3-7 パーフェクトゲームってやつだよ
「ケモ耳くんっ!」
名前も知らない少年がスローモーションのようにゆっくりと落下する姿を、イリスはただ見上げることしかできない。
どうする? どうする? どうすればいい?
落下距離、およそ十メートル。命にかかわる危険な高さだ。イリス自身も、下手をすれば巻き添えを食らう位置にいる。けれど、自分がクッションになることで万が一でも彼を助けられるかもしれないと思ったら、その場から逃げることもできなかった。この状況でイリスがやれることなんて、それくらいしかないのだから。
これがマオなら。ユラだったら。
この期に及んで、まだ誰かに頼ってしまう自分が情けない。けれど、だって、彼らなら絶対に助けてくれるのだ。絶対に。
ドラゴンの冷たい脛骨に自分の小さな体を押しつけるように縋りつきながら、イリスはただただ祈る。誰か。誰か! 誰か――!
(あの子を助けて――!)
その瞬間、頭上で閃光が弾けた。固く目を閉じた瞼越しでもわかるほどの強烈な光はすぐに消え、代わりに重々しい何かが蠢く気配を感じる。同時に、落下に伴って大きくなっていた少年の悲鳴が急に途切れた。
一瞬の間を置いてから聞こえた「……え?」という驚きの声に、イリスはがばっと顔を上げた。目に映ったのは、ドラゴンが大きな前脚を伸ばして少年を掬い上げるようにキャッチしている光景だった。
「え?」
「え?」
骨だけの手のひらは隙間だらけなので、少年の唖然とした様子が下から覗き見える。どうやら無事なようだ。イリスは安堵のあまり、その場に座り込んでしまう。そこへ、前脚から軽やかに飛び降りた少年が、頭上を恐る恐る見上げながら近づいてきた。
「よ、よ、よかったです! ほんっとうに無事でよかったです! うわああん、ごめんなさい、ボクのせいで! ごめんなさいケモ耳くんっ!」
「あー、いいっていいって。わかったからしがみつくな。別に全部がお前のせいってわけじゃないし。なんかよく知らないけど、まったく全然覚えがないけど、たぶん一割くらいはオレも悪かったんだろ? ってかケモ耳じゃないからな、名前。ロキだからな」
「ボクはイリスです、はじめまして!」
「あ、こちらこそ――じゃないわ。そんな場合じゃないだろ、コレなんなんだよ」
ロキがドラゴンを指差すが、「そう言われましても」とイリスも首をひねるしかない。恐竜の化石のように普通の博物館の展示だと思っていたが、ひょっとするとこれはロボットなのかもしれない。それが何かのきっかけでタイミングよく起動し、偶然にも少年を助けたのかもしれない。なんにせよ、ロキが無事で本当によかった――と、一息ついたのも束の間。イリスのはるか頭上で、再び異変が起こる。
「あれ? なんか光ってま、す……?」
ドラゴンのくぼんだ眼窩の中心で、まるでスイッチが入ったかのように琥珀色の目玉が出現した。ぎょろぎょろと辺りを確認すると、今度は左右に大きく頭を振り始める。あまりにも自然な動作だ。この世界のロボットは実によくできている。
イリスが感心しながら眺めていると、いつの間にか骨だけだった頭部に神経のような細い糸が何重にも貼りめぐらされていることに気づいた。いや、顔だけではない。あっという間に首や前脚、後脚や尻尾にまで広がり、やがて爪先までも覆い尽くす。
「はわ、わ、わ」
骨格標本が人体模型になるタイムラプス動画を見ている気分だった。さすがにこの現象は、ちょっと高性能ロボットの域を超えている気がする。
呆然とするイリスたちに向けて、その長い首がゆっくりと降りてきた。鋭く尖った歯を見せつけるように大きく口を開ける。そして――大音量の雄たけびをあげた。
「きゃー!」
「わー!」
その声の圧に背中を押されるようにして、二人は逃げ出す。ロキが手を引いて先導してくれることが心強い。短い足を必死に動かしながら、わき目もふらず展示室の入り口へと走り続ける。走る、走る、走る!
「な、なんですかアレ! 助けてくれたと思ったら急に襲いかかってきたんですけど! 情緒不安定にもほどがあるんですけど!」
「知らねーよ! つか、あいつ生きてんのか? っやべ、追いかけてくる!」
「ひぇえええっ」
ロキほどの余裕がないのでイリスは振り向けないが、がんっ、だんっ、という重い音が迫ってきていることははっきり感じる。足の遅さを見かねたのか、ロキがイリスをひょいっと小脇に抱えてスピードを上げた。やっぱり身体能力がすごい! ありがとう、ロキくん! でもこれ、完全に足手まといだ!
