第1話 路傍の石
気づいたとき、私は動けなかった。
いや、正確に言うと――動けないことにすら、最初は気づいていなかった。
ただ、在る。
硬い。冷たい。重い。と、感じた。なんとなくね。
……あと、地面にめちゃくちゃ密着している。
上下も前後も分からない。
というか、首がないから上下を確認するという発想自体がなかった。
あるのは「接地面がやけに広いな?」という、どうでもいい違和感だけだ。
音がする。
風がゴリゴリ擦れる音。
遠くで何かが落ちる音。
ときどき、ドン、という振動。
耳はないはずなのに、なぜか分かる。
「聞こえる」というより、「体全体に響く」感じだ。
いや、体って言っていいのか? これ。
……待って。
私、体ある?
考えている、という自覚だけはあった。
それだけが、はっきりしている。
――ああ。
ここで、ようやく理解した。
私、石じゃん。
なぜ石なのかは分からない。
罰なのか、事故なのか、異世界転生の新しい流行なのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、ハズレを引いたということだ。
前の人生の記憶は、霧がかかったみたいに曖昧だった。
人の顔も、名前も、何をしていたのかも、よく思い出せない。
だが、不思議と残っている感覚がある。
自分は、あんまり他人のことを考えない人間だった。
別に悪いことをした覚えはない。
でも、面倒なことからは全力で目を逸らしてきたし、「誰かのために何かをする」みたいな選択肢は、最初から視界に入れていなかった気がする。
……その結果が、これ?
周囲を見渡すと白い。ひたすら白い。何も……かもが…ない? 存在しない?
私だけ?
そしてそのまま、何時間か、何百年か、何千年かはわからないが時は過ぎていく。
なぜ、曖昧かというと、途中で眠くなったり、ふと目覚めたりの繰り返し。
そのたびに周囲はどんどん変わる。ある日気づくと、自分の体? が何かに埋もれていく感覚があった。
そして意識が遠のいて行った。
そして、またふと目覚める。すると前と違って、周囲を見ると、暗い。
真っ暗だ。決して『松倉』さんではない。多分。
目を開けているのか閉じているのかも分からないが、とにかく暗い。
今は、風もない。音もほとんどない。振動すら、たまに微かなものが伝わる程度だ。
――ああ、これはたぶん。
土か、岩の中だ。
理由は単純で、周囲が完全に塞がっている感覚があるからだ。
押されているわけでも、圧迫されているわけでもない。ただ、逃げ場がない。世界がここで終わっている。
そして、私は相変わらず石だった。
動けない。
転がれない。
当然、立ち上がるなんて論外。
あーあ、と思う。
思えるあたり、精神だけはずいぶん余裕が出てきたらしい。
暇なので、考える。
生前のことだ。
……美味しかったもの。
銀座のキルヘボンのフルーツタルトは美味しかったな。
日暮里のイナムラショウジロウのモンブランが好きだった。
夜中に、ちょっと罪悪感を覚えながら食べた甘いものも。
コンビニで買った安いケーキでも、あれはあれで妙に満足感があった。
誰かと一緒に行った、やたら見た目だけ豪華なティーセット。
小さくて、可愛くて、でも全然お腹に溜まらないやつ。
――ああいうの、嫌いじゃなかったな。
そこまで考えて、ふと引っかかる。
「嫌いじゃない」じゃない。
むしろ、あれは――結構、好きだった。
……なんで、そんな言い方した?
少しだけ、思考が止まる。
次に浮かんできたのは、服のことだった。
鏡の前で、何度も着替えて、結局「なんか違う」と首を傾げる感覚。
動きやすさを優先したくて、でもそれだけだと味気なくて。
スカートは嫌いじゃないけど、落ち着かなくて、結局あまり選ばなかった。
……あれ?
さらに、別の記憶が浮かぶ。
予定表に書かれた、月一の小さな印。
来るたびに気分が沈む、あの数日間。
体が重くて、思考まで鈍くなるような、あの独特の不快感。
――あ。
そこで、ようやく思考が繋がった。
「可愛い」とか「おしゃれ」とか、そういう言葉の使い方。
服の選び方。
甘いものの好み。
そして、あの周期的な体調の変化。
どれもこれも、断片だったのに。
今、ひとつの線になる。
――私。
そこで、ようやく理解した。
――私、生前は女だったんだ。
不思議と、しっくりきた。
さっきまでの曖昧な感覚が、一気に整列していく。
ズレていたパズルのピースが、正しい位置に収まるみたいに。
……なるほど。
どうりで、思考が妙にそっち寄りなわけだ。
納得はした。
したけど。
だからといって――
石なのは、変わらないんだけどね。
一人称が「私」なのもそうだし、思考の流れも妙にしっくりくる。
さっきまでの感覚のほうが、むしろズレていたらしい。
人間、記憶が曖昧になると、自分の前提すら平気で取り違えるらしい。
喉が渇いた……ような気もする。
腹も減った……気が、しないでもない。
ただし、どちらも決定打に欠ける。
空腹なのか、そういう概念を思い出しているだけなのか、区別がつかない。
そもそも。
――口、ないし。
食べられないし、飲めない。
だったら渇く意味も、腹が減る意味もないはずだ。
……理屈では。
自分で自分に突っ込みを入れているうちに、思考が少しずつ鈍くなっていく。
考えるのが、面倒になってきた。
暗い。
静か。
やることが、何もない。
――眠い……気がする。
石に睡眠が必要なのかは知らない。
だが、意識は確実に、沈んでいった。
そこから。
どれくらいの時間が経ったのか、分からない。
数時間かもしれないし、数年かもしれない。
あるいは、何百年という単位だった可能性すらある。
時間というものが、完全に意味を失っていた。
そして、ふと。
――カーン。
――カーン。
遠くで、金属が何かに当たる音がした。
規則的で、硬質で、はっきりとした振動。
それが、私の中まで届いた瞬間。
意識が、浮上する。
――……あ。
久しぶりに、世界が動いた気がした。




