第20話 アルフィの失踪01
どれくらい、そうしていたのだろう。
数十分か数分だったのかもしれない。だが、リーナには、それがひどく長く感じられた。それは耐えがたいほど長く、粘つくように伸びた時間だった。
扉の向こうへ消えた足音が、まだ耳の奥に残っている気がする。
本当に聞こえたのか、それとも想像なのか、その境目すら曖昧だった。
もう庭に出ているかもしれない。
もう門を抜けているかもしれない。
その想像が、胸の奥をじわりと冷やしていく。
「……追いかけたほうが……」
タツィオが、小さく呟いた。
だが、その声は床に落ちるだけで、彼の体は動かなかった。
立ち上がらない。
結局、何もできない。
その空白を断ち切るように――
別の扉が、静かに開いた。
司祭への接待の段取り、魔法適正を授かったリーナの今後の処遇、早期教育の手配、費用、派遣する教師の選定――
大人たちは、現実的で、急を要する話をしていた。
魔法は祝福であり、同時に責任だ。
司祭にはどの程度の謝礼を用意するか。
正式な記録はいつ王都へ送るか。
リーナを数年後に学院へ送る準備はどうするか。
一つ一つが、この辺境には重すぎる話だった。
話は尽きなかった。そして、ひとまずの方針がまとまり、大広間へ戻ると――
そこに、アルフィの姿はなかった。
「……アルフィはどこへ行った?」
アバルトの声が、低く落ちる。
リーナは一瞬視線を泳がせ、かすれた声で答えた。
「……部屋を、出て行きました」
その言葉は小さく、だが確かに重かった。
アバルトが眉をひそめた、その時。
――ざらり。
窓の外から、嫌な音がした気がした。
灰色の空から、静かに落ちてくるもの。
石雪。
「またか……!」
つい先日、領民総出で石雪の粉を片付けたばかりだった。
それでも、容赦なく降ってくる。
すぐさま指示が飛ぶ。
不用意な外出禁止。
各村へ伝令。
明朝の除去作業。
慌ただしく人が動く。
だが、その中心にいるはずの少女の姿が――ない。
一段落した後、アバルトは再び確認する。
「……まだ、戻っていないのか?」
ステラの顔から、血の気が引いていく。
「アルフィは……?」
後ろに控えていた助祭が答える。
「先ほど……飛び出して、そのまま……」
言葉は最後まで続かなかった。
家の中を探しても、どこにもいない。
アバルトは外へ出た。
庭には、すでに石雪が薄く積もり始めている。
だが――いない。
焦りを押し殺し、彼は戻る。
そして目に入ったのは――
俯いたまま動かない、二人の子供だった。
ステラはゆっくりと膝を折り、目線を合わせる。
「……どうして、アルフィは飛び出したの?」
責める響きはない。
ただ、知ろうとする声。
その優しさが、逆に堰を切った。
ぽろり、と。リーナの涙が落ちる。
「……タツィオが……」
震える声。崩れそうな言葉。
「アルフィに……灰色で、変だって……」
「灰色は……嫌われてるって……」
その瞬間、空気が変わった。
ステラの胸が、締めつけられる。
アバルトの拳が、静かに握られた。
そして――
「タツィオ!」
怒号が響いた。
ジョアッキーノだった。
普段の穏やかな顔は消え、怒りだけが浮かんでいる。
「お前は、人に言っていいことと悪いことの区別もつかないのか!」
タツィオの肩が跳ねる。
「それも領主様のご息女にだぞ!」
「わ、悪気は……」
その言葉は、途中で叩き落とされた。
「悪気がなければ、何を言ってもいいのか!」
雷のような声。
「だったらこの父も言ってやるぞ、お前は!――」
「……やめるんだ」
低く、静かな声が割って入る。
アバルトだった。
怒りを抑えた声。
だが、逆らえない重さがあった。
ジョアッキーノは歯を食いしばる。
それでも、口を閉ざす。
「子どもなのだから、仕方がない」
その言葉に、ジョアッキーノは歯を食いしばる。だが、アバルトは続けた。
「ジョアッキーノ……良いのだ」
ただ、今優先すべきものを示しているだけだった。
「それよりも――アルフィを探さねばならん」
その一言で、すべてが戻る。
現実へ。
ジョアッキーノは深く息を吐き、怒りを押し込める。
タツィオは俯いたまま、肩を震わせる。
「俺は……俺は……」
言葉にならない。
誰も、何も言えなかった。
灰色。
この領の色。
石雪の色。
そして――あの子の色。
外では、静かにそれが降り続けている。
――そして、その頃。
アルフィは、もうここにはいない。
だが。
ひとつだけ、違和があった。
居間の机の上。
そこに――私がいた。
ぽつりと。
まるで、忘れ物のように。
いつもなら、無意識にでも抱えていたはずなのに。
……ねえ。
思わず、心の奥で呟く。
どうして、置いていったの。
あの子が、どんなに取り乱しても、どんなに怒っても、泣いても――
私だけは、手放さなかったのに。
胸の奥が、きゅっと締まる。
嫌な予感がする。
理屈じゃない。
ただ――分かる。
これは、いつもの「少し傷ついた」ではない。
もっと深いところで、何かが折れかけている。
灰色の領に、石雪が静かに降り積もる。
そして私は、動けないまま、ただそこに取り残されていた。
初めて。
あの子のいない場所に。




