汚泥の掌
僕は、いつだって。
憎まれてた。
蔑まれて当然の、化け物だから。
+++
部屋から出たらその人が目の前に立っていて、僕はただ漠然と、失敗してしまった、と思った。
見上げた先では、首が痛くなる位に上背のある、黒い長髪の男の人が微笑んでいる。
「やあ、こんにちは。チノちゃん」
そう言ってその人は大きな手を僕へと差し出してくる。
それを握り返す事なんて勿論やっちゃいけないから、僕はほんの少し後ろへと下がって、深く頭を下げた。
頭の上で苦笑したような気配がして、そして、僕が頭を下げている間に、その人は僕の前から立ち去っていった。
足音が、奥へと続く廊下に響いている。
その音を聞きながら顔を上げて、そちらを見た。
大きなその人は、どうやらウテン様の書斎に向かったようだ。
その顔をこちらへ向けることなく、その手が開いた扉の内側へと、その姿が消える。
それを見届けてから、知らず詰めていた息を吐いた。
あの人は、<風王>のセイクウ様だ。
今日ウテン様に会いに来るのだと聞いていたから、出逢う前に家から出ようと思っていたのに、遅れてしまった。
だって、セイクウ様はウテン様のお友達だ。
そんな人にくらいは、嫌な想いをさせたくない。
僕なんかに会ったら、その日の気分は最悪だと思う。
計画が失敗したことにがっかりしながら、僕は傍らに抱えていたスケッチブックとクレヨンの入った鞄を背負う。
とにかく、帰りまで会ったりしないように、早く出掛けてしまおう。そう決めて歩き出した。
そんなに距離はない廊下を歩き、玄関から外へ出る。
見上げた空は晴れていて、ずっと向こうまで青空が続いていた。
今日は、何処へ出ようか。
踏み固められた小さな道を歩き出しながら、そんな事を考えた。
出来れば、誰も居ないような所が良い。
そうすれば、誰も僕には会わない。
とすれば、やっぱり、あそこだろうか。
頭に浮かんだ場所に、少し考えて頷いた。
そうだ。あそこが良い。
目的地が決まったので、歩く方向を変える。大きな集落へと続いていく道を逸れて、右へ。
出来るだけ草の少ない所を選びながら、黙々と歩く。
ここは、精霊の治める世界、レニア・シャーム。
神様の居る世界よりは低く、人間の居る世界よりは高いところに在る、広い世界。
あまりにもこの世界は広くて、更に僕はウテン様の館からあまり離れたことが無いから、行った事の無い場所はたくさんある。
僕が今目指している場所も、ほんの数日前まではその一部だった。
数日前に、いつもの道から逸れて発見した、小さな丘だ。
背中に森を構えたそこは、ウテン様の館から少しだけ離れた場所にあって、だからあまり近付く人は居ないようだった。
ウテン様の館には僕が居るから、殆どの人はあの館に近付かない。
そんな事を考えながら足を動かしていたら、ふと足場が昇りになり、足を止める。
着いた。
嬉しくなりながら、丘を駆け上る。
そして、森に背を預けた丘の頂上ではなく、その中腹で後ろを振り返る。
ここからの眺めが、僕は嫌いじゃなかった。
自分の身長では絶対に見渡せない遙か彼方まで、見ることが出来るからだ。
綺麗な物を見ることが出来ると、それだけで少しだけ、嬉しくなる。
自分が変わっていくような気がする。
もちろん、それは気のせいなのだとは、知っているけど。
ふう、と息を吐いて、鞄からスケッチブックとクレヨンを取り出す。
何を描こうか。
そんな風に思っていると、不意に、丘の向こう側で足音が聞こえた。
走ってきたような音だ。
こちら側まで来るかと身を竦ませたけれど、そうはならず、音が止まる。どうやら、座ってしまったらしい。
ここに人が来るなんて。
僕は少し眉を寄せた。
見つかる前に、立ち去った方がいい。
顔を見られて、嫌悪の表情を浮かべられるのは苦手だ。
そう思って、鞄にクレヨンとスケッチブックを入れようとしたとき、突然強い風が吹いた。
「……!」
驚いて目を見開いた僕の手から、スケッチブックが風にあおられて飛ぶ。
それは僕の後方、丘の頂上付近まで運ばれて、音を立てて落ちた。
慌てて駆け寄り、それを拾い上げる。
音が聞こえていないと良いけれどと、思わず丘の向こうへと目をやると、そちらに居たその人が振り返った。
ぱちりと、目を見開く。
土色の髪。赤い、燃えるような瞳。健康的な色の頬。
その人は多分僕と変わらない年の男の子で、僕はその顔を知っていた。
この前、土手で怪我をしていた子だ。
頭から血が出ていたけれど、今はもう大丈夫らしい。頭に包帯などは無かった。
良かったと思いながら、それどころではないと胸の内で首を振る。早く、立ち去らなくては。
「あの……」
そう思った時に、彼が口を開いた。
