夜話
この小説の時代が一昔前なので、看護師ではなく看護婦としています。
丸い笠をきた電灯が激しく瞬く。
褥に寝巻姿で座した女は、ちょうど美しい黒髪を左肩にたらすよう編みあげたところだった。
仕上げに組紐を結んで顔をあげ、めぐらせる視線に電灯の光に踊る影が映った。
だが突然、なんの前触れもなく明かりは消え失せる。
庭に続く障子越しの月明かりが室内を不気味に見せた。
女は気配に気がついて足元に目を向けた。
「お待ちしておりました」
静かな声で女は言った。
そこにはいつのまにか男が立っていた。
「この姿を見る者に会うのは久方ぶりか」
「あなたがいらっしゃったということは……わたしは死ぬのですね」
「そうだ。そこまでわかっていて、わたしが恐ろしくはないのか?」
あっさりと頷く男もまた漆黒の髪をもち、揃いのような瞳は黒曜石のごとく美しい。
女に小さな笑みが浮かんだ。
落ちついた物腰ではあったがその面にはまだ少女の面差しが残っている。
「なぜ笑う」
「あなたに会えたからかもしれません。――あなたにお聞かせしたい話があります。聞いてくださいますか?」
おっとりとした問いかけに男は少しの間沈黙した。
青白い月明かりだけの部屋にあって、男は自身から黒い輝きを放っているようだった。
「いいだろう」
その場に胡座をかくと、彼はどこか興味をひかれたように女を見つめた。
「では、一人の少女の話を」
女はおもむろに話をはじめた。
***
少女はずっと病院で暮らしていた。
体が弱く生まれてすぐに医者からは長く生きられないだろうと言われた。
同じ年頃の子どもと同じように駆け回ることもできない。
一日のほとんどをベッドの上で過ごす彼女の楽しみは写生と読書しかなかった。
「おじいちゃん、描けた」
木陰で傍らに腰を降ろし、書物に目を通していた祖父は顔をあげた。
風が流れ祖父の着物から微かに甘い香がかおる。
「どれ?――ああ、きれいな秋桜だ。おまえは本当に絵がじょうずだね」
祖父にほめられ少女は照れながらも少し得意そうに笑った。
「少し風が出てきた。また熱が出てはたいへんだ。病室に戻ろうか」
素直にうなずく少女の手を取り祖父はゆっくりと歩く。
仕事で忙しい父と家庭を守る母、そして年の離れた兄が少女にはあったが、彼女にとって誰よりも大好きな人は、毎日見舞ってくれる穏やかで優しいこの祖父だった。
「おじいちゃん、また旅行に行く?」
仕事を早くに少女の父である息子に譲り、祖父は日本各地の伝承を集めては、伝説の生き物や想像上の動物の研究をしていた。
現地へもよく赴き、ひとたび旅発つと一ヶ月は帰らないこともある。
だから少女の最も恐れることは、祖父に会えない寂しさであった。
「いいや。しばらくは旅行に行くことはないよ。安心おし」
そう言って笑う祖父にほっとして、少女は同じように笑顔を向けた。
病棟に戻ると少女の部屋の隣がとてもあわただしかった。
開け放ったドアの向こうでは、医師が厳しい口調で看護婦に指示を出し、患者である少年の名を耳元で叫んでいる。
廊下から中の様子を見ていた少女は、ただならぬ雰囲気に呆然と少年を見つめた。
彼とは仲が良いわけではなかったが、長い入院生活で時折言葉を交わすことがあった。
「行こう、ここにいちゃいけない。病院の人の迷惑になるからね」
祖父の手が強引に少女の手を引いた。
祖父を見上げ病室内を見つめるその顔が、ハッと息を呑んだことで、彼女は再び少年を見た。
医師の向こうに女性が立っていた。
ベッドを見つめるその顔に、記憶をたどった少女は何度か見た少年の母親だと思い当たる。
「おばちゃん?」
呟いたとたん祖父に引きずるように手を引っ張られた。
走る勢いで少女の病室に入る祖父はきっちりとドアを閉める。
