誘惑
「ご、ごめんなさいっ!まさか先客がいるとは……!あの、昨日の夜に入浴できなかったから、今日は朝にと……ごめんなさいっ」
慌ててその場を去ろうと後ずさる。振り返ってすぐに駆けだしたいんだけど、そうすると背中は私、無防備なんで……。
「なんだ、誘惑しに来たんじゃないのか?」
「ゆ、誘惑?え?」
イザートが湯船から上がると、熱い手で私のタオルを押さえていない方の手をつかんだ。
「じゃぁ、俺から誘惑しようか」
は?
イザートの湯気が立ち上る顔が私の顔に近づく。
そして、イザートの顔が、徐々にさらに近づけられて……。
その唇が私の鼻に当たり、小さくカプリと歯を立てられた。
「冗談だよ」
パッと顔を離され、鼻の頭をつんっと指先ではじかれる。
「どうやら使用人の中に、俺とリコが男女の中だって勘違いしてるやつがいるようだな」
え?なんで?どうして?
イケメン誰から見ても素敵な容姿を持つイザートと、日本にいるときは誰にも見向きもされなかった私が付き合っているなんて、どうして勘違いするの?そもそも、貴族と平民っていうだけでもありえないんじゃない?
「まぁ、侯爵と聖女の関係で多いっちゃぁ多いんだから勘違いされても仕方がねぇが……。俺もちゃんと言っておくべきだったな」
なんだ。そういうことか。
確かに日本の小説でも多かったよね。王子と聖女が結ばれるみたいな話。この世界では聖女と侯爵が結ばれることがおおいのかな?それとも、恋人を聖女にするのだろうか?侯爵は魔力がある人間で、その魔力を精霊に与えるという役割がある。聖女は魔法を使う時に歌を歌っていたけれど、聖女の資格って何だろう?魔力ではないのははっきりしている。
「リコとは、まだそういう関係じゃないと。今、口説いているところだってね」
「は?」
目をまん丸にすると、イザートはおかしそうに笑った。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔って、こういう顔なのかな。可愛い」
鳩が豆鉄砲って……。そうか、私、からかわれてるんだ。
そう、そうだった。イザートってそういう人だった!私を山賊の娘だの、山賊の女頭目だの言ってからかうような人だ!
もう、一瞬でも心臓が跳ね上がったじゃないっ!
「私からも使用人にちゃんと伝えるわ!イザートと私は男女の関係じゃないし、イザートが時々言う冗談を真に受けて私たちの中を疑わないでね!って!じゃあね!イザート!」
さっさと出て行ってと、出口を指さすと、イザートが笑いを収め、頭をガシガシとかきながら出て行った。
「冗談を言う様な男に見えるのか……」
見えるというか、私が道端で倒れていたときに変な趣味だなとか言ったのは本気じゃなくて冗談だったと思いたい。けど……。
もしかするとこの世界の人間にとって3日食べないことはそこそこよくある話だったのかもしれない。そして、私の体系は日本ではやせ形だけれど、この世界では十分な肉がついている方だ。……とても飢え死にするようにみえなかったのかもしれないと。今となってはそう思う。
体と頭を洗ってから湯船に浸る。
……さっきまで、イザートが使っていた湯だ……。
頭にぽんっとイザートのたくましい体が思い浮かんで、慌ててバシャバシャと音を立てて顔を洗う。
何、考えてるのよ!あのたくましい胸に抱かれるとどんな感じなんだろうとか、一瞬でも考えた自分が恥ずかしすぎて、しばらく風呂から出ることができなかった。
落ち着こう。はぁ……。
ぼぅーっと、あたたかな湯船に浸る。
今日は、サンドイッチを持って行って井戸掘りをしよう。
サンドイッチあげるから手伝ってって声をかけ……るんじゃ、手伝わないとくれないのかって思われちゃうかなぁ。
それよりも、サンドイッチで、油とジャガイモを売りこんだ方がいいか。ならば全員に行