5-1 倒置法とは、意志が固い
「パパ、ママ、あの山です! もうこんなに近くにあります!」
窓際の座席で外を眺めていたイリスは、思わず腰を浮かしかけながら叫んだ。
ムーンへーベンを発車して、およそ二時間。車窓の風景が都会の街並みから田園風景へと移り変わり、やがて広大な森と湖が交互に現れるようになったころ、それは姿を現した。
よく晴れた日にはフロンスファの屋敷のバルコニーからも望める巨大な山が、汚れひとつないガラスの向こうで悠然とそびえ立っている。晩春の澄み渡る青空を背に、雪を頂いた真っ白な山頂が、目に眩しく輝いていた。
「アウラスピネリカだな。標高およそ三千メートル。イルメリウム南部に連なるトルフェリン山系の最高峰だ」
ボックス席の向かいに座るマオが、イリスと同じように外の風景を見つめながら答えた。まだまだ高い位置にある太陽の光を浴びたその横顔は、アウラスピネリカにも劣らぬ輝きを放っている。あまりの美しさに、目の保養どころか視力が上がってしまうかもしれない。
「今から行く魔王さまの故郷ザルミス・パルティオンが、アウラスピネリカから一番近い麓の街なんだよ」
イリスの隣で、カラフルな四角いチョコをつまみながらユラが補足した。車内販売のロボットが回ってきたときに買い込んだ大量のお菓子は、目的地に着くころにはすっかりなくなりそうである。
「魔王さまの故郷って、どんなところ?」
「そうだな……、昔ながらの伝統を重んじる敬虔な街だ。その独特の文化とアウラスピネリカを目当てに訪れる観光客も多い」
「すっごく楽しそうです!」
物静かなマオの故郷ということで、てっきりのんびりした田舎の村のようなものを想像していたが、そんなこともないらしい。むしろ、ずいぶんとにぎやかな街のようだ。
「イベントがある街が、偶然にも魔王さまの故郷の近くだったおかげだね。俺もザルミス・パルティオンに行くのは初めてだから楽しみだよ」と、ユラが今度はクッキーを口に入れながら笑う。
イリスたちの目的は、マオとユラが仕事で参加するイベントが開かれる街へ向かうこと。その街は、ちょうどマオの故郷の近くでもあった。そこで、ユラの「せっかくだから魔王さまの故郷も見学しよう」という提案により、前乗りを兼ねた二泊三日の小旅行が決まったのだ。
「パパが最後に里帰りしたのはいつですか?」
「二か月ほど前だろうか。以前は、月に一度は戻るようにしていたが」
「あー、俺が指輪をもらっちゃったからだよね。ホントごめん」
ユラがドリンクのストローをくわえたまま、はむはむと唇を動かして小さく謝る。わっ、かわいい。ハムスターみたい。
「どういうことですか?」
指輪と聞いて思い当たるのは、もちろんあの指輪だ。マオがずっと大事に首にかけていた超レア模倣具で、一度はユラの薬指にはめられたものの、今はなぜかブレンゼルのもとにある。けれど、それとどういう関係があるのだろうか。
「あの指輪に転移機能があることはイリスも知ってるよね? 使い方としては、あらかじめ目的地をひとつ設定しておいて、指輪に魔力を込めることでそのポイントに飛んでいけるんだけど……魔王さまは、その目的地を自分の実家に設定して使ってたんだよ」
「あ」
なるほど、そういうことか。今までは列車を使わずにすぐに飛んで帰れたところを、指輪がないからそれもできなくなった。その結果、今回が二か月ぶりの帰還ということになったのだ。
「そうだったんですか。じゃあ久しぶりに帰れるんですね。楽しみですね、パパ!」
「ああ、そうだな」
特に表情も変えずにうなずくマオに、イリスはにっこりと微笑む。
そう、楽しみだ。ああ、なんて楽しみなんだろう。今日という日を、イリスはずっと待ち望んでいた。
――そういえば、マオくんね。ほかにプレゼントを買ってたよ。
――なんかねなんかね、故郷で帰りを待ってるひとに渡すんだって!
数日前、ショッピングモールでささやかれたソワレの言葉を思い出す。さすがに相手が誰なのかということを直接マオに問いただすことは気が引けたし、もちろんユラにも相談できない。
なので、イリスは決意した。
(どんなひとか知りませんが、絶対絶対見つけ出してやりますよ!)
