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私、 転生して路傍の石になっちゃいました。 ~石から始まる、底辺騎士爵の娘の受動的英雄譚。なぜか放っておいてもらえません~  作者: 大童好嬉


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第22話 魔物との遭遇

しばらくして、森の奥から――かすかな音がした。

アルフィは、はっとして身を固くする。


呼吸を抑え、耳を澄ませた。

……何か、いる。

最初は、風だと思った。木々の間を抜ける気流が、葉を揺らしただけ――そう思い込もうとする。

だが、違う。


音が、重い。乾いた落ち葉を踏みしめる、確かな重さ。枝が擦れ合う、低く鈍い響き。一定の間隔で、こちらへ近づいてくる気配。森そのものが、息を潜めているようだった。


次の瞬間、木立の影がわずかに揺れる。

現れたのは――ワイルド・ドッグ。

灰褐色の毛並みは森の色に溶け込みながら、輪郭だけが不気味に浮き上がって見える。体は低く、地を舐めるような姿勢で、筋肉が張り詰めている。いつでも跳びかかれる構えだ。

そして、目。光を映したその瞳には、好奇心も警戒もない。ただ獲物を測るための、乾いた意思だけがあった。


一頭。

それを見た瞬間、アルフィの背筋を冷たいものが走る。

知っている。ワイルド・ドッグは単独では動かない。今見えているのが一頭というだけで、周囲にはすでに仲間が潜んでいる可能性が高い。遠吠え一つで群れを呼ぶ魔物だ。

七歳の自分では――一頭でも勝てない。

剣もない。杖もない。

そして――ストンも、いない。


喉がひくりと鳴る。声は出ない。助けを呼んでも意味がない。

この石雪の中、外を歩く者などいないし、この森の奥に声が届くはずもない。頭が、白く抜け落ちていく。


それでも、ひとつだけ分かることがあった。

――ここに、いてはいけない。

灰色の髪も、灰色の目も、嫌われる色も、どうでもいい。


今はただ、生きたい。帰りたい。お母さんのところへ。お父さんのいる領館へ。

どうにかしなければならない。

ワイルド・ドッグの低い唸りが、森の空気を震わせる。その音が、はっきりとアルフィの背を押した。

アルフィは必死に周囲を見回す。逃げ場はない。

視線が地面を彷徨い、やがて一本の太い枝を捉える。苔と土にまみれ、ささくれ立っているが、子供の腕ほどの太さがあった。


――これしか、ない。

両手で掴み、ぎこちなく構える。剣の構えなど知らない。ただ、震える腕を前に突き出すだけだ。

ワイルド・ドッグが、ゆっくりと距離を詰めてくる。

ノシ、ノシ、と。落ち葉を踏み潰す音が、やけに大きく響いた。

それは、明らかな上位者の歩みだった。逃げる必要も、焦る必要もない。どう転んでも勝つと疑っていない者の態度。

アルフィの喉が、ひくりと鳴る。


――ここで、逃げちゃだめ。

そう思わなければ、足が動かなくなる。

生きて帰らなければ。急に飛び出したことを、謝らなければならない。

ワイルド・ドッグが低く唸り、次の瞬間、口を大きく開いた。

鋭い牙。濡れた舌。迫る獣の息。


――来る。

アルフィは声にならない叫びとともに、枝を突き出した。狙いも何もない。ただ、必死だった。

枝は、そのまま開かれた口の奥へ押し込まれる。

ぐ、と喉を詰まらせ、ワイルド・ドッグが呻いた。


今だ。

考えるより先に、体が動く。

アルフィは枝を放り出し、背を向けて走り出した。

転びそうになりながら、ただ前へ。

息が切れる。肺が焼けるように痛む。それでも足は止まらない。


――森の出口が、まだ遠い。

石雪を避けようとして、思っていたより奥へ入り込んでいたらしい。必死に方向を定め、外へ、外へと進む。

やがて、視界が少し開けた。木々の間に、薄い空の色が見える。


――あと少し。

思わず、振り返る。

ワイルド・ドッグの姿は、見えなかった。

安堵が、ほんの一瞬だけ胸を満たす。

その瞬間――足元の根に躓いた。


体が前につんのめり、地面に叩きつけられる。

ぐきり、と嫌な感触が足首に走った。

声も出せず、転がったまま息を詰める。立とうとした瞬間、鋭い痛みが突き抜け、思わず悲鳴が漏れた。

足首が、みるみる腫れていく。


――立てない。

何度も試すが、そのたびに痛みが跳ね返る。歯を食いしばっても、足は動かない。

仕方なく、地面に手をつき、這いずるように進み始める。

森から離れなければ。ここにいれば、また来る。

石雪が、静かに降り続いている。

白い粒が、髪に、肩に、背中に積もる。

不思議と、冷たくない。

むしろ、ほんのりと温かい。

腕を動かす。前へ。少しでも。

けれど、限界はすぐに来た。

指に力が入らなくなる。肘が震え、肩が重くなる。

体そのものが地面に引き寄せられるようだった。呼吸は浅く、胸がひくひくと痛む。視界が、ゆっくりと滲む。


眠い。

さっきまで、あれほど怖かったのに。

必死に逃げて、必死に生きようとしていたのに。

その反動が、波のように押し寄せる。


――だめ、寝ちゃ。

分かっているのに、瞼が重い。

石雪が、降り積もる。

本来なら冷たいはずのそれは、なぜかやさしく体を包む。

足首の痛みが、遠のいていく。

輪郭がぼやけ、感覚が溶けていく。


疲れと痛みと、あたたかさが混ざり合い、ゆっくりとすべてを奪っていく。

ああ、なんだか――気持ちいい。

そんな考えが浮かぶことに、もう抗えなかった。

意識が、深い水の底へ沈んでいく。


アルフィの視界が、完全に暗くなる直前、胸の奥から、かすかな声がこぼれた。

「……お母さん……」


吐息のような声。


「ごめんなさい……」


それが、彼女の残した言葉だった。


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