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旅人

作者: 邑楽

「どうして…どうしてあなたは行ってしまうの……?」


ある女が言った。あろうことか、その女は今目の前にいる男に恋をしてしまったらしい。けして恋をしてはいけない、その男に。


「この地が私を拒んでいる。ただ、それだけのことです。」


まったく表情の無い顔で男が発する言葉。それは実に簡潔であり、自身をあらわすのに、最も相応しいこたえであった。





旅人





「な、なにを言っているの…?ここの人は皆あなたを歓迎して――。」


女が、その男をこの町にとどまらせようと必死になって言う。それは事実であったし、誰もがその男を好いていた。

生真面目で、優しくて、笑顔の似合う、この町の誰もが理想とするようなステキな男。そんな男だったからこそ今、女が必死になって町から出て行くのを止めさせようとしているのだ。





今からちょうど三週間前、上から下まで黒ずくめの異様な服装をしたその男は、この町へとやってきた。

誰かと会えば挨拶もせず、じっとその人の目を見つめる。男は、一週間くらいそんな異様な行動を続けた。

勿論、そんな男を怪しまない人がいるはずがなく、町長はこの町から早々に出て行ってもらおうと決断を下した。ところが、その翌日のこと。


「おはようございます。」


これは誰だ、と誰もが思ったであろう。あたりまえだ。その男は、ある日突然変わってしまったのだから。


「え…?あ、おはよう。」


誰だかわからなかった、とみんなが言った。しかし、あの感じの悪い男が急にステキな男になったのだ。それを誰が悪く言うものだろうか――。

そうして男はたちまち町の人気者にへとなりかわったのであった。


「こんにちは」

「ああ、こんにちは。どちらへいかれるのですか?」

「図書館へ。ちょっと調べたいものがあるものですから…」


男に、何故そんなにも急に態度がかわったのかなんて問う人は誰もいなかった。

そんなことを質問したら男が気を悪くするだろうと思ったわけではない。ただ、男にそんな質問をすること自体、誰も思いつかなかったのだ。ただ、その理由はわからない。


「そうですか。それでは頑張って下さいね。」

「はい、ありがとうございます。」


しかし、男には不思議なところが2つだけあった。


まずひとつは、自分の名前をけして言わないこと。

忘れているわけではないらしい。自分の名前を知らないというわけでもないらしい。ただ、自分にはそんな名前を名乗る資格は無いという。

そんな男を人々は訝しんだが、どうしてもというのなら仕方が無い、とあきらめた。しかし、名前が無いというのはなんとも不便なことで、人々は男があちこちを渡り歩いているということで、『旅人』とよんだ。


ふたつめは、自分のことについてなにも語ろうとはしないこと。

これについては、語らないというよりは、語れないといったほうが正確であろう。

男は、自分のことについて知らないのだ。

前の町がどんなところかは知っている。しかし、その町で自分がなにをしていたのかをまったく覚えていないという。

そのうえ男は、誰が親で、どこで生まれたかということさえ知らないと語っている。

そして、何故旅をしたのか、いつから旅をしているのかということさえも。

ある日、人々の中のひとりが言った。


「そうか、あなたは自分を知るために旅をしているんですね。」


男はなにも言わなかった。なにも言わずに、ただ少し淋しそうな笑顔をその人に向けたのであった。


だから、誰も男の歩んできた道も、男の旅の理由も、そして、男の名前すらも知らない。

なのに、何故誰もが男を好きになれるのか。

それは、男の人柄だった。今までずっと旅を続けてきたせいか、男はどんな人にでも、どんな土地にでも馴染める体質になっていたのだろう。

これが、人々の推測であった。いかにもそれらしいことではあるが、男が人々の推測どうりの人であるわけではないのだ。

だったら男はいったいなんなのであろう。しかし、人々はそんなことは誰も考えなかった。なぜなら、人々はみんな自分たちの考えを正しいと思っていたからである。だたら、わざわざ男に聞く必要も無い。それに、もしその考えが間違っているとわかっていても、男はいったいなんなのであおるか、と本気で考える人はいないだろう。男がどんなにどんなにいい人だったとしても、所詮は旅人である。どうせまたどこかへいってしまうかもしれない人に、そんなに興味を持つものではないのだ。





ある日の朝、男は町長の家をたずねた。


「いらっしゃい。急にどうしたのかね?」

「短い間でしたけど、色々とお世話になりました。明日の朝、私はここを発とうと思います。」


町長は少しだけ悲しそうな顔をしたが、君がそういうのなら仕方が無い、と言い、男に向かって手を差し出した。「君みたいな素晴らしい人が言ってしまうのは非常に遺憾なことなのだがね…。まあ、それも仕方が無いな。君は、生まれ着いての旅人なのだから。」


そんな町長の言葉に、男は軽く笑みをもらし、二人は握手をかわした。


「最後にひとつだけ、お願いをいいですか?」

「ああ、私にできることだったら何でもするよ。」

「私が明日旅立つということは、誰にも言わないでほしいんです。」


男の意外な言葉に、町長は言葉を失ってしまう。


「いいですか?私は…ひとりで静かに発ちたいんです。」


きっと大勢に見送られてしまったら、この町にもっと残っておきたいと思ってしまうのを恐れたのだ。町長はそう考え、男の願いを聞き入れた。


「…わかったよ。さようなら、旅人。またこの町の近くに来たらよっておくれよ。」

「はい。それでは、失礼します。」


そうして男は町長の家を後にした。





男は、町の入り口からしばらく町を見つめていた。その表情はまだこの町に未練があるようにも見えたし、そうではないように、つまりこの町から発つことができて嬉しいという風にもとれるという複雑なものであった。


そして、男がいざこの町を発とうとしたその時。


「旅人さん、どこへいかれるの?」隣町からでも帰ってきたのであろう、女が男に声をかけた。


「もうこの町を発ってしまうなんて事は…ないわよね?」


男はこたえない。


「お願いだから、どこへも行かないで…あなたがいなくなったら私…」


女がその場に崩れ落ちる。しかし、依然として男は黙ったままであった。


「どうして…どうしてあなたは行ってしまうの……?」


ある女が言った。あろうことか、その女は今目の前にいる男に恋をしてしまったらしい。けして恋をしてはいけない、その男に。


「この地が私を拒んでいる。ただ、それだけのことです。」


まったく表情の無い顔で男が発する言葉。それは実に簡潔であり、自身をあらわすのに、最も相応しいこたえであった。


「そんなこと…ないわ。」

「私は旅人です。どこにも、とどまらない。どこにも、とどまれない。」


そう言って空を仰ぐ男の顔に流れた小さな川が、朝の太陽に照らされキラリと光る。

それは、涙であったのだろうか。それを確認するまもなく、女は気を失った。





女が目を覚ましたのは、翌日の昼のことであった。そこにはもう旅人の姿はない。


そして、どういうわけか、女の記憶の中にも旅人の姿は無かった。さらに、男と会ったはずのすべての人々の記憶の中にも。





男は旅人であった。

男は科学者であった。

男は自分を実験台にして、成功した。

その実験は、誰からも好かれる人間づくりというものであった。

だから男は、自分がわからない。

どんな人に会うかによって、人がかわってしまうから。

だから男は、名前を名乗らない。

それは、ひとりの人ではないから。

だから男は、旅に出る。

どんな人からも本当に好かれる人間になることができるように。

嫌われ者の自分を捨てて、知らない素晴らしい誰かになることができるように。

男は今日も、旅に出る。

いつか『自分』という存在が完全になくなるまで。

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