Ex.第5話 盗賊の生活
それから、いくつもの夜が過ぎた。
私はずっと――その少女のポケットの中にいた。
少し大きめの、くたびれた布のポケット。歩くたびに太ももに当たって、わずかに揺れる位置。それでも少女は、私を外さなかった。
ときどき、無意識みたいに、上からそっと押さえる指の感触がある。
落とさないように、なのか。
それとも――そこに“ある”ことを確かめているのか。
その少女の持ち物は、驚くほど少なかった。
着古した服と、小さな肩掛けの袋。
その中身も、ほんのわずか。
刃こぼれした短剣、汚れの落ちない毛布、替えの服が一着。それから、食べ物と呼ぶにはあまりにも頼りない、乾ききった肉が少しだけ。
そして――私。
それが、その少女の全部だった。
朝は早い。
盗賊たちが起きるより前に、少女は動き出す。
水を汲み、鍋を洗い、火を起こす。食事の準備をして、散らかったものを片づけて、汚れた服を洗う。
誰かが糞尿で汚せば、その後始末も少女の役目。
顔をしかめることはあっても、文句は言わない。
ただ、静かに、手を動かす。
慣れてしまったみたいに。
夜になると、呼ばれることがある。
おいと呼ばれて、腕を掴まれて、そのまま闇の奥へ連れていかれる。
そのときのことは――
私は、見ない。
聞かない。
感じないふりをする。
石でいることに、全力で逃げ込む。
戻ってきた少女は、少しだけ歩き方が変わっている。
呼吸が浅くなっていたり、声も出さずに震えていたり。
でも、何も言わない。
何も言えない。
そういう時間だけが、静かに積み重なっていく。
深夜。
盗賊たちが眠り、焚き火が小さくなったころ。
その少女は、自分の場所に戻ってくる。
地面に近い、冷たい寝床。
そこで、私を握る。
ぎゅっと。
指が食い込むくらい、強く。
小さな嗚咽が、伝わってくる。
涙が、私の表面に落ちる。
石のはずなのに、その温度だけは、はっきり分かる気がした。
「……いつか、ここを出るんだ」
震える声。
小さくて、でも確かな言葉。
「自由に、生きる」
その願いは、どれもささやかだった。
お腹いっぱい食べたい。
安心して眠りたい。
朝まで、怖くない夜を過ごしたい。
……それだけ。
それだけなのに。
どうしてこんなに、遠いの。
私は思う。
それは夢じゃない。
本当は、誰にでも与えられていいはずのものだって。
でも――言えない。
石だから。
だから私は、祈るしかない。
その少女の「当たり前」が、ちゃんと当たり前になる日が来るように。
それだけを、ずっと。
――そんなある日。
空から、白いものが降ってきた。
冷たくはない。
でも、どこかざらついている。
その少女は手を伸ばして、それを受け止める。
「……雪?」
首を傾げる。
けれど、それは溶けなかった。
粉のようで、灰のようで。
触れると、わずかに引っかかる。
「石雪か……」
吐き捨てる声。
その瞬間、空気が変わった。
「入れ! テントだ!」
「浴びるな! 皮膚がやられるぞ!」
荒々しく押し込まれる。
狭くて暗い空間。
ざわめきの中で、少女は話を聞く。
長く浴びれば、体が少しずつ石になること。
指先から、足のつま先から、皮膚から、じわじわと固まっていくこと。
やがて動かなくなること。
少女は、静かに頷いた。
――知っているから。
盗賊団の中に、そういう人がいた。
年配の男。
背中が曲がっていて、動きが遅くて、右手の指が灰色に固まっている。
もう細かいことはできない。
剣も握れない。
だから、雑用と見張りだけ。
みんなからは、「ノロマ」と呼ばれていた。
笑われていた。
邪魔者みたいに扱われていた。
でも。
その人は、少女にだけ、少しだけ優しかった。
水を汲めば礼を言ってくれて、重いものはさりげなく代わってくれる。
寒い夜には、火のそばに呼んでくれる。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、安心できる場所。
少女は何も言わない。
ただ、その人の近くにいるときだけ、少しだけ肩の力が抜けていた。
テントの中。
石雪の音を聞きながら、少女は私を握る。
いつもより、強く。
その手が、少し震えている。
私は、何もできない。
守れない。
変えられない。
石だから。
……でも。
思ってしまう。
もし、この白い粉が、誰かをゆっくり石に変えていくのなら。
せめて、この少女だけは。
心まで、固まってしまう前に。
あの小さな願いが、夢で終わらない場所へ辿り着けるように。
私は、今日も。
ポケットの中で、ただ静かに在り続けていた。