そのまま膝をついて強く少女を胸に抱きしめた。
「あれが来てはもうあの子は助からん。――おまえは近づくんじゃないよ。そのときが来るまで絶対に関わっちゃいかん」
祖父の言う『あれ』とはなんなのか少女にはわからなかった。
ただ漠然と、いま見た少年の母親のことを指すのだとわかった。
あまりにも必死な祖父に少女は目に映る着物を握りしめる。
「うん、わかった。おじいちゃん」
祖父を安心させたくて少女はうなずいた。
少年はそれから間もなくして亡くなった。
そして季節は流れた。
***
十歳まで生きられるかと思われた少女は十二歳になっていた。
成長とともに免疫力がつき、幼いときほど頻繁に熱を出すことはなくなっていたが、細い体は同世代のそれよりひとまわりは小さかった。
野外に出ることが少ないため白い肌は透きとおるほど、おさげに結った黒髪をほどくとまるで日本人形のようであった。
うららかな昼下がり。
窓から舞い込んだ一片の花びらに少女は気づいた。
読んでいた書物に紅が落ちる。
ふと少女が笑みをもらしたところで少ししゃがれた声がかかった。
「なんだか楽しそうだね」
「あ、おじいちゃん。目が覚めた?」
一人部屋のベッドに横たわるのは祖父であった。
冬に風邪をこじらせ肺炎を引き起こし、少女と同じ病院に入院したのだ。
だが雪が溶け桜が咲く春になっても祖父は退院することはなかった。
医師によれば、祖父の体はいままで日常生活が送れていたのが不思議なほど弱っていたという。
「桜の花びらが風にのってこの病室まで飛んできたの。今日は風が強いし裏山の枝垂れ桜かな?ちょうど満開でとっても綺麗だって看護婦さんが言ってたよ」
「桜か。――桜の下には鬼が隠れているから気をつけるんだよ」
「おじいちゃんって毎年それ言ってる」
少女はおかしそうに笑った。
ページの間に挟まった紅色の花びらを手に、本を祖父の枕元に置くと少女は椅子から立ち上がった。
窓辺で手のひらに軽く息を吹きかけると、ひらりと宙に舞った花びらは外の花吹雪にまぎれてすぐにわからなくなった。
「心配しないでおじいちゃん。桜の鬼は人を惑わせる……でしょ?わたし、いままでおじいちゃんに教えられたことは全部覚えてるし、いやな感じがするものには近づかないから」
「ああ、そう……そうか、おまえは勘がよかったね。その直感を信じるんだよ」
祖父の目は人と少し違っていた。
普通の人間が見えないものまで見える人だった。
そしてその目は血のつながりゆえか、少女にも受け継がれていた。
振り返った少女は大人びた表情で祖父に微笑んだ。
少女にももうわかっていた。
この体は見える『それら』と関わるには脆すぎる。
健康な人間ですら長くつきあえば体を蝕まれていくのだ。
この祖父のように――。
「ねぇおじいちゃん、わたしこの目をいらないなんて思ったこと一度もないからね」
少女の言葉に祖父の双眸がわずかに見開かれた。
自分と同じ目を持つ孫に不幸を負わせたと、祖父が苦しんでいることに成長するにつれ気がついた。
「この目のおかげで不思議なものがたくさん見れたの。雨の日に雷様を見たり、きれいな声で歌ってる雲雀の精を見たり、それだけで退屈な病院生活も楽しかったよ。わたしがこんな体じゃなかったら絶対おじいちゃんと一緒に旅をして、もっといろんなもの見たかったもん。おじいちゃんみたいに不思議な生き物と仲良くなりたかったよ」
少女の話を黙って聞いていた祖父は、やがて小さく「そうか」と呟いた。
見えるからこその好奇心で研究を続けた祖父が、伝え聞く話を元に現地へ赴くのは彼らに会いに行くためだった。
その結果がどうなるか、祖父自身わかっていたはずだ。
目の前にある彼の頬は以前と比べ物にならないほどにこけ、痩せた手足からはベッドから起き上がる力も失われつつあった。