「あのあのあの! あまり大声で言いたくないんですが、ボクを囮としてドラゴンに向けて放り投げるという手もあるにはあります!」
「ないわ馬鹿! おとなしく荷物になってろ!」
秒で却下されてしまった。優しい子じゃないか、と。そんな場合ではないのに、イリスはちょっと感動してしまう。そのままおとなしく荷物になるが、せめて懐中電灯やコンパスくらいの働きはしたかったので、進行方向に向けて必死に目をこらした。
「あともう少しで出口ですよ! ふぁい、おー! ふぁい、おー!」
「やめろ! 力が抜ける!」
展示室の扉を潜り抜けて外に出てしまえば、巨大すぎるドラゴンはもう追ってこられない。ホッと肩の力を抜いた瞬間、腰から頭皮まで一気に悪寒が駆け上がった。
「――!」
弾かれたように天井を仰いだイリスの視界に飛び込む、ドラゴンの鋭いかぎ爪。それが、さっきロキを助けたあの脚だと気づいたときには、完全に視界を埋め尽くされていた。
(潰される!)
不意にホールの入り口側から何者かが飛び込んできて、ラグビーのタックルのようにイリスとロキを抱えて跳んだ。背後でどしんと大きな音が響く中、勢い余ってゴロゴロと床を転がる。その間も何者かは二人をしっかり抱え込んで離さない。しばらくしてようやく止まったが、イリスの視界はまだぐるぐると回っていた。
「っつつ、……大丈夫ですか、二人ともっ!」
「センリさん!」
驚いたことに、その何者かはセンリだった。イリスとロキを慌てて抱え起こすと、尻餅をついて足を投げ出した姿勢のまま、必死の形相で覗き込んでくる。
「ボクたちは――えっと、おかげ様で大丈夫です! センリさんは?」
ロキの無事を確認してからセンリを見上げると、すぐに「よかった」と安堵のため息が落ちてきた。スーツはよれよれで、髪も乱れてしまっているが、それはそれで無造作な魅力が漂い、逆に色っぽさを感じさせる。はあ、眼福眼福。
「肝は冷え切ってますが、なんとか無事です。すみません、ユラさんのようにスマートに助けられなくて」
「そんなことないです! 本当にありがとうございました、センリさん……!」
そんなやり取りをしている間にも、背後で巨体が動いている気配をひしひしと感じる。慌てて振り向けば、入り口までもう少しというところで静止していたドラゴンが、再びこちらに狙いを定めて進路を変えている姿が目に入った。
「おいおいおい、なんで守護者が再生してんだ……?」
ぼそりと低く呟いたセンリの口調が、素に戻っている。どうやら普段の紳士的な振る舞いを取り繕えないほどの事態が起こっているらしい。
一歩、二歩。ドラゴンが着実に距離を詰める。イリスたちを叩き潰そうとした、あの勢いこそないが、代わりに長い首がゆっくりと降りてきた。口を大きく開くモーションを目にして、すわ雄たけびかと悟ったイリスは慌てて耳を塞ぐが、今回は様子が違った。
舌がないせいで、はっきりと見える。
喉の奥にぽっかりと空いた暗い空間に渦巻く、赤い炎が。
「っ!」
咄嗟にセンリが自分の背中を盾にするように、イリスたちを強く抱き込んだ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。このままではセンリが、全員が、炎に呑まれて死んでしまう!
