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朝焼けのベンチ

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朝焼けのベンチ

ep.1 タイトル未定2025/08/14 21:47 予約中

掲載日:2025年08月17日 00時00分

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本文

 冬の朝は、空気が刃物のように冷たい。


 駅へ向かう細い道の先、線路沿いに小さな公園がある。公園といっても、ブランコと滑り台がひとつずつ、そして線路を見下ろす位置にベンチが二脚。柵の向こうに広がるのは、枯れ草色の空き地と、さらに遠くに見える低い山並みだ。


 そのベンチの片方には、いつも同じ人物が座っている。背筋を伸ばし、両手を膝に置き、じっと朝焼けを見つめる老人。




 初めてその姿を意識したのは、去年の秋だった。まだ日の出が早く、空が茜色に染まるころに家を出ても、彼はすでにそこにいた。年の頃は七十前後だろうか。深緑色のコートに灰色のマフラー、頭には毛糸の帽子。整えられた白髪と、皺の刻まれた顔。


 僕──佐伯透は、最初はただ通り過ぎるだけだった。目が合えば軽く会釈し、相手も無言でうなずく。それだけの関係。だが、毎朝その光景を見るうちに、なんとなく気になる存在になっていた。




 ある日、母が早番の仕事で慌ただしく出ていき、僕は学校を休むことにした。理由は風邪気味ということになっていたが、実際はただ、教室に行く気分になれなかったのだ。


 進路のこと、友人との微妙な距離、何より自分が何をしたいのか分からない苛立ち。それらが胸の奥で重く渦を巻き、布団から抜け出す気力を奪っていた。




 それでも、じっと部屋にいるのが息苦しくなり、コートを羽織って外に出た。冬の朝は冷たい匂いがする。息を吐くと白い煙が立ち上り、それが風にちぎれていく。


 気づけば、あの公園に足が向かっていた。




 柵越しに線路の向こうを見下ろすと、遠くの山の端がかすかに明るみ始めていた。ベンチには、やはり彼が座っている。


 僕が近づくと、老人はちらりとこちらを見て、口角を上げた。




「今日は学校は休みかい」


 低く穏やかな声だった。


「……ええ、まあ」


「寒いだろう、座んなさい」




 促されるまま、隣のベンチに腰を下ろす。座面の冷たさがコート越しに背中まで染みてくる。




「毎朝、ここにいるんですね」


「そうだな。もう十年近くになる」


「十年……何か理由が?」


「まあ、習慣みたいなもんだ。あそこから昇る朝日を眺めるのが好きでな」




 老人は指先で東の山並みを示した。まだ半分眠っているような街並みの上、空はゆっくりと薄桃色に染まりつつある。


 僕はその景色を眺めながら、どうしてか少しだけ心が軽くなるのを感じた。




「名前は?」


「佐伯透です」


「透くんか。俺は中島辰夫。昔は国鉄で働いてた」


「国鉄って、もうないやつですよね」


「そうそう。若い頃は駅員、そのあと車掌もやった。列車の窓から見る朝日は、また格別だったよ」




 辰夫さんは目を細め、遠い記憶を辿るように笑った。その横顔には、長い年月を旅した人だけが持つ、柔らかな陰影があった。




 話が途切れると、しばし沈黙が訪れた。


 風がカラカラと枯れ葉を転がしていく音、遠くで犬が吠える声、線路の金属がきしむような微かな音が、寒空の下で際立って聞こえる。


 吐く息が白く立ちのぼり、やがて消えていくたびに、自分がここに生きていることを確かめるような感覚になる。




「透くん、君は朝焼けをちゃんと見たことがあるかい」


「え? 今、見てるじゃないですか」


「違う、ほんとうに、だ」




 辰夫さんはゆっくりと言葉を置いた。


 僕は黙って、東の空に視線を向ける。


 そのとき、低い雲の切れ間から、金色の光がすっと射しこんだ。山の端が炎の縁取りをしたように輝き、雲が淡く染まっていく。


 街灯が一つ、また一つと消えていくのが見えた。


 それは、夜が確かに退き、朝が息を吹き返す瞬間だった。




「……きれいだ」


 言葉にすると、ありふれた響きしか持たないのがもったいなかった。


「そうだろう。俺はこの瞬間のために、毎日ここにいる」




 辰夫さんはポケットから古びた銀色の懐中時計を取り出した。


 蓋を開くと、中には若い女性と男のツーショット写真。


 女性は笑顔でこちらを見ている。男は……若かりし頃の辰夫さんだった。




「妻です。二十年前に先立ちました。あの人は夜明けが好きでな。


 ……もういないけど、こうして毎朝ここで一緒に見ている気がするんです」




 その声は淡々としていたが、奥に深い響きを含んでいた。


 僕は何も返せず、ただ空の色が移ろっていくのを眺めた。






---




 それから、僕は学校へ行く前、時々このベンチに寄るようになった。


 辰夫さんは、僕が抱えている悩みを深く問い詰めることはなかった。ただ、列車や旅の話、駅弁のうまい土地のこと、そして亡き妻との想い出をゆっくりと語ってくれた。


 話を聞いているうちに、不思議と胸の重石が少しずつ軽くなっていった。




 ある日、僕は思い切って言った。


「僕……何をやりたいのか分からないんです。進路も決められないし、自分が空っぽに感じる」


 辰夫さんはしばらく黙っていたが、やがてこう言った。


「空っぽなら、これから詰めればいい。俺も若い頃はそうだった。


 でも一つだけ言える。毎日、何かを好きだと思える瞬間を探しなさい。朝日でも、音楽でも、人でもいい。それが道を作る」




 その言葉は、僕の胸の奥で静かに響いた。






---




 冬が終わり、春の匂いが混じる頃、辰夫さんの姿を見かけなくなった。


 三日目の朝、公園のベンチに封筒が置かれていた。中には手紙と、あの懐中時計。




> 透くんへ


急にいなくなってすまない。少し体を悪くして、遠くの娘の家で療養することになった。


この時計は、もう俺には不要だ。君が持っていてくれたら嬉しい。


君なら、きっとこれからたくさんの朝焼けを見るだろう。


そのたびに、少しだけ俺のことを思い出してくれたら、それでいい。


――辰夫








 僕は時計を握りしめ、東の空を見た。


 その朝は雲ひとつなく、山の端から太陽がまっすぐ昇ってきた。


 光は強く、温かく、そして少し切なかった。




 僕はベンチに座りながら、小さくつぶやいた。


「……ありがとう」




 銀色の時計は、手の中でほんのりと温もりを宿していた。

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