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#3「歩格とはなにか?」

【歩格とはなにか?】


 これを単純化して語るのは難しい。

 まず大別すると、二種類に分けられる。長短(短長)と強弱(弱強)である。

 長短とは、長い音と短い音を組み合わせてリズムを作る格である。

 強弱とは、強い音と弱い音を組み合わせてリズムを作る格である。

 したがって、実際の詩は、長短と強弱が入り混じった複雑なリズムになるのが普通である。


 さてでは、長短と強弱の明確な違いを見分けるにはどうすればいいか?

 これはそう簡単ではないが、大まかに言えば言語の違いであり、その言語がもつ母音の種類の違いであると言える。古代ギリシャ語は、通常歩格を表すとき、長短をつかう。なぜかなら、古代ギリシャ語は、長母音が豊富でそれが耳に残りやすく、強く感じる性質をもつ言語であるからだ。

 翻って英語の場合は、通常歩格を表すとき、強弱をつかう。英語には単語によってアクセントがあるからだ。むろん母音がはっきり聞こえる単語とそうでない単語によってリズムの感じは異なるが、基本的にはアクセント重視の言語であるから、強弱歩格という言い方をするのだ。


 実際に一般的なギリシャ語詩の場合、長短五歩格だと、以下のようになる。


 タータタ タータタ タータタ タータタ タータタ


 「タータタ」が一歩格で、それが五回くり返えされるのである。

 無論これは基本であり、一部が短短「タタタタ」になる場合もある。しかし、一歩目と五歩目は必ず長短歩格にして、リズムを作り出す形式になっている。つまり、実際のギリシャ語詩は――


 タータタ タータタ タタタタ タタタタ タータタ


 というように1,6歩格の部分はかならず長短歩格でなければならないのだ。

 目で見るより聞いたほうがわかりやすいだろう。

 (あとがき部分にYou Tubeのアドレスを載せておいた)


 また、これは六歩格になっても同じである。一歩目と六歩目は長短歩格にする必要性があるのだ。かつそこでよりリズムを強調したい場合は、1,3,6歩目を長短歩格にすればいいわけだ。そしてこのような形式から、頭韻(Alliteration)、中間韻(Medial Rhyme)、脚韻(End Rhyme)が生まれたのである。

 もっとも現代では、頭韻はその使いにくさから、ほぼ脚韻しか使われなくなっている。脚韻は詩の覚えやすさとか、次の行にいくという印として機能するので、できれば意識して踏んだほうがよい(そもそも音が響き合って綺麗である。響き合うといっても、それは実音ではなく脳内での話だが)。ともあれ、人間はリズムのないものは、頭に入ってきにくいからだ。また、息継ぎのリズムにあわないものは感情にも響かないのだ。ゆえに、詩を歌いたいならまず何よりもリズムが重用なので。昨今は自分の感情優先でやたらに強い言葉を並べて息継ぎする暇さえ与えない詩をよく見かけるが、そういう詩は読み手を拷問しているようなものだ。詩には優しさや配慮が大切なのだ。それでいて自分の感情も籠もっている。それが素晴らしい詩の世界なのだ。


 無論こうしたことは基本であり、各言語によってリズムの作り方は変わってくる。

 例えばイタリア語などは、言語と文法のおかげで中間韻が踏みやすいという特徴があったりする。他方でフランス語の場合、日本語と似て、韻やアクセントがつけにくいのだが、間を置くところ、間を置かず怒涛のように語句を繋げて音読することでリズムを作り、かつ連声などで音のつながりが自然に綺麗になる、語句の並べ方が重用になってくるのだ。


 またこうしたことに加えて、ギリシャ語にはアクセントもあるので、実際には長短歩格に混じって、強弱のリズムも聞こえるので、それがリズム+旋律+語句の意味となって唸るようなグルーブになって胸に響くのだ。しかもギリシャ語の場合、母音も子音も非常に綺麗に聞こえる言語なので、ルソーが音楽的でもっとも美しいのはギリシャ語だといったのも頷けるのだ。


 さてここまでくれば、もはや強弱歩格は説明するまでもないだろう。

 英語詩などはアクセントでリズムを考えるということだ。


 ということで、歩格の基本はこんなところだ。

 しかし面白いのはここからだ。

 長短、強弱は基本であるだけで、それに拘る必要がないのが詩でもあるのだ。

 普通、ギリシャ語は長短、英語は弱強、ドイツ語は強弱の歩格が基本であるのだが、詩で歌う感情にあわせて、あえて感情を優先して歩格を変えるという手もありだからだ。


 つまり、保格の基本は以下の通りになる。


 ギリシャ語:長短歩格タータタ短短歩格タタタタ短長歩格タタター長長歩格ターター

 英語:弱強歩格タ タン弱弱歩格タタ強弱歩格タン タ強強歩格タン タン

 ドイツ語:英語と逆で、強弱歩格が基本。

 前から2つの歩格形式がふつうに使う歩格。それ以外は特別な意図があって使う歩格とわけられる。


 ところが、日本語とフランス語にはこうした歩格やアクセントの概念は通用しないのである。

 ゆえに、日本語とフランス語の詩は、日本語としてきちんとした日本語、フランス語もフランス語としてきちんとしたフランス語であることが基本となる。

 そしてそのような特性があるので、日本語・フランス語で詩を歌う場合、特に語句選びが非常に重用になるのである。

 ゆえに、日本語で詩を歌う場合、なるべく抽象的な言葉を避け、具体的に自分の感情を伝えられる語句を厳選する必要があるのだ。


 例えば「秋」とかをそのまま使うのではなく、もっと期間を限定する語句を選ぶないしは、秋に他の語句をくっつけて、どんな秋の感情なのかをはっきりさせる必要があるのだ(だからといってやたらに修飾すればいいのではない)。

