第10話 ステラの出産
結果として――子どもは、無事に生まれた。
深夜、領館に響いた産声は、細いようでいて確かな芯を持ち、長く張り詰めていた夜を一息に切り裂いた。だが、それは後から振り返れば、ほとんど奇跡と呼んでいい出来事だったのだと、私は静かに理解している。
出産は、決して順調ではなかった。むしろ、あと一歩で取り返しのつかないところまで踏み込んでいた。
どれほどの時間が経ったのか、私には分からない。
外の夜がどれだけ深くなったのかも、冷えた空気がどれほど濃くなっていたのかも、ここには届かない。
ただ、この部屋の中だけが、異様に熱を帯びて、時間の流れから切り離されていた。
押し殺された息遣い。擦れる布の音。産婆の低く短い指示。
ステラは何度も呼吸を整えながら、必死に耐えていた。その手の中で、私は強く握られている。汗で少し滑る。
それでも、決して離されない。
……こういう時、石でよかったと思う。
怖くて足がすくむことも、血の気が引くこともない。ただ、ここに在ることができる。
けれど――異変に気づいたのは、産婆だった。
腹に触れ、確かめるように手を動かしたあと、ほんのわずかに、その動きが止まる。
「……こりゃ、少しおかしいのう」
静かな声だった。でも、その重さははっきりと分かった。
「胎の位置が……違っとる。逆子かもしれん」
その一言で、空気が変わった。
冷える、というより、沈む。
ステラの手が、わずかに震えた。
逆子。
それがどういう意味を持つのか、この世界ではあまりにも明白だ。運任せ。祈り頼み。
母か子か、あるいは両方か――何かを失う可能性が、当たり前に存在する。
「……覚悟は、しておきなされ」
その言葉に、ステラの顔が歪む。
「私は……どうなっても構いません……この子だけでも……」
震える声。けれど、迷いはない。
……違う。
思わず、私は否定していた。
違う、そんなの。
どうして一人だけなの。
助かるなら――二人ともでしょう?
言葉にはならない。ただ、意思だけが、確かにそこにあった。
その時、ステラの意識が、ふと私へ向いた。
強く握っていた手の中の、違和感。
――私。
アバルトの言葉を、思い出したのだろう。この石に助けられた、と。
「……お願い……」
震える声が、私を通り抜ける。
「この子だけでも……」
だから。
私は、それを否定した。
違う。
違うの。
助けるなら、二人よ。
あなたも、この子も。
その想いが届いたのか、ステラは私を腹へと当てた。ゆっくりと撫でる。大切なものを扱うように、優しく、何度も。
私は、祈った。
ただひたすらに、願った。
その瞬間――
ほんの一瞬だけ、世界が白くほどけた気がした。
産婆が、息を呑む。
慌ててもう一度、腹に手を当てる。
「……心音が……上から聞こえる?」
低い声に、確かな変化が混じる。
「戻っとる……逆子が、戻っとるぞ」
その言葉に、ステラの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
けれど、それで終わりじゃない。
ここからが、本当の勝負だった。
長い。苦しい。削られていく。
それでもステラは、私を握りしめたまま、耐え続けた。
そして――
生まれた。
小さな体。
けれど。
泣かない。
動かない。
息がない。
部屋の空気が、凍りつく。
産婆の手が動く。迷いなく、必死に。
それでも、反応がない。
その時。
「……その石で……撫でてあげて」
ステラの声だった。
え、私?
産婆は一瞬迷い、それでも私を受け取る。
小さな背に、触れる。
一度。
反応はない。
もう一度。
それでも、だめ。
……その時だった。
少しだけ、背中に強く当たった。
偶然。
ほんのわずかな、ずれ。
次の瞬間――
「――おぎゃあ!!」
空気が、弾けた。
張り詰めていたものが、一気にほどける。
「……はぁ……」
産婆が深く息を吐き、皺だらけの顔に笑みが浮かぶ。
「元気な女の子じゃ」
ステラが、泣いた。
張り詰めていたすべてを溶かすように、声を上げて。
扉の外で、何かが大きく動く気配。たぶんアバルトだ。きっと飛び上がったに違いない。
……よかった。
本当によかった。
私は、ただそれだけを思っていた。
胸の奥――石の芯のあたりが、じんわりと温かい。
誇らしいとか、そういうのじゃない。
ただ、守れた、という実感。
二人とも。
そのことが、何より嬉しかった。
――そして私は、まだ知らない。
この小さな命が。
この出会いが。
この先、どれほど大きく世界を動かしていくのか。
ただひとつだけ、確かなことがある。
今日という日は――
私にとっても、きっと一生、忘れられない日になる。