祖父はきっと長くない。
最近は眠っていることが多くなった祖父に少女は死の影を見ていた。
「おじいちゃんはおまえに少しでも長生きしてほしい。でもこの目のせいでおじいちゃんのように、おまえも『あちら側』に魅せられたらと怖かったんだ」
「おじいちゃんは目のせいで不幸だったの?」
「いいや。たくさんの不思議に出会えたよ。楽しかった」
「じゃあいまは不幸なの?」
「こうしておまえと過ごせているのがなによりの幸せだ」
穏やかな祖父の物言いは以前と変わらない。
それがなぜか少女の胸をつまらせた。
「……じゃあわたしも不幸じゃないでしょ?」
「ああ、そうだね。おじいちゃんが気にしすぎていたよ。だから泣くのはおよし」
少女に向かって祖父は細い手を伸ばした。
膝をつくと少し冷たい手のひらが頭を撫でた。
「おまえは優しい子だね。やっぱりおじいちゃんはおまえに長生きしてほしいよ。だから約束しておくれ。おじいちゃんのように『あちら側』に関わりすぎないと。いいかい、いままでのように見るだけに留めておくんだよ」
うなずくと祖父は安心したように少女にうなずき返し言葉を続けた。
「おまえはもっと現実に目を向けなさい。そして恋でもしてごらん」
「こ、い?」
人より死が身近にある少女にとって、恋など他人事でしかないと思っていた。
驚いた彼女が目をぱちくりさせていると祖父は優しく笑った。
「おじいちゃんがおばあちゃんに出会ったように、おまえにもきっといい人が現れる。そう信じているんだよ。そして恋をしたら体のせいにして諦めちゃいけない。心は自由だ」
祖母は少女が生まれるずっと前に事故で亡くなっている。
祖父の手帳にはいつも彼女の写真があった。
ただ一人の女性を彼は今も愛していた。
「普通の子どもに当たり前にある日常は健康な体であることが前提だ。それができないおまえは諦めることを簡単に受入れた。おじいちゃんはそれが不憫でならないよ。だからせめて普通の娘らしく恋ぐらいは知っておくれ――おじいちゃんの心残りはそれだけだよ」
「おじいちゃん」
まるで最期の別れのようだった。
祖父もまた自分の死期を悟っている。
「ああ、そんな顔をするんじゃない。おじいちゃんは幸せな一生を送れたからね。さ、おまえももう病室へお戻り。長く起きていては体に障る」
頬を撫ぜる祖父の手が離れた。
言われるがまま立ち上がったが少女は動けなかった。
「続きは明日話をしよう」
微笑まれ少女はやっとうなずいた。
手を振って病室をあとにして、だがすぐに祖父の枕元に本を忘れてきたことを思い出した。
「いけない」と呟いて病室に戻ると、祖父のベッドの脇に着物姿の若い女が立っていた。
病室でも廊下でも、誰にもすれ違わなかった。
驚きながらとっさに確認した祖父は眠っているようだった。
女の顔をもう一度見つめた少女は眉を寄せ、相手が誰であるかを知り驚愕した。
「おばあちゃんっ!?」
写真で見た若い頃の祖母がそこにいた。
死んだはずの彼女が声にふと面を向ける。
「童か――近づくなと言われたはずが……どうやら祖父の忠告も無駄だったようだな」
「おばあちゃんじゃ、ない?――いったいなに?あなた誰?」
震える声音で尋ねる少女の脳裏に、ふいにあの秋の光景がよみがえった。
少年が亡くなる間際、傍らに立つ彼の母親を祖父は『あれ』と言った。
同じものがいま目の前にいる。
そう少女は直感的に思った。
人が死ぬときに現れる者……。
「――――死神……?」
呟きと同時に祖母の姿が陽炎のようにゆらぎ、別の姿へと変わった。
それは漆黒の髪と瞳を持った美しい男だった。
こんな状況でありながら少女は一瞬にして目を奪われる。
「見抜かれてはもはや姿も偽れんな。――去れ、近づけばおまえも道連れとなる」
