当に、床の上には何もない。先のドラゴンの火炎放射の燃え残りさえ、消えるところを見ればそこに炭ひとつみあたらない。炎がそこに残ったから、何かに着火したと考えたのは、俺の間違いだったのだろうか?
光が放たれていたのはたっぷり、十秒ほどだったろうか。
やがて、妖刀からの赫光は収まり、辺りは闇に閉ざされた。だんだん数を減らしていくドラゴンの炎の燃え残りが照らすこの辺りだけがかろうじて光の領域に留まっている。
それは、一種荘厳な気配さえある光景だった。なにより、それを作り出しているのが己の手にあるものだと思えば、なおさら。
そんな気分はしかし、その光をもたらしたものの、冷静な呟きによって冷や汗と共に押し流されてしまったけれど。
――困惑、追求。禍獣要根絶――
「しまった」
あの光にあてられたドラゴンは、俺がゆっくり観察できたことからも明らかなように全く無防備だったし、そもそも身動きさえとらなかった。
この刀で殺せるとは正直思えないが、ドラゴンが追ってこれないだろう出口を二つまで見つけておいて、棒立ちしていたのは痛恨のミスだった。
「せめて逃げればよかった」
――再度、困惑。禍獣要根絶――
できっこない。
常識的に考えればそんなの不可能に決まっている。のだが。刀が光ったり話しかけたりドラゴンがいて火を噴いたりする時点で俺の中の常識はもはや信用ならない。これが俺の幻覚である可能性は否定できないし、夢であることも願いたいところだが、それは今の俺がやるべきことをやらない理由にはならない。
「……できるのか?」
――不満、不満――
「いや、そうじゃなくて。いい方が悪かった。どうやったらそんなことができるのか、俺には想像もつかないだけだ。教えてくれ」
――善哉、素直。所有者劣位――
なんとなく妖刀のキャラクターもつかめてきた。
一言で言えば子供。物事を単純化しすぎるきらいが見られるし、物言いも極端だ。よく言えば素直。だから何が言いたいのかも何がしたいのかも比較的簡単に察せられる。
今は、俺にあのドラゴンを殺させたいらしい。
殺せるなら、今殺してしまった方がいい。どこかに逃げ延びたとて、安全になるとは限らない。袋小路で焼き殺されるかもしれない。
それに、こういう手合いの話には、適度に乗っておいた方が後々楽なのだ。ダメだったら放り投げて逃げればいい。
「すまんな。ああいうバケモノと戦うのは生まれて初めてなんだ」
――寛大、寛容。経験的事実――
満足げな返答が帰ってくると同時、不意にまた腕が上げられ、赫光が放たれた。
照らし出されたドラゴンは、先ほど見たのと同じ、炎の噴射体制で固まっていた。
……どうやら、おしゃべりが過ぎたらしい。
――無駄、無駄――
あのドラゴンを子ども扱いである。
するだけのことは、ある。
「あの光を喰らうと、ドラゴンは動けなくなるのか」
――限定、解除。魔法的存在――
魔法。
まあそういう類の事なのだろうなとは思って居たが、俺はそちらには造詣が深くない。お嬢様なら判るだろうか? いや、こちらで言う魔法と同じものかはわからない以上、妙な混乱をしないで済むのだから俺がそちらに無知であるのも不幸中の幸いかもしれない。
「魔法、というのはドラゴンの吹く炎も含めてか? 出がけでないと潰せない?」
硬直したドラゴンの口の中に火の玉がみえなかったことからと、一度放たれた炎の残滓がそこら辺で燃えていることからの推測。
――有能、満足――
「褒めてくれてありがとう。あとは、光を出すのには時間制限がある?」
――是――
返答と同時に光が消える。
「腕は上に上げなければいけないのか?」
――例外、存在。要注意事項――
「ああ。それは確かに。凄い光だものな」
軽く百メートル先まで十分見通せる明るさなのだ。
直視すれば目が潰れかねない。
――必然、強制。予防的措置――
どうも俺の身体を勝手に操れると言っている様な。
いや、実際にされたのだから疑う理由はないのだが、それを認めるのには抵抗がある。
と、闇の奥でドラゴンが動く気配があり、俺の腕が勝手に上がる。
思わず抵抗すると、あっさりと腕の動きは止まる。しかし、同時に勝手にまぶたが落ちる。そしてまぶた越しにも赫光が妖刀から発せられたのが分かった。これは確かに直視しがたい。
――危険、叱責――
「すまない。つい……」
とりあえず善意でやっているのは確かなようだ。やはり妖刀だなと思うが、こちらをあまり警戒していても仕方がない。もっと差し迫った敵は、別にいるのだから。