驚いて、思わず後退る。
それを変に思ったのか、男の子がこちらへと体の正面を向けたので、更に一歩下がってしまった。
不思議そうな目に、申し訳なさが胸一杯に広がる。
だって、しょうがない。
近付いて、侮蔑の言葉を投げつけられる方が、痛い。
僕の胸の内をよそに、ふ、と彼は微笑んだ。
その瞳に宿った光に、僕の体が戦く。
「……こんにちは、えっと……チノ、さん?」
どうして、僕の名前を知っているのだろう。
ウテン様に聞いたのだろうか。
「この間は、助けてくれてありがとう」
彼が言う。
別に、僕は助けたりなんてしていない。
だって、僕が触ったら死んでしまうかも知れなかった。
だから、手当すらしていない。
ただ、ウテン様にお願いをしただけだ。
けれどそれを知らないのか、彼の笑みが更に広がり、その手が僕を手招きした。
「良かったら、こっちで、一緒に座りませんか?」
そんな風に聞かれたら、困ってしまう。
僕としては今すぐ逃げ出したいけれど、そうしてしまったら傷つくだろうか。
更に嫌われるだろうか。
どうしようかと迷って、結局断れずに、僕は彼の方へと少しだけ近付いた。
彼から、大人が姿勢を崩して三人ほど座れる位の距離を開けた地点に、そっと腰を下ろす。
これ以上近付いたら、彼が不愉快に思うかもしれない。
何故か彼はずっとこちらを見ていた。
その視線を感じながら、スケッチブックを膝に立てかける。
そうしてクレヨンを取り出して、その中から青いクレヨンを手に取った。
それで、スケッチブックの一カ所に、まず円を描く。
それから、円を描くように、ゆっくりスケッチブックを塗りつぶしていく。
時々方向を変えて、僕が其処に描いたのは空だ。太陽は色が難しいから、とりあえずは青空から。
そうしていると、ふと少し離れた位置に座っていた彼が、僕から視線を外し、ぱたりと草の上に寝転んだ。
その分少し近くなってしまい、思わず肩を竦める。
けれど、それ以上彼に動きは無く、別に意図した事ではないだろうと結論して、僕は止めてしまっていた手を動かした。
青クレヨンが、白いスケッチブックに広がって空になる。
「チノ……さん」
ふと声が掛けられたのは、空の絵があと少しで終わりそうになった時だった。
絵と言っても、まだ青い色だけ。後は太陽だ。
手を止めて目を向けると、彼は寝転んだままこちらを見ていた。
その瞳はまっすぐで、ただ、純粋に光を放つ聖火の色をしていた。
窺うように見てしまった僕に、彼は微笑みを浮かべる。柔らかく優しいそれに、僕は肩を竦めた。
僕は、その類の態度が、一番苦手だ。
とっても失礼なことだと思うけれど、仕方ない。
「チノ、さん」
彼は僕の名前を繰り返し、寝転んだまま僕へと手を伸ばした。
その指先が近寄ってくるから、僕は少し体を動かして、近付いた分だけ離れる。
どうしてそんなことをするんだろう。
触られたら、どうしたらいい。触って、嫌悪を浮かべられたら、苦しくなるに決まってる。
初めから傷付けられると分かっていたら、それを避けようとするのは当然のことだ。
僕の動きに、彼の手が止まった。
そのまま手は下ろされて、彼がゆっくりと起き上がる。
その顔が、まっすぐに此方を見ていた。
「チノさん」
そんな風に呼ばれても、どう返事をしたらいいのか分からない。
僕は少し困った顔をしてしまったのだろうか、ふと何か考える顔をした彼が、もしかして、と訊ねた。
「しゃべれないんですか?」
率直な問いに、首を振る。
どうしてそんなことを訊くのだろう。
戸惑いながら、スケッチブックを捲り、真っ白なページを前にする。
青のクレヨンを置いて、代わりに黒いクレヨンを手に取った。
そして、紙面の上に文字を書き、少し歪なそれをそのまま彼へと向ける。
『話してはいけないから』
こうすれば、彼に僕の声を聞かせないで済む。
どうしてだか、土色の髪が揺れて、彼が首を傾げた。
「どうして?」
それは僕の方が訊ねたい。
僕は、同じように少し首を傾げてから、返答をまた新しいページに書き付ける。
そして見せた。
『だって、いやでしょう』
「何が?」
『僕は忌み子だから』
じっと、僕は彼を見つめた。
忌み子。忌まわしい子供。
そう呼ばれるようになったのは随分と昔で、ウテン様に貰った『チノ』よりも、僕にぴったりな気がしていた。
すぐにスケッチブックを自分の方へ戻して、更に言葉を続ける為に文字を書く。
『石も無い』
僕の額には、精霊の証すら無い。
『力も無い』
本来生まれ持つ筈の、属性を備えた力の欠片すら無い。
『種族も無い』
家族も、いない。
僕は気付けば一人だった。
