2-8 あ、冷たい動けないっ! そして痛いっ!
「おとぎ話に出てくるお部屋みたいです!」
不思議の国のアリスよろしくウサギを追って辿り着いた主寝室は、まさに絵本の挿絵やファンタジー映画のセットから飛び出してきたかのようだった。
三階には廊下という概念がなく、広々としたワンフロアが丸ごとひとつの大きな部屋になっている。一階や二階が不特定多数の来客に開かれたパブリックスペースなら、ここは完全にプライベートな空間なのだろう。淡い夕陽色の照明の下で、住人の趣味や嗜好が色濃く反映された家具や調度品たちがぴかぴかと輝いている。
「あ、ウサギさん行っちゃいました」
「精霊の居場所を知ってるっぽいよね、あの子。ゆっくり追いかけながら、ついでに部屋の中をちょっと探索させてもらおうか」
というわけで、イリスたちは部屋の奥へ小走りで駆けていくぬいぐるみの後を追って、おそらく三階でも一番広く面積を使っているだろうリビングにやってきた。
真っ先に目に止まったのは、壁に埋め込まれたクラシカルな暖炉だ。コの字型の大きなソファに囲まれて、まるで自分こそが主役だと言わんばかりの存在感を放っている。そのまま自然と、真上に飾られている大きな絵画へ視線が移動した。
「これは、肖像画ですか?」
英国紳士風のファッションに身を包んだ男性。腰の辺りから大きく盛り上がったドレスを着た女性。そして、ワンピースの少女。おそらく家族だと思われる三人が、四角に切り取られたセピアの世界で幸せそうに笑い合っている。
「わかりました! きっとずっと昔、このお屋敷に住んでいたご家族です!」
「うん、そうだね。きっとそれが正解だと思うんだけど……んー、だとしたらどういうことなんだろう」
シャーロック・ホームズさながらの名推理だとイリスが自信を持って発言したにも関わらず、ユラの反応はどこか曖昧だ。肖像画を見たまま、じっと考え込んでいる。それならマオの見解も聞いてみようと、少し離れた場所にいるはずの長身を探してイリスが辺りを見回せば、いつのまにか物陰からこちらをじーっと見ているウサギと目が合った。黒いオーラを放ちながら「なんでついてこないの!?」と言いたげに、片足で地団駄を踏んでいる。まずい、すっごくイライラしている。
慌てて近づき「寄り道しちゃってごめんなさい、ウサギさん。もう一度、精霊さんのところまで案内してください」と、九十度のお辞儀をひとつ。その謝罪を受け入れてくれたのか、ぬいぐるみはくるりと踵を返して再び駆け出した。途中で立ち止まり、こちらを振り返ることも忘れない。よかった、なんとか機嫌を直してくれたらしい。
すぐに追いかけようとした足をはたと止め、イリスは「パパ、ママ」と二人を手招きする。
何かあったらまずは両親に報告すること。知らない場所で単独行動しないこと。これは子どもとして守らなければいけないルール、いや家族として一緒に暮らすための大事なルールだ。うん、きのうの幻獣退治での経験が生きている。偉いぞ、ぼく。
ウサギのぬいぐるみは、寝室の奥のクローゼットに向かって一直線に進んでいく。まさか、その中に屋敷の精霊が隠れているのだろうか。イリスを抱えたマオがゆっくり近づくと、がたたたっと中から物音が聞こえてきた。続いて「レディ、レディだめです! こっちに来てはいけませんっ」という焦りの声。間違いない。中に誰かいる。
無言のまま三人でアイコンタクトをすると、マオが代表して片手をゆっくりクローゼットに伸ばし――。
コンコン。
うん、そうだったそうだった。どんな状況でも、まずはノックだった。いきなり開けるような不作法な真似は決してしない真面目で律儀なマオが愛おしくて、イリスからほわわんと花が飛んでいく。
「……」
「……」
返事がないので、もう一回。コンコンコン。ついでに、コン。
「……は、入っておりまーす。あっ、いえ! 入っておりません!」
「入ってますね」
「入っているな」
中から上擦った男性の声が返ってきても、イリスは驚かない。むしろ、ちょっと面白い。マオとひそひそ話していると、その背中を「ねえ、開けちゃおう? ねえねえ、開けちゃおう?」というユラの楽しそうな声が押した。それが聞こえたのか、「ひぇっ」という息を呑む音が扉の向こう側で上がる。
「……」
「……」
しーん。寝室に落ちる、しばしの沈黙。その間、およそ三十秒。
もはや逃げ場はないと観念したのだろうか。やがて、ゆっくりと内側からクローゼットが開かれていく。
その真っ暗な隙間から覗いたのは――黒くて短いくちばしと、ギラギラ光る大きな目。
「きゃー!」
「キャー!」
イリスとクローゼットの中にいた人物が、揃って同じ音域の悲鳴を上げる。なぜそっちがさけぶのかと疑問に思ったときには、ひょろ長い細身の影が外へ飛び出していた。
随分と背が高い。マオと同じくらいだろうか。燕尾服のようなものを着た後ろ姿が、瞬く間に寝室から走り去っていく。
「屋敷の精霊だな。捕まえるか?」
「捕まえちゃってください!」
「わかった」
「あ、冷たい動けないっ! そして痛いっ!」
まんまと逃げおおせたかに見えた精霊だが、床に現れた小さなスノードームに捕まえられた両足を軸に、ものすごい勢いで顔面からびたんと倒れた。さらに「はい、制圧」と、いつの間にか現れたユラがその背中に軽やかに飛び乗って重しとなる。ニワトリが冷水を被ったような短い悲鳴を上げた精霊は、こうしておとなしく白旗を上げたのだった。




