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忘れ物

作者: 一九
掲載日:2026/02/25

高一の夏、学校が休みに入った頃。

正午のいちばん暑い時間。

ベッドで寝ていた僕は、キッチンの冷蔵庫にあったカップのアイスを手に取り、自分の部屋に戻った。

そして、プリントや参考書が無秩序に積まれた勉強机を気にすることなく椅子に座る。

そのままアイスを置いて食べようとした時、課題の書かれた1枚のプリントが目に入った。


「ああ、数学の課題……教室に忘れたんだっけ」


今日取りに行かないと母さんに怒られる。


「たしか約束しちゃったんだよなぁ。取りに行くって」


圭吾は渋々制服に着替え、カバンを持って外に出た。

燦々と降り注ぐ太陽の光。

数日ぶりに外に出た圭吾にとって、まるで拷問のようなこの日光は、それだけで学校へ行く彼の足を重くした。


最寄りの駅に着き、ホームで電車を待った。

すると、じめじめと淀んだ熱気を含んだ空気を跳ね除けるようにして環状線の車両がやってくる。

扉が開き、大勢の客を乗せ、また進む。

進んでいるはずなのに、どこか自分は置いてかれているような気がした。

その時間、圭吾は昔のことを思い出していた。


───いつから勉強、できなくなったんだろう…中学までは頑張ってたんだけどなぁ……


隣を見ると、自分と同じくらいの学生が参考書を片手に、熱心に英語の単語を覚えている。


「……」



校門の前まで着いた。

昔は胸を張ってくぐっていたこの門も今では負担でしょうがない。


「はぁ、憂鬱だ」


重い足を踏み出し、階段を上り、そのまま教室の前までたどり着く。

ドアを開けると、そこには担任の教師。新塚先生が生徒の席に座っていた。


「え…」


教室に先生がいることにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、新塚が座っていたのは僕の席だった。


「なんで、先生…」


「川崎、ちょっと先生と話をしよう」


突然言われたその言葉に、僕の憂鬱は最大にまで上がっていた。

どうして先生と話をしなければいけないんだ。

なにか説教でもされんのか?

僕はただ忘れ物を取りに来ただけなのに…

もしかして……

一瞬、昨日約束した母の顔を思い出した。

まさかな…


「はい…僕、なにかしました?」


「いや、そんなんじゃない、ただ先生が川崎と話がしたくなっただけだ」


ますます怪しい。

そもそも、僕はこの先生が苦手だ。

冴えない姿でいつも淡々と授業を進める。

正直いって掴みどころがない先生で、他の生徒からも特段嫌われてるわけではないが、好かれているわけでもない。


「いいですけど…この後予定があって…」

「そうなのか?じゃあなるべく早く終わらせるから、少し聞いてくれ」


嘘をついて逃げようにも、逃げられないらしい。ここまで来たら仕方ない。

話を聞いていくしかない。


「はい」


僕は先生の隣に座った。


「高校に入ってしばらく経つけど、学校は楽しいか?」


何だこの質問。

中高一貫のこの学校で、高校生に対してする質問じゃないだろ。

新入生じゃあるまいし。


「はい…楽しいです」


「そうか、なら良かった」


「…」


「…」


校庭で練習している野球部のバッティング音がやけに大きく聞こえた。


「川崎はさぁ、どうして中学では勉強を頑張ってたんだ?」


それを聞かれた瞬間胸がドキッとした。

そして同時にそういう事かと納得した。

きっと母さんが先生と話したのだろうと。

この質問は、今ちょうど僕が抱えている悩みの種だった。

なぜ僕は中学まであんな勉強をしていたのだろう。


「わかりません。親に言われてたからですかね」


「この前の期末テスト、川崎らしくもなく、あんまいい結果じゃなかっただろ」


「…そうですね」


「なにかあったのかい?」


「いや…ただ、勉強をする意味がわからなくなって」


「…そうだったのか。少し先生の話をしてもいいかい?」


「はい」


「先生もな、昔この学校に通ってたんだよ」


「へぇぇ…そうだったんですか」


「そう。それでな、川崎と同じように中学までは頑張ってたんだ。でも…高校に入ってから学校行くのをやめちゃってさ。わからなくなったんだ。勉強する意味が」


「同じですね」


「うん。それからさ、しばらく行かない期間が続いて、学校の担任から電話があった。「来ないのか」って。その時は「今から行ってももう間に合わない」って言ったんだけど、そしたら先生は「間に合わないなんてことはありえない。忘れたものは取り戻せばいい」って言ってくれたんだ。その時はよくわからなかった。でも、電話を切ったあと心は少し軽くなった気がした。それから少しづつ机に戻ることができた」


「…先生はどうして勉強を再開できたんですか?」


「俺も長い間勉強をする意味なんてわからなかった。でも今ならこれだけは言える。勉強してるとさ、自分の弱さに気づくだろ。自分の解けない問題に出会った時、川崎は何を思う?」


「…その時の状態によります。自分が勉強をしたのに解けないのなら悔しいし、なんで解けないのかを模索します。でも、勉強をしてなくて解けないのであれば、それは自分のせいだと反省…します」


「そうだろ。今言ったように、悔しくて間違えたところを自己分析するのも自分のせいだと反省するのも、どちらもやってることは自分を見つめ直すこと。つまりさ、自分を見失わないために勉強をするんじゃないかって俺は思う」


「…正直まだよくわからないです。でも、そういう見方もあるんですね」


「うん。どこか記憶の隅っこにでも置いとてくれ」


「ありがとうございます」


「話に付き合ってくれてありがとう。今日は忘れ物を取りに来たんだっけ?」


「はい…数学の課題を…」


「別に俺が数学の教師だからって気にしないよ。人は忘れる生き物だ」


「じゃあ、さようなら」


「じゃあ」


そうして家に帰った圭吾の心は少しだけ軽くなっているような気がした。

机に置いたままだったアイスの中身はもう帰ってきた時には溶けてしまっていた。

カバンを置いて数学の課題を手に取り、

圭吾はもう一度机に向かう

ペンを持ち、ノートを開く。


「少しだけなら…」

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