それで理解した。
大好きな祖父はもう二度と目を覚まさないのだと。
男から目が離せないままに彼女の瞳から涙があふれた。
ずっと自分を支えてくれた祖父に会えなくなるくらいならば、いっそ供として男に魂を獲られてもいい。
まるで少女の気持ちを読んだように死の使いが手を伸ばす。
同時に急激に胸が痛み、目の前がかすんだ。
薄れる意識に男の愉しそうな顔が鮮やかに残る。
少女の意識はそこで途切れた。
***
「話はそれでしまいか?」
「――お気に召しませんでしたか?」
尋ね返す女を見て男はつまらなそうに鼻で笑った。
「昔話を?祖父を奪った恨み言を聞くほうがまだ笑えた」
男の皮肉を女は微笑んで受け流した。
「わたしはあのとき死ぬのだと思いました」
「死にたかったか?」
「あの一瞬は。脆弱な体で生きる意味があるのか、わたしにはわかりませんでしたから。でもいまはここまで生きてこられて良かったと思っています。十五のときに病院から自宅療養にかわって、好きな絵と読書を楽しむ時間も増えました。ここは祖父が生前使っていた部屋です。なにもかもそのままに残してあって、興味深い書物がたくさんありました」
遠くで鳥の鳴き声がした。
障子に目を向けた女はいつの間にか月明かりが消え、空が白んできていることに気づいた。
「夜が明けてきましたね」
独り言のように小さく言って再び男に目を向けた。
かわらぬ姿勢で胡座をかいた男は、ちらとだけ障子に視線を投げただけだった。
話の続きを待っているのだと女は感じた。
「あなたを描かせていただいてもよろしいですか?」
すくと立ち上がり女は卓上にあったスケッチブックを開いた。
男が無言なのは了承の意と受け取り、女は細い手で鉛筆を走らせる。
不思議と手元はよく見えた。
「祖父の書物の一つにおもしろい記述がありました。あなたのような人外の方に名を教えていただけたら、人はその主となれるそうです」
「わたしを支配したいと?」
「いいえ」
男の問いに女は苦笑を浮かべて首を振った。
スケッチブックを見つめる女は手を止めることはない。
しばらく室内に、紙をなぞる鉛筆の音が響いた。
男の姿が紙の上に写しだされ、女は満足そうに鉛筆を置いた。
出来上がった絵を彼に見せる。
「いかがですか?わたしが最期に描くのはあなたがいいとずっと決めておりました」
ほんの瞬きほどの一瞬で男は女の前に立っていた。
見下ろす漆黒の瞳が女を捕らえ、伸ばされた手が手首をつかんだ。
強引に引き寄せられスケッチブックが畳に落ちる。
「生きたいか?」
「――あなたは尋ねてばかりですね。……わたしが現世でただ生きたいだけだと?」
女の手が男の頬に触れた。
あの日、心は男に奪われた。
望みはとうに決まっている。
「あなたに見合う姿になるまで死にたくないと思っていました。あなたと共に歩みたいと思うわたしは愚かですか?――わたしはあなたと生きたい。それがこの世でなくても……」
見つめあったまま変わらぬ男の表情に、女はやがて諦めたように頬から手をはなした。
「ご無理を申しました。死に逝く者の気の迷いとお許しくださいませ」
男から数歩後じさり、滲む涙を隠すように女は頭を下げる。
追うように男の指が女の髪に触れた。
組紐の結びがほどかれ男が長い髪を梳く。
「夜織」と男が女の名を呼んだ。
「おまえの髪は結わぬほうが美しい」
驚く女に男は薄く笑って組紐を捨てる。
手を差し伸べた男の唇が静かに紡いだ。
「黒黎と――そう呼べ」
***
朝日が差し込む和室に人の姿はなかった。
卓上に組紐と開いたスケッチブックあった。
そこに描かれた絵が陽光に薄れて消えてゆく。
『漆黒の黎明』
最後にそう記された文字が消え、白いページが光を反射してまぶしく輝いていた。