第16話 この世界
さて、と私は胸の内で息を整える。
胸など無いのに、こういう時だけ妙に人間らしい感覚が戻るのだから、我ながら都合がいい。
けれど、それも仕方がない。
これまでただ流されるままに見て、聞いて、感じてきたものを、一度きちんと形にしておきたかったのだ。
自分が何者なのか分からないまま、誰かの手の中で転がり続けるのは、思っていた以上に落ち着かない。
だから私は、石でありながら、せっせと世界を観察し、言葉を拾い集めてきた。
少しくらい認識がズレているかもしれないけれど、そのあたりは大目に見てほしい。
――誰に向かって言っているのかは、自分でもよく分からないけれど。
この世界は、剣と魔法で成り立っている。
空気の匂いも、土の感触も、どこか懐かしいのに、決定的に違う。
生活水準で言えば、中世の欧州に近いのだろうけれど、魔法という存在が、その均衡をいびつに歪めている。
火を灯す魔道具がある家もあれば、火打石すらまともに使えない家もある。
治癒魔法があるくせに、衛生という概念は驚くほど脆弱で、小さな傷が命取りになる。
豊かさと貧しさが、まるで無秩序に混ざり合っている世界だった。
私たちが暮らしているのは、スクーデリア帝国という国の辺境。
長い歴史を誇るらしく、「由緒正しい」という言葉だけは何度も耳にした。
実際のところ、石の私に確かめる術はないけれど、その重みだけは、空気の端々から感じ取れる。
その中でも、ここベルリネッタ領は、ひどく痩せた土地だ。
領主はアバルト・フォン・ベルリネッタ騎士爵。
武骨で、不器用で、それでも誰よりもこの土地に縛られている人。
ステラはその隣に立つ、静かな強さを持った女性。そして、その二人の娘――アルフィ。
あの子は、今日も変わらず私を連れて歩いている。
領地は広いけれど、人は少ない。
三つの村で、ようやく二百人に届くかどうか。
名前だけは妙に立派で、ボクサー村、ピニンファリーナ村、スカリエッティ村――どこか統一感のある響きなのに、意味は分からない。
けれど、そんなことはどうでもいいのだ。
重要なのは、この土地が、ぎりぎりで生きているという事実。
税収は銀貨で百枚にも満たず、その多くは現物。現金など、ほとんど流れていない。
人々は畑を耕し、石を切り出し、それでも足りない分を、アバルト達が命を削って埋めている。
年一回の秋の一月ほど、軍役に出て、戦って、稼ぐ。
その繰り返し。
それでも足りない。
それでも回す。
――そういう場所だ。
貨幣の価値も、ようやく体感で理解できてきた。
銅貨一枚でパン一つ。銀貨一枚で、ようやく「一週間の最低限の生活ができる」くらい。
金貨など、村民はほとんど伝説に近いのではないだろうか。
だから、あの時の戦利品が、どれだけの意味を持っていたのかも分かる。
そして魔法。
闇、光、火、水、土、風、聖。
七つの属性があるらしいけれど、それを扱える者は極めて少ない。貴族であっても例外ではなく、むしろ血に縛られた世界だとすら思える。
強い者が、強い者を選び、さらに強くなる。
弱い者は、選ばれない。
……嫌になるくらい、分かりやすい構造だった。
宗教もある。祈りもある。救いも、たぶん、あるのだろう。
けれど、私が見てきた限りでは、それはどちらかと言えば「支え」に近い。現実を変えるものではなく、現実に耐えるためのもの。
だから人は祈るし、だから人は縋る。
それを否定する気にはなれなかった。
――あの子、イシッコも、かつては、そうやって耐えていたのだから。
ふと、意識が現在へと戻る。
外は静かで、空気が少しだけ張りつめている。収穫を終えたあとの、あの独特の静けさだ。
土が眠り、風が変わる前触れ。
アルフィは、私を袋ごと抱えたまま、いつもより少しだけ早く寝床に入っていた。
明日が、鑑定の儀だからだ。
七歳になった子供に課される、避けようのない通過儀礼。
才能が暴かれ、適性が定められ、未来の輪郭が、強引に形を与えられる日。
あの子は、まだそれをあまり理解していないみたい。
ただ少しだけ、楽しみにしている。
それが、少しだけ――怖かった。
私は、石だ。
何もできない。
何も変えられない。
けれど、それでも。
あの小さな背中が、自分の意思で立ち続けられるように。
その時が来たとき、折れずに済むように。
私はただ、ここに在る。
明日、すべてが動き出す。
静かに、確実に、
もう戻れない形で。
――その始まりを、私は、見届ける。
石のまま。
それでも、確かに、見届ける。




