レール・デュ・タン
その男は、いつも夜中の公園にいた。
ほのかに地上を照らす月の下で、彼はいつも空を見上げていた。
「こんばんは」
恵美が声を掛けると、彼はこちらを振り返って目を細めた。けれど返事はない。
どうやらあまり歓迎されていないらしい。
恵美の登場を知ると彼がすぐに顔をそむけてしまったので、恵美は気まずさを抱えたまま近くに寄った。
この公園には、うさぎと亀の遊具が2つ並んで置いてある。
それはかまくらのように半円の形をしていて、ぽっかり空いた入り口の奥には、子供が2人ほど入れるぐらいの広さがある。なのに彼は、うさぎの背中を模したまるい天辺に乗っかり、仰向けになって星を眺めていた。
「あの…、せっかくの1人きりの時間をお邪魔してごめんなさいね」
公園の端に寄り、恵美は近くにあったブランコに腰を下ろした。
「私の部屋のベランダからこの公園がよく見えるの。いつもこんな夜更けに何をしているのかと気になって」
遠慮がちに話しかけると、彼は視線を落として小さく息をついた。
「追悼してた」
「……追悼、ですか」
「妻が死んでから、もう何年経つかなぁと思ってさ。季節はめまぐるしく過ぎていくのに、僕の時間だけは止まったままなんだ」
その声音があまりにも寂しくて、恵美は言葉を失った。
それでもどうにか丁寧にレースを編むように言葉を紡いだ。
「時間は誰にでも平等に訪れるものですよ。あなたがどう思おうと、じきに春がやってくる。否応なくね」
くすりと、彼が笑った気がした。
かすかに揺れた肩が、闇に溶けるように冷えているのが分かる。
「僕はね、怒っているんだ。先に天国へ行ってしまった妻に。そして僕自身に。――『私が死んだら、もう私のことは忘れてね』と、そんなことを呟いて逝ってしまった彼女を。それを認めてしまった自分を、どうやったら許せるだろう」
「怒りが、あなたの生きる活力なのね」
すると、彼は驚いた顔で跳ね起きた。じっとこちらを見下ろす視線が、恵美へと突き刺さる。
「悲しみだけじゃ明日に繋がらない。怒りは人に生きる気力を与えてくれる。その想いを抱えて、今日まで必死に生きてきたのでしょう」
「……」
「泣かないで」
「――泣いてない」
強がる彼に、恵美は微笑した。
悲しみを隠す必要はない。
生まれたての赤ちゃんのように大泣きしたらいいのに。
そしたら、私も躊躇なくあなたを慰めてあげられるのに。
「…義兄さん」
と、恵美は彼に声を掛けた。
ブランコから離れ、かまくらに似せたウサギの遊具によじ登ると、恵美はそっと手のひらで彼の頭をなでた。
「でも、その怒りは、そろそろおさめてくれないかしら」
「うん?」
「時が止まってしまったあなたは気づいてないでしょうけれど、姉さんが死んでもう10年が経ったの。そろそろ目を覚まして、新しい恋をしてもいい頃じゃないかしら、眠りの森の王子さま」
「はは。王子? …なんだい、それ」
「あなたがあなたが姉を忘れるまで、私は10年待ったってことよ。そろそろ我慢の限界なんだけど…。あとどれだけ私は待てばいいかしら」
「――えっ。僕が、君と恋愛をするのかい。恵美ちゃんと?」
「返事は急がないけれど。できれば私がお墓に入るまでには、答えが欲しいわね」
彼は、当惑してるようだった。
それも当然か――
けれど、もう諦めたくはない。
あなたは1人じゃないのだと伝えたい。
黙って見ているだけなんて、もうたくさんだ。
「……いまさら、僕に恋なんてできるのかな」
「少なくとも、そんな怖い顔で夜空を睨みつけるようなことにはならないはずよ」
――そうかな。
と、彼は小さく呟いた。
「10年か。過去を思い出にするには、少し時間を掛けすぎてしまったのかもしれないな」
「……あぁ。そういえば、いい忘れたのだけど」
「なに?」
「好きです」
唐突に。当たり前のように吐き出した言葉に、彼は声を上げて笑った。
そんな顔を見るのも本当に久しぶりで。恵美は心から嬉しくなった。
《完》
『あとがき』
今回は8つのワード「春、赤ちゃん、泣かないで、月、お墓、うさぎと亀、私が死んだら、公園」を使って、小説を仕上げるという試みに参加してみました。
義理の兄(死んだ姉の夫)を好きになるのって、どうなの?!
と思ったんですけど。楽しく書かせていただいたので、まぁこれはこれで良しとします。
ちなみにタイトル「レール・デュ・タン【 L’Air du Temps 】時の流れという意味です。
拝読ありがとうございました。