そうしてウテン様が拾ってはくれたけれど、それでもきっと、これからも一人だ。
『呪われた子供だから』
そこまで書いて文字を見せた時、彼は僅かに眉を寄せた。
不快な思いをさせてしまったなら申し訳ないと、思いながら文字を綴る。
『気味が悪いでしょう』
そう書いて見せてから、ああ、少し違うかなと、思って書き直した。
『気持ち悪いでしょう』
触られたら死ぬとか、声を聞いたら呪われるとか、そういう噂がされている事くらいは知っている。
そして、それは半分事実なのだ。
僕が傷付いているときに僕へ触れたら、その人は死んでしまうかもしれない。
じっと見つめた僕の視線の先で、赤い瞳をした彼が、ぐ、と息を詰めたようだった。
その顔に浮かんだ色に、僕は戸惑ってしまう。
あまり見たことの無い感情が、彼の顔にあった。
それは、勿体ないくらいにウテン様が向けてくれる微笑みとか、当たり前なくらいに周囲から与えられる侮蔑とか、そういった物ではなく。
怒りに、見えた。
『どうしたの』
問うためにクレヨンで綴る。
それを目で読んだ彼は、いよいよ眉を寄せて、何かを堪えるように口を引き結んだ。
そしてそれが決壊し、その口から声が漏れる。
「……んで……!」
震える声がその白い喉から漏れて、吐き出される。
「……何で……!」
それを発している彼の瞳に、大きな雫が宿った。
「何で!」
叫ぶように吐き捨てられた声と共に、感情の篭もった一滴が彼の頬を伝って落ちる。
それを追ってまた落ちていくその雫達を、僕はただ見つめていた。
どうして、泣くんだろう。
戸惑って、睨みつけてくる聖火色の瞳に堪えきれず目を伏せる。
見下ろした先には、白いスケッチブックと握りしめた黒いクレヨン。
彼はまだ泣いているようで、喉から僅かに発される声と、掠れた息が聞こえていた。
何処かに行った方が良いかと思ったけれど、その所為で更に不愉快になられたらいやだとも思って、結局どうにも出来ずに、僕はその場に留まった。
彼が何に怒っているのかが、まったく分からない。
戸惑うまま、白いスケッチブックに黒いクレヨンで小さな丸を描く。
真っ白いスケッチブックの上に、ただ一点の黒。
これが、僕だ。
指先でそれに触れながら、ゆっくりと目を閉じた。
まだ、彼の泣いている気配がする。
こうして、気持ちをぶつけられるのも、困ってしまう。
どうしたら良いのか分からない。
ウテン様の、笑みも。
侮蔑だけならまだ良かった。
嫌悪だけならまだ良かった。
まるで汚したくなかった掌に汚泥を塗りたくられたみたいな、視線だったなら。
だって、そういう感情なら向けられ慣れている。
でも、彼のようにまっすぐな感情は、それだけで駄目だ。
僕には受け取る権利も無いのに、どうしたら良いのか分からない。
ちょっとだけ目が熱くなって、瞼へ力を入れた。
ゆっくりと、時間が過ぎていく。
細く、彼が息を吐く気配がして、見動いて、何かに気取られて息を呑んだようだった。
それを聞いて、どうしたのだろうと目を開く。
少しぼやけた視界の中で、炎の色をした双眸がこちらを見ていた。
「……チノ、さん……」
囁きは小さく、慣れてきた目に、しまった、と自己嫌悪をしている彼の顔が見えてくる。
どうしたのだろうと、思いながら見つめていると、彼は俯いた。
それから、その歯が下唇を噛む。
拳が自分の目元を拭って、その涙を擦り落とした。
「……チ、チノ、さん」
そして僕を呼び、顔を上げて少し間を詰めてくる。
あれだけ伝えたのに近寄ってくる彼を、僕はぼんやりと見つめた。
じりじりと近寄った彼は、僕の前に顔を寄せて、囁くように口を動かす。
「チノさん」
聖火色の瞳の中に、汚れた黒の髪と右目を覗かせた僕が反射されていた。
どんな表情をしているのかまでは、分からない。
「……チノさん」
彼が、そっと、呟く。
「僕、…………俺。俺、カエンって言います」
そっと名乗って、彼はじっと僕を見つめた。
何かを窺うようなその視線を見返してから、僕はスケッチブックを捲り、新しいページに、クレヨンを滑らせる。
『きれい。炎の名前だね』
僕の文字に、彼は顔を歪めた。
まるで泣き出す寸前のような顔に面食らって、僕は慌てる。
何か、酷く傷付けるようなことをやってしまったのだろうか?
けれど、先程のように涙を零すことなく、カエンと名乗った彼は一度俯き、そしてすぐに顔を上げる。
その顔には、春先に見つける日差しのような笑みがあって。
目がくらむような眩さに、次に顔を背けたのは僕だった。
どうして、そんな目をするのか。
そう問い掛けたかったけれど、どうしても、それは、出来なかった。
+++
僕は、いつだって。
憎まれてたじゃないか。
そうだった、じゃないか。