目前にある首が大きく反動をつけ、喉の奥から炎の渦をはき出した――直後。ドラゴンをその炎ごと包み込むように、局地的な吹雪が巻き起こる。その白い渦は徐々に内側に向かって収縮し、やがて滑らかな円錐型の氷柱となってドラゴンを完全に封じ込めた。
「パパ!」
姿を見なくてもわかる。マオだ。マオが来てくれた。
喜びと安堵に満ちた声をセンリの肩越しに張り上げた途端、その本人が音もなく姿を現した。そのまま氷柱とセンリたちとの間に割って入ると、首だけでこちらを振り返る。青い二つの宝石に、じっと見つめられる。
「全員無事か」
「はい!」
暗闇の中なのに、漆黒の衣装なのに、どうしてこの人はこんなにも輝いているのだろう。圧倒的な安心感に包まれて、すっかり力が抜けてしまったイリスを抱えながら、センリがマオの背中へ向き直る。
「助かりました、マオさん。会場のほうは?」
「トークを終えて、全員で展示室へ移動をはじめた。じきにここへ来る」
「は!? 全員でここへですか!?」
「だってしょうがないじゃん。目的地でこんなことが起こってるなんて思わなかったんだから」
ユラの声が聞こえてきたと思った瞬間、暗かった展示室に照明が灯った。久しぶりの強い光に耐え切れず、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
「イリス、大丈夫?」
目を開けば、推しがいた。ユラだ。膝を抱えるようにしゃがみこみ、片手で頬を包み込んでくれる。ありったけの心配を込めた眼差しを受けて、イリスの胸がぎゅっとつまった。
「大丈夫、です、けど、ごめんなさい、です…っ」
「うん。俺もあとでちゃんと謝るね。センリも、それから君も、本当に無事でよかった。とりあえず、今は――」
ユラはふっと優しく微笑んでから、立ち上がり、振り返る。「これ、どうしよっか」
「何で動いてるの、これ? 残陽の遺跡の守護者は俺がバラバラにしたはずでしょ? そもそも今回の展示は、本体も心核も全部レプリカでできてるって聞いてたんだけど?」
「そのレプリカの心核が起動して再生したらしい」
「だから何で?」
マオに答えを求めながらも、どうやら今は正解にたどり着けないと察したらしい。ユラは諦めたように大きく伸びをしながら、「センリ」と、イリスたちに背中を向けながら呼びかける。
「これからのことは君が決めて。ひとつ、この氷漬けの状態で守護者の展示を続行する。ふたつ、正直にトラブルがあったと説明して展示を中止する。そして、みっつ――」
ユラは背伸びのために頭上で組んでいた両手をほどき、そのまま片手だけをめいっぱい掲げて三本指を立てた。「俺たちがこのまま守護者を倒す様子を、パフォーマンスとしてお客さんに披露しちゃう」
「ふぇっ!」
思わず変な声が出てしまった。だって、それって、つまり。
「この異常事態をショーにしちゃうってことですか!?」
「そうだよ、ショーだよ」と、ユラはラッパーのごとく呑気に韻を踏んでいるが、はたして本当にそんな悠長な状況なのだろうか。
ちらりと入り口付近に視線を送ると、そこにはエイミーちゃんや引率の先生、パソコンを抱えた女性など、さきほどのホールにいた客の姿があった。さらに、いったい何が起こっているのだろうと廊下から中を覗き込んでいた他の客も合流して、ざっと五十人近くの集団になっている。
「はーい、これが残陽の遺跡名物『氷漬けのドラゴン』よ! カチンコチンに凍ってるから絶対に動かないし絶対に危険はないの! 安心してね!」というグレイちゃんのアドリブ説明を聞きながら、今のところはまだ笑顔で歓声をあげているが――。
この観客たちの目の前で、守護者と戦うのか? あんなに巨大で凶暴なドラゴンと?
「それは……」
さすがにセンリも戸惑っているようだった。アンバーサスの背中に向けていた視線をイリスに移し、さらに観客へと向け、最終的にロキへ移動して驚いたように止まる。一緒に目線を追いかけていたイリスも、思わず息を呑んだ。
――泣いている。
ロキが、声を殺すようにして泣いていた。
無理もない。あんなに怖い目に遭わせてしまったのだ。あるいは、ずっと張り詰めていた緊張が、マオとユラの登場で一気に解けたのかもしれない。
(どうしよう、僕のせいだ。どうしよう、なにか、なんとかしたい)
選択肢は、みっつ。ユラが提示したうちの最初のふたつは、どちらも『守護者が動いたという事実をなかったことにする』ことだ。しかし、それではロキの心の傷は癒えないだろう。もう二度と博物館に来てくれないかもしれない。おそらくセンリもそれを危惧しているはずだ。
では、みっつめの選択肢を選べばいいのかというと、それも難しい。守護者を討伐するショーを派手に行えば、たくさんの観客を危険に巻き込むことになる。それもそれで大問題だ。
「ひとつだけ参考程度に言っておくと、俺と魔王さまには全部を守れる自信がある」
無言で熟考しているセンリに、ユラが背中を向けたまま声をかける。
「パーフェクトゲームってやつだよ」と、振り向きざまに茶目っ気たっぷりにウィンクをするユラは、こんなときだというのに信じられないほどいつもどおりだ。
「……」
それでもまだ、センリは悩んでいる。ミュージアムのスタッフとして、客の安全を最優先に考えていることはわかる。けれど、それ以外にもなにか理由があるのではないだろうか。センリの視線が、いつのまにか観客のほうに向いていることに気づいて、イリスははっとする。
――だからこの人たちには、二人が戦っている姿はあまり見せたくないですね。
(そうだ、さっきセンリさんはそう言ってた……)
ユラとマオの戦う姿を見たら、みんなが怖がってしまうから。せっかく二人が受け入れられたのに、それが台無しになってしまうから。だから、みっつめの選択肢を選べない。
選べない? 選べないってなんだ。そんなの、らしくないじゃないか。
「勝手に諦めてんじゃねぇぞふざけんな! です!」




