蝙蝠
第四回、5分企画に向けての習作になります。
「蝙蝠って、好きか?」
祐香はブラウスのボタンを留める手を休め、唐突に尋ねてきた方を振り返った。質問を投げた弥広は問い掛けたことを忘れたように、落ちかけた灰をけだるそうに見ていた。
「どうしたの、急に」
一番上のボタンを留め終えた所で、祐香はテーブルにあった灰皿を弥広の前に差し出した。
「好きか?」
弥広は灰皿に仕事を終えた煙草を潰した。天井まで昇っていた紫煙が揺らぐ。祐香は髪を梳かしながら、その手を休めずに答えた。
「別に。あまり好きってことも無いけど、大嫌いってわけでもないよ。あんまり見たこともないしさ」
ブラシをテーブルの上に置き、祐香は弥広の隣に座る。ベッドがゆっくりと沈んだ。
「そう、か」
窓からのオレンジの夕陽が部屋にたちこめる。最近は陽の落ちるのが早くなった。冬がすぐそこまで来ているのだろう。
どうして聞いてきたんだろ? 好奇心に溢れた祐香の瞳が、彼の憂鬱そうな顔を捉える。弥広は目を瞑ったまま返事をしない。
弥広は普段から口数の少ない男だった。黙っていても絵になるくらいの容姿で、その目には何か悲しみのようなものを湛えていた。そんなミステリアスな部分に惹かれてか、常に彼の隣には女がいた。女たちは弥広に言葉を求めなかった。彼女らが求めるのは自分の隣にいて見栄えのする男だ。要は見た目さえよければいい。言葉は不要だった。
「子供の頃、蝙蝠を殺したことがある」
弥広はベッドから下り、オレンジのベールが眩しい窓の側に立った。
「家でひとり、留守番をしてたんだ。その時に窓から黒い影が入ってきた」
祐香はベッドの上で膝を抱えて座り、話に耳を傾けた。彼女はこれまで彼から話らしい話を聞いたことが無かった。必要最小限の会話、それが彼女にとって彼の言葉の全てだった。
「夏の暑い日、俺はベランダで夕涼みをしてたんだ。そしたら突然、蝙蝠が飛びこんできた」
「へえ、そんなことあるんだ。珍しいね」
大きな溜め息を吐き、弥広は椅子に腰掛けた。
「確かにな。俺もその時初めて見たよ。驚いた俺は奴から目が離せなかった。すると、ふとそいつと目が合ったんだ」
祐香がクスッと笑う。そんな彼女に対して、弥広は真剣な表情でゆっくりと首を振った。
「気のせいなんかじゃない。奴は俺の前で静止して、睨んできた。確かに目が合ったんだ。そして突然、殺らなきゃ殺られるって考えが頭に浮かびあがった」
「……」
「俺はベランダにあった金属バットを手に取った。奴はずっとこっちを見続けていた。恐かった。俺はいつのまにか背中にべっとりと汗をかいてたよ」
そこで弥広は、大きく息を吐いた。
「それで、どうなったの?」
弥広は話に夢中になってきている祐香の方に、体の向きを変えた。
「最初に言ったろ? 殺したよ。手に持ったバットで散々殴って。赤い血が手や服に飛び散って、泣きそうになった」
すでに外は陽が落ちて、随分と暗くなってきていた。
「ふうん。大変だったね」
感心したような声を出して、祐香はベッドから下りて帰る支度を始めた。
「まだ終わってない。話はここからだ」
沈んだ声で弥広は祐香の身支度を止めた。
「二年くらい前かな。奴が頻繁に夢に出てくるようになったのは」
祐香は弥広の顔に微かに笑みが浮かんでいるように見えた。
「やつって、蝙蝠のこと?」
怯えた様子で祐香は尋ねた。弥広は椅子に深く腰掛けたまま、全くといっていいほど動かなかった。
「ああ、そして奴は俺にこう言うんだ。『私はお前の中にいるぞ』ってね」
祐香は言葉を失っていた。とても冗談を言っているとは思えなかった。その言葉の一つ一つが、ゆっくりと祐香の頭の中で反復された。
「信じなくてもいいさ。だが俺にはしっかりと感じる。分かるんだ。頭の中で奴が俺を侵食してきているのが」
全身の血の気がすっとひく。祐香の顔は真っ白になって、手は小刻みに震えていた。そして、弥広をこれまでしたことの無いような眼差しで見つめた。
――狂っている。この男は頭がおかしい。
「そろそろ抗えなくなってきてる。奴は俺に命令するんだ。若い女の血が、欲しいってね」
祐香は失神寸前だった。心臓が胸の中で暴れまわり、他の内臓を押しつぶすんじゃないかと錯覚する。近くにあったハンドバッグを引ったくり、急いで部屋を出ようとした。
「待てよ。どこに行く」
弥広の生気を失った声が祐香を追いかけた。全身がわなわなと震えている。嫌な汗がとめどなく体を這っていく。玄関で靴を履きながら祐香は叫びに近い声で答えた。
「ちっ、ちょっと、急用思い出しちゃって。は、早く帰んなきゃいけないから。だっ、だから」
弥広の瞳はしっかりと祐香を見据えていた。
「そうか、じゃあ明日だな。また、来てくれるんだろ?」
透き通るような優しい声だった。祐香の呼吸はどんどん早まっていく。目は大きく見開かれたままだった。
「うっ、うん。じゃ、またね」
ドアは一瞬で開き、一瞬で閉まった。祐香は泣くのを必死にこらえながら、街の喧騒の中を走っていく。夜の街は今まさに活動を始めようとしていた。
「くくくく……」
弥広は堪えきれずに笑みを内へと響かせた。
「くっ。我ながら蝙蝠が中にいるなんて、よく考えたもんだぜ」
押さえ切れない笑いと共に、弥広はベッドに横になった。この話を弥広が女に話したのは今日で五度目だった。いずれの場合も女たちはその後戻ってこなかった。これが彼の別れの方法なのだ。彼の容姿が功を奏して、この計画は失敗したことがなかった。
「さて、しばらく女はいいか」
ベッドの上で大の字になりながら、弥広はひとり呟いた。どくん‥と、胸の奥の方で、なにかが鳴動する。
「いや、そろそろ次の女で……」
彼は自分の口から漏れた言葉を意識することはなかった。自分の体に巣食う黒い影がゆっくりと動いていることを、彼はまだ気づいていない。
ちょっとだけ実話。