俺は履きっぱなしだった靴を足だけで脱ぐ。ちょっと触ってみたところ、やはり靴底も熱にやられて歪んでいた。立っているだけならいいが、いつ靴底が剥げてもおかしくない状態だ。靴下は先ほどの炎に晒されても乾いてはいらず、若干湿っていたのでそれも脱ぐ。
――疑問、当惑――
「奴さんも、そろそろ理解してるだろうからな。……それで、俺はあのドラゴンをどうやって倒せばいいんだ? お前さんがどんなに切れ味が良くても、あの巨体だ。動きを留めれば一撃はまず入れられる。だが一撃で倒さなきゃ反撃を喰らって俺がお陀仏だ。リーチの差はいかんともしがたい」
そう言いながら、俺は走り出した。
――使途、不明。道具的存在――
返ってきた返事は、なるほど道理だ。
数十メートル走ったころ、背後で大きな音がした。何か、巨大なものが地面に落ちては跳ねたような、そんな音。
――疑――
妖刀の問いに、声を低くして答える。
「体当たりしてきたんだろう。止められてしまうんなら、止めてもどうしようもないやり方で戦えばいいというわけだ。ただでさえ強いくせに、頭が回る」
馬鹿の一つ覚えでドラゴンが火を拭吹いていたなら杞憂だったのだが、それにしては規則正しいタイミングで放ってきた。あれは、ドラゴンなりに条件をそろえて、その結果からこちらのできることを推測していたのだろう。
稽古もそうだし、科学の実験などでもそうだが、まず同じ条件で色々試さなければ、後につながる有用なデータというのは取れない。兄弟子の一人の酒席での薫陶だったが、かなりためになっている。あれで未成年に酒を勧めるところが無ければよかったのだが。
ドラゴンが走り出す音がした。おおかた、俺の足音を頼りに体当たりをしようというのだろう。だが、俺はといえばドラゴンから見て弧を描く様にして逃げている。真っ直ぐの体当たりの狙いを中々つけられないようだ。足音だけがついてくる。
あの巨体で足も速かったらどうしようかと思っていたが、足の作りを見れば鈍重であろうことは予想はついていた。あの均一な筋肉のつき方は、長距離を歩いて移動する動物のつき方だし、足の裏も平らで一歩一歩を踏みしめて重い体重を分散して支える動物のものだ。
走る先にあるのは、中央の水晶状の塊だ。別に目指しているわけではない。こうやって逃げていると自然とそちらに向かってしまうというだけの話だ。まだわずかに残っている残り火に反射して、暗闇の中で煌めいている。
ドラゴンは追いながら火を噴いてきたりはしなかった。最初に火を噴いてきたときに間近で感じたが、やはりドラゴンなりに予備動作の必要な行為なのだろう。
こちらは疲れるが、どうもドラゴンには疲れは見られない。あの巨体でどういうスタミナをしているのか。魔法的な存在たるゆえんなのだろう。
俺はもう一つの魔法的存在である妖刀に後方の見張りを任せて逃げるのに専念していた。暗闇の中でも妖刀はドラゴンが火を噴く前兆を察知できたのだ。見張りとしては頼もしい。
走りながら、ようやく作戦らしいものを考え、妖刀にタイミングを見計らってくれと頼む。
そのタイミングは、案外とすぐに来た。
――好機、到来――
水晶の塊に何度か近づいては遠ざかり、その周りを二週と半ばも逃げ回ったころだろうか。俺は突然に立ち止まり振りかえる。片腕を上げ、妖刀を掲げる。もう片手で目の上に庇を作り、光を和らげる。
大きな音を立てて、ドラゴンがすっ転んだ。
赫光に照らされて突然動けなくなり、水晶の塊に背中から突っ込んでいったドラゴンは、水晶の塊に半ば埋まっていた。
あたりには、水晶の小片が散らばっている。小片といっても小さいものでも俺の頭ほどはあるし、大きいものでは俺の棺桶になりそうな大きさだ。色は乳白色に濁っていて、塩の様に正方形の結晶になっている。
塊、というのも正確な表現ではなかったらしく、大小の白い正方形が積み上がった積木細工のようなものだったようだ。だが、それなりの比重を持った正方形の塊がそれなりにきっちりと積み上げられているので、足場としての不安はなかった。
無事、目的地に達する。
竜の頭の目の前だった。光に照らされ硬直したドラゴンの表情は読み取れない。俺たちにとっての表情というのは、ドラゴンにとっては顔に現れるものでもないのかもしれない。読み取って、どうしようというわけでもないのだが。
俺は、赫光が収まる前に、と腕を振り下ろした。
妖刀はドラゴンの頭蓋をあっさりと切り開く。ダメ押しで押し込んだので、脳髄に達したはずだ。さらに手元をひねって傷口を念入りに破壊する。ドラゴンは動かない。