どんどん近づいてくるアウラスピネリカを見上げながら、イリスは心の中で思いっきり手を上げて宣誓するのだった。
列車を降りると、かすかに雪の匂いをまとった風に出迎えられた。念のため少し厚着をしてきたが、それでも肌寒い。ぶるっと身震いするついでに天使のリュックを担ぎなおしたイリスを見て、ユラが心配そうに顔を覗き込んできた。
「イリス、寒い? 大丈夫?」
「大丈夫です! あっ、見てくださいママ! 山がとってもきれいです!」
駅のホームの一部は屋根がない開放的な造りになっていて、そこからトルフェリン山系の山々がよく見えた。ムーンへーベンやフロンスファからは、ぼんやりとした青い三角形にしか見えなかったものが、今は圧倒的な存在感を放ちながらイリスたちを見下ろしている。思わず、ほうっとため息がもれた。
「パパは、こんなにすごい景色に囲まれながら暮らしてたんですね」
イリスを挟んでユラの逆側に立つマオを見上げれば、そうだな、と少しだけ感慨深そうな面持ちでうなずいてくれた。
ホームからそのままコンコースへと移動すると、たくさんの利用客が行き交う光景が視界いっぱいに広がる。マオから事前に聞いていたとおり、そのほとんどが観光客らしい。イリスたちのような軽装の客と、しっかりとした防寒着に身を包んだ重装の客が入り交じっている。
「この駅からは、アウラスピネリカへ続く鉄道に乗ることができる」というマオの説明で納得した。なるほど、これから山に登ろうとする人たちなら厚着をしているのもうなずける。
ザルミス・パルティオンの駅舎は柱や屋根が木で造られているせいか、まるで森の中にいるような心地よい香りが漂っていた。いかにも地方の山岳リゾートらしいナチュラルでクラシックな内装だが、改札や自動販売機のデザインは近未来的で、そのギャップがおもしろい。
「あっ」
イリスの隣で、ユラが短く声を上げた。ホログラフィックディスプレイに表示された駅のお知らせや街の情報を熱心に見つめながら、「そうだそうだ、思い出した!」と、軽く両手を打つ。
「あのね、この駅限定販売のスイーツがあるんだよ! ばあちゃんに絶対食べてもらおうと思ってたから、ちょっと買ってくるね! めちゃくちゃ人気みたいだから絶対並んでるし、絶対時間がかかるから、二人とも先に行ってて! すぐ追いつくから!」
言い終わるなり、駅舎の出口へ向けていた爪先をくるっと華麗にターンさせる。そのまま走り出そうとしたところで、ぴたっと足を止めた。
「イリス、魔王さまをよろしくね!」
「はい、よろしくします!」
ぶんぶんと手を振りながら「いってらっしゃーい!」と、笑顔でユラを見送る。ユラのこういう気ままな猫みたいなところが、イリスは大好きだ。おれがよろしくされるほうなのか、というマオのぼやきも相まってニヤニヤが止まらない。
「勇者と一緒に行かなくていいのか?」
「はい! きょうはずっとパパに張りつくって決めました! コバンザメのように!」
「なるほど。倒置法とは、意志が固い」
もともと、この街ではずっとマオにへばりつくつもりだった。なぜかって? そんなの、浮気調査のために決まってる! マオに関するあらゆる人、物、場所は絶対に見逃さない!
探偵イリス――ここに爆誕! なのである!
「ザルミス・パルティオンは、もともとザルミスとパルティオンという二つの街が合併してできたものだ。そのため、東側がザルミス地区、西側がパルティオン地区にわかれている。ザルミス・パルティオン駅があるこの辺りは、パルティオン地区だな」
「ほえー、おっきな街なんですね」
駅を出てすぐの街並みは、フロンスファの雰囲気によく似ていた。あそこもアクティビティのために訪れる観光客を狙ったショッピング施設やカフェが軒を連ねているが、パルティオン地区も同じような様相を呈している。広々とした道路を囲むように近代的な建物が立ち並び、多くの人々でにぎわっていた。
「パパの家はどっちにあるんですか?」
「東側のザルミス地区だ。徒歩で向かうと少し時間がかかるな。車を呼んでもいいが、勇者を置いていくわけにもいかない」
「ぼくなら大丈夫です! せっかくだから街の様子も見て回りたいです!」
「わかった。疲れたらいつでも言うといい。抱っこする」
「ヒョッ」
マオの低音美声で「抱っこ」と言われると、妄想力が刺激されて情緒が大変なことになってしまう。慌てて「ありがとうございます! 本当に疲れたら遠慮なくお願いします!」と言いながら、つないだ手をぐいぐいひっぱって先を歩いた。イリスの短すぎる歩幅に、マオの長い足がゆっくりと合わせてくれるのがうれしくて、なんとも言えないほどこそばゆい。




