1-19 もうママって呼んでくれないの?
「!?」
すぐ背後から迫る、風を切るような重い音。とっさに亮太の生存本能が反応した。野球のスライディングの要領で、頭からべしゃりと倒れ込む。緑の絨毯がクッションになったとはいえ、体全体の前半分をしたたかに地面に打ち付けることになり、うっと息が詰まった。痛い。苦しい。痛い。
「……痛い?」
ぞわりと、全身が総毛立つ。
痛覚。それは絶対に夢の中で覚えるはずがない感覚だ。そんなものを感じてしまったら、それはもはや夢とはいえない。
これは――夢なんかじゃない。
「え、どうして……? なんで……?」
呆然と倒れ伏す亮太の全身を、黒い影がじわじわと覆い尽くしていく。太陽の光を完全に遮るほどの大きな何かが、亮太のすぐ後ろにいる。ぶよぶよとした不気味な気配が、静かに待ち構えている。危険信号のように鳴り出した心臓の音に促されるまま、亮太は永遠にも思えるような時間をかけて振り返った。
赤い狼だ。ユラが倒していた狼と同種の、けれど全く比較にならないほど巨大な幻獣の姿が、そこにあった。
爛爛と輝く瞳が、じっと亮太を見据えている。鋭い牙が覗いた口からは、殺意に満ちた低い呻き声が漏れている。どうやらこの個体は、他と違って二足歩行が可能らしい。立ち上がることで自由に振り回せるようになった前脚の先で、長い爪がぎらりと光った。
まるで狼男だ。おそらく先ほどの風を切る音は、この脚が亮太の頭をねらってなぎ払ったものだろう。奇跡的に前に飛び込んでいなければ、首と胴体が泣き別れていたはずだ。
けれど、二度目の奇跡は訪れない。ピンで刺された昆虫の標本のような亮太に、もはや逃げる場所などない。
高い知能はなくとも獲物をいたぶる思考は持ち合わせているのか、狼男がことさらゆっくりと脚を持ち上げていく。高々と掲げられたそれが引き起こす数秒後の惨劇を想像して全身を固くした亮太の聴覚が、すぐ近くからの弱々しい鳴き声を捉えた。
子犬。そうだ、せめてあの子だけでも助かってくれれば――!
「逃げて……!」
とっさに首をひねりながらさけんだ亮太の視線の先で、子犬の全身がゆらりと崩れる。愛くるしかった姿が内側から綿をぶち撒けるように裂け、中からユラが倒していた狼と同じ幻獣が飛び出した。歓喜と嘲笑の吠え声を上げながら、亮太に向けて牙を剥く。
――ああ、罠だったのだ。亮太はまんまとおびき寄せられたのだ。助けるべき子犬など、最初から存在していなかったのだ。
ぷつり、と。頭の中で何かが切れる音がする。絶望の重みで、瞼がゆっくりと降りていく。
死んじゃう。死んでしまう。脳裏が白く明滅する。
二つの光。車のライト。ああ、そうだ。そうだった。
違う、死ぬんじゃない。僕はもう、とっくに死んで――。
「ぎゃうん!」
「!」
自分の喉とは違う場所から上がった絶叫に驚いて、亮太は瞬時に目を開けた。
そうして、見る。
子犬のふりをした幻獣が、真っ二つに切り裂かれて雲散する光景を。
狼男と自分の間に割り込んだ背中が、頭から血飛沫を上げる光景を。
「……!」
同じ場面を知っている。ほんの少し前に、画面越しに、見た。
あのときも、彼は子どもを庇って。
あのときも、彼は赤黒く染まって。
あのときも、彼は死んでしまった。
「――ユラっ!!」
悲鳴のようにさけんだ亮太を、そのユラ本人の細いながらも力強い腕が拾い上げた。優しい体温とともに感じる、わずかな浮遊感。ユラが亮太を抱えて狼男から離れるためにジャンプしたのだと理解できたときには、すでに地面にふわりと降ろされていた。
「ユラさん、ユラさん……!」
「うん、もう大丈夫だよ。遅くなってごめんね。怪我は……、ああ、転んじゃったんだね。可哀想に、服がぐちゃぐちゃだ。どこか痛いところはある?」
ユラは壊れ物を扱うような優しい手つきで、亮太の顔や体に触れて傷を確かめていく。けれど、亮太自身は自分のことなどどうでもよかった。ただただ、ユラの白い額から片頬にかけてのラインを伝う鮮烈な赤から、目が離せない。顎先まで到達した血液がいくつもの小さなルビーになって、ぽたり、ぽたりと、落ちていく。
「……っ、ぼくのことなんかより! ユラさんが!」
とどめとばかりに大きく振りかぶった、狼男の一撃。それを頭部に受けておいて無事でいられるはずがない。全身をがくがくと情けなく震わせながらも、亮太は必死で訴える。
だってこれは夢ではない。現実なのだから。本当に死んでしまうかもしれないんだから――!
「あれ、もうママって呼んでくれないの? まあ、そうだよね。来るのがこんなに遅くなって、しかもこんな怖い目にあわせちゃったら、ママなんて失格だよね」
ユラは悪戯っぽく笑うと、冷たくなった亮太の手を両手で掬いとる。そのまま強く握りしめ、「本当にごめんなさい」と、懺悔にも似た呟きを落とした。
「俺は平気だよ。とっさに相手の腕を蹴って軌道を逸らしたんだけど、さすがにかわしきれなくて、ちょっと頭皮を引っかかれちゃったってだけ」
頭って少しの怪我でも派手に血が出るんだよね、と。流れる赤を軽く手の甲で拭いながら、ユラが笑う。まるでスポーツの後の爽やかな汗のように淡々と、本当に何でもないことのように。