 ゆえに、愛とか夢とか、光と闇とか、美しいといった幅の広い意味の語句はなるべく避けるべきである。もっともどうしても使いたい場合、使っても構わないのだが、その愛がどういう定義の愛であるかがわかる配慮が必要なのだ。

 ギリシャ語でいう、どのエロス・フィリア・アガペーかというように。

 そういうことが納得できれば、なぜ日本の近代以降の詩人が普段とは違う、変わった語句や音のきれいな造語を使っているかも理解できよう。

 もちろん意図的にぼんやりさせたい意図があるなら、その場合は例外ではある。


 ということで、歩格を学ぶことは、そのまま詩がその国言語に非常に強く依存していることがわかるのである。

 ゆえに、日本語詩を西洋詩の形式で歌うのはもともと無理があるので、本気で日本語詩を学びたい人は、古語古文である、和歌俳句などをたくさん読んで、日本語だけがもつ独特の語感や音感を身体的に身につけるしかないのである。

 そして現代では、残念なことに、そういうことが無視され自分勝手に感情を吐露している作品が蔓延っているのだ。


 さてでは、日本語詩では、なにを意識すればいいかというと、大体以下の四つになるだろう。


 ①基本は七五調を意識する。意識しすぎて不自然な日本語になる場合は、字余り字足らずでも気にする必要はない。七五調だからといって、よくいわれる、575 77 とか 575 に無理にはめようとしない。ようは、文節のひとまとまりが五音か七音であるようにと、なるべく意識すればいいのだ。


 ②基本は音が綺麗になるように音読みを使う。とはいえ全ての漢字に音読みがあるのではなく、訓読みしかない語句(和訓)もあるので、程度問題ではある。


 ③間を意識して、息継ぎないし感情の切れ目がどこにあるかを考えて文の長さを調節する。日本語の場合、音数が少ないほうが強い感情を感じさせ、音数が多くなるほど感情がぼやけるので、そのあたりを意識する。読点や改行をつかって、息継ぎと感情の切れ目をはっきり視覚化することが大事。

 最近は何も考えずにやたら改行したり空行を入れる素人詩をよく目にするが、あれはやらない方がいい。数行(2~6行くらい)で一連にして、なるべく連のなかでのリズムも整える。リズムを変えたい場合は、連ごとに変えるとかするとよい。出来れば連の行数も整え同じにするのが望ましい。

 10行1連というような長い構成になると、はじめのほうの内容を忘れるので理想は4行1連であろう。


 ④不用意に体言止めを多用しない。体言止めは強い感情を伝えたいときや、余韻を残したいとき、息継ぎのためという箇所で使うのが理想的である。


 最後になってあれだが、歩格の基本は「5」である。

 人間の身体性からして、もっとも安定して息継ぎしながらちゃんと発音できるのはこの歩格であるからだ。

 したがって、五歩格を中心にして、歩格が増えるほど落ち着いた静かな感情になり、歩格が減るほど興奮気味の昂った感情表現に適している。

 無論、バラッド形式のように、1,3行目が五歩格、2,4行目が四歩格というようなやりかたもある。これは歌うために息継ぎの場所が必要なので、四歩格の終わりで息継ぎという意味である。

 こうしたことは基本であり、三歩格と五歩格を合わせてみてもいいし、様々である。しかし、適当でいいというのではなく、朗読したときに息継ぎできるように構成することが大事なのだ。

 したがって六歩格を基本としても、息継ぎ用に途中で五歩格を入れるなどという工夫がされいるのが、一流の詩なのである。


 さて次は「韻について」の予定だが、いつになるかはわからない。

 もしかすると次はないかも。頭韻と中間韻と脚韻があって、母音で踏むか、子音で踏むかくらいしか語るべきことがないので(子音で踏む場合、よく聞こえる音で踏む必要がある)。

 何にしても、詩が本当に詩として生きるのは、音読朗読されたときである。

 詩に興味があるなら、そこに注意をはらってみるといいのだろう。

 朗読する人によって息継ぎの箇所、アクセントの場所、長く伸ばす音などが変わるので、基本、詩には明確な形式など存在しないということになるわけだ。

 そもそも音印象が意味感情となるものを黙読して楽しむという、近代以降のありかたがおかしいのである。

The Iliad: Book 1

https://www.youtube.com/watch?v=0KluVd9Djkw&list=PL7DFzHXvWFLi2Mmd4_MaLYp0CqJfnMik1

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