光は、妖刀がドラゴンの体内に入ってしまったので隠れてしまっている。暗闇の中に、俺の呼吸音だけがむなしく消えていく。遠くで、燃え残りの炎の最後の消え残りが消えて、本当に真っ暗になった。
――目的、達成。有用性証明――
興奮気味の妖刀の宣言を受けて、俺が安堵のため息を吐いた途端だった。
とんでもない音がした。
兄弟子のひとりと師匠を探してパチンコ店を行脚した時にも、こんな音を聞いたような気がする。とんでもない量のの金属片が押し合い、へし合い、ぶつかり合う音。
「な、何が起きたんだ……?」
――禍獣、分解。根源的要素――
「戻ったって、何に? とにかく何が起こったのか自分の目で見たい。抑えた光を出せないか」
――簡易、照明――
妖刀が蛍光灯ぐらいの光を放つ。これくらいなら直視してもさほど眼は痛まない。
照らし出された視界に広がったのは、予想した通りのドラゴンの死体ではなかった。
それがあってしかるべき場所には、金色の池ができていた。池、というには正確ではないかもしれない。それは液体の溜まりではなかったのだから。
金属性の小さな、小指の先ほどの大きさの薄い円盤だった。金色に輝くそれを端的に一言で表すならば、金貨というべきだろうか。
――飛来、金銭。汚染資本金――
妖刀が説明をしてくれているのだが、良くわからない。金魂のような妖怪の類だったのだろうか? それがドラゴンに変化していた?
流石ファンタジーは一味違う。よくわからないことが起きる。
が。
「金か。今は別にありがたくもなんともないな。飯と水が欲しい」
――宝箱、開封――
宝箱?
この白い結晶の事だろうか。開ける? どうやって?
試しに指先でつついた限りでは、ガラスのような触感だ。叩いてみた限りでは、壁はさほど厚くない。窓ガラス程度だろう。試しに一つ、手近なところにあった小さめの一つを地面めがけて放り投げる。
狙いは少しそれて、別の大きめの小片に当った。破砕音がして、双方とも割れる。
「うわ!?」
小さい方から、黒々しい煙と嫌な臭いが立ち上る。
しばらくするとその煙は薄れて消えてしまうが、あれは食べ物でも飲み物でもない。
そして、大きい方はといえば、こちらも一見あまりうれしくないものだった。
死体だった。みょうちきりんな服装をしていて、登山でもするような大荷物を背負っている。
大きいものは確かに俺の棺桶になるくらいになるとは言ったが。しかしなんでもこれは。
思わず顔をしかめるが、しかし死体はミイラの様になっていてさほど臭くもないとわかると、俺は結局その死体に手をかけた。別にこれは食えるとは思えない。だが荷物はどうか。
果たして、俺は当座の食い物と飲み物を手に入れた。臭いからして酒の類だと思うが、贅沢は言って居られない。他にも色々と細々としたものが手に入ったが、とりあえず食器と毛布、それに死体から靴を拝借した。ブーツのような覆いのついた複雑なサンダルのような代物だったが、使ってみればなるほど足にぴったりして悪くない。
腹ごしらえを済ませ、すこし迷ったがすぐさま死体を埋めにかかる。
スコップは小さなものが背嚢に入っていたのでそれを使った。ハッキリ言って疲れていたが、死体と一緒に寝るのはぞっとしない。地面は一番硬い表層を抜ければそれなりに掘り易く、乾いた身体を埋めるのにたる穴が完成した。埋めて、墓標の代わりに佩いていただんびらを墓標代わりにする。これが一番俺にとって不要だと思ったし、一番それらしい代物だとも思ったのだ。
――埋葬、完了――
妖刀からは呆れたような思念が伝わってくる。
人を殺すための道具のくせに、人が死んだ後の事についてはあまり興味が無いらしい。妖刀らしいいびつさだ。
――睡眠、必要。守護的護符――
そういわれたので、結晶を積み上げた上に妖刀を置き、照明のようにする。結晶の塊からは少し離れたところに寝床をしいている。いきなり崩れてきそうで怖いからだ。特に、金貨は滑り易そうなのでそれがかぶっているところとは反対側に設えた。
妖刀は、蛍光灯から常夜灯程度の明るさに減じると、そのまま結晶の上で輝き続ける。
なにかまたモンスターが出るかもしれないが、体力的にも限界だったし、このだだっ広い空間ならどちらの入り口からも近寄ってくるまでかなりの猶予が見込める。妖刀の光を嫌うかもしれない。
浴びるほど飲んだ酒のせいもあったかもしれない。
「おやすみなさい」
――加護、祈願。悪夢魔退散――
毛布にくるまった俺は、あっさりと意識を手放した。