2-12 はい、ママ捕まりました
最速の勇者にだいぶ遅れて辿り着いた一階の玄関ホールは、水を打ったように静まりかえっていた。屋敷のすべてを感知できるギルモンテによって、状況はリアルタイムで把握している。ユラはまだ確かに中にいるはずだが、それでも実はもうとっくにいなくなってしまっているのではないかという焦燥感は拭いきれない。
けれどその不安は、扉の前でたたずむ細身の後ろ姿を発見した瞬間に雲散した。
「ずるいよ」
追いついたイリスたちに背を向けたまま、ユラが呟く。「こんなのどうしようもないじゃん」
拗ねたように頬をふくらませながら振り向いたユラの後ろにいたのは、玄関ホールの正面扉の前で陣取る巨大な紫色のメンダコだった。無数の短い足がニョロニョロと蠢き、そのまますっぽりとユラを抱き込む。――すなわち、勝利条件の達成。
「ママ、捕まえましたっ!」
「はい、ママ捕まりました。俺の完敗です。このぬいぐるみ、イリスの発案でしょ。もー、ホントに賢くてかわいいんだから」
「えへへっ、ママに似ました! やりましたよ、ギルモンテさん! ありがとうございます、タフィーさん! ボクたちの勝ちです!」
「ポッポ! よかったです! ええ、本当によかったですとも! 血反吐を吐く寸前まで走った頑張りが報われました! ワタクシこれ以上ないほどの達成感に満たされております……!」
しばらくわーいわーいとはしゃいでいた連合チームだが、やがて思い出したように「それにしてもイリス様はなぜ、レディにメンダコのぬいぐるみを作るように仰ったのですか?」と執事が首を傾げる。
「ママのおばあちゃんが、メンダコの魔物なんです。ブレンゼルっていいます。ママと一緒にカフェをやっていて、料理がとっても上手なんです」
「それはそれは、素敵なマダムでいらっしゃいますね。――ああ、だからでしょうか。ユラ様がこの屋敷に住みたくないと仰ったのは」
「あっ」
そうだった、まだユラが新居への引っ越しを頑なに拒んだ明確な理由を聞いていない。慌てて振り返ると、メンダコに大人しく包み込まれているユラが、どこか居心地悪そうに目を逸らした。
「……ん。まあ、そういうことになるかな。こっちで一緒に住もうって言ったって、ばあちゃん絶対断るだろうし」
「ママは、おばあちゃんと離れるのが嫌なんですね」
「うん」
「ママは、おばあちゃんのことが大好きなんですね」
その質問には、少しだけ間を置いて。やがて、ちょっと照れくさそうに視線を落としながら「ん」と頷く。
「……単純な話。物理的な距離が空いたら、精神的な距離が離れちゃいそうなんだよね」
「? ムーンヘーベンのお家を出たら、おばあちゃんがママを忘れるかもしれない、ってことですか? そんなこと絶対ないと思います」
「ふふ。ありがとう、イリス。そうなんだよ、ばあちゃん口は悪いけど情は深いひとだから。――忘れちゃいそうなのは、俺のほう」
「ママのほう?」
それこそあり得ないだろう。二人とはまだたった二日しか付き合いのないイリスでもわかる。ユラはブレンゼルのことが大好き。それは、海がしょっぱいのと同じくらい当たり前で、変わりようもないことのはずだ。
「俺さ、いわゆる記憶喪失ってやつなんだよね」
「えっ!」
「ポポッ!」
「たぶん十歳くらいだと思うんだけど、気がついたらひとりで森の中をさ迷っててさ。そこをたまたま通りかかったばあちゃんに拾われたんだ。言葉とか生活行動とかには特に問題はなかったから、いわゆるエピソード記憶ってのだけがなくなってる状態らしくて、いまだにそれ以前のことを思い出せないんだよね」
どうしよう。真剣な話が始まったから真剣に聞きたいのに、メンダコに埋もれて生首状態のユラが気になって集中できない。ああ、頭だけでもどうしてこんなにかわいいんだろう。鹿の剥製を飾る人の気持ちがわかっちゃう。どうしよう。
「だから俺は親の顔も名前も知らないんだけど、それ自体はそこまで悲観するようなことでもないんだよ。だって、知らないものはしょうがなくない? 俺のせいでもないんだしさ、多分」
だよねぇ? と、自分を抱きしめているメンダコを見上げながら同意を求めるユラがあまりにも通常運転すぎて、イリスの緊張がゆるゆると解けていく。ユラにかかると、記憶喪失なんていうドラマティックイベントさえ、とるに足らないデイリークエストになってしまうらしい。
「まあ、ただひとつだけ問題があるとすれば、自分の感情の基準がいまいちわからないってことでさ。だってホラ、一般的に『親』っていうのは、子どもがいちばん愛したい存在だし、いちばん愛されたい存在なんでしょ? そういう特別な存在に対して、自分がどういう感情を抱いていたのかってことを、俺はまるっと忘れてるわけなんだよ。それってやっぱりなんか心もとないっていうか。まあ、ざっくり言うと――俺は俺の誰かに対する感情が本当に本物なのかどうかって、いつもちょっと疑ってたりするわけだ」
正直、驚いた。いつも自信満々に振る舞っているユラが、心の奥底ではそんな不安定な思いを抱えていただなんて。とてもおいそれとは立ち入れない領域だが、そんな心の内を僅かでも見せてもらえたことが、どこか誇らしくもある。その信頼に、少しでも応えたい。何かを返したい。
「……ママは『おばあちゃんのことが大好きだ』っていう自分のことが信じられないから離れたくないってことですか? このフロンスファのお屋敷に引っ越しておばあちゃんと疎遠になった途端に気持ちが冷めてしまうかもしれなくて、それを認識することがとても怖いから」
「――怖い、か。ふふ、似合わなすぎて自分でも笑っちゃうけどね。うん、そうだと思う。そのうえ何百年も家族を待ち続けているギルモンテやタフィーを見ちゃったら、もう駄目だよ。俺にはとても無理だなって、完全に自信がなくなっちゃった」
「エッ! ワ、ワタクシたちですか!? いえ、あの、決してそのような! ワタクシがご家族を待ち続けるのは存在意義だからであり、それなしで精霊は生きていけないからであり、そもそも人間のユラ様とは根本的に違うものでありますので! た、単純な比較は出来かねるかとっ」と、引き合いに出されたギルモンテが必死にフォローに回りはじめた。その光景をぼうっと見ながら、(これはちょっと根が深いかもなあ)と、イリスは思索にふける。
おそらくユラの問題は、この場で今すぐどうにかできるような単純なものではない。もちろん勝負には勝ったのだから、ユラがどう思っていようとこの屋敷に引っ越してくることはできる。だが、推しの気がかりを無視してまで、自分の欲望を貫いてもいいのだろうか。いや、それはよくない!
なんとか妥協点を探して円満に事を運びたいが、そのためには別の切り口が必要だ。さて、どうしよう。
イリスがうんうん悩んでいる間に、逆側の肩に乗っていたタフィーがぴょんと飛び降りて、ユラのほうへ走っていく。メンダコの足元まで来てぴたりと止まると、くるりとこちらを振り返り、ユラに向けてお尻を振り出した。
ふりふりふり。えっ、かわいい。急にかわいい。いったい何が始まったのかと、その場にいるタフィー以外の全員がぽかんとしている中、いち早くイリスが「あ!」と声を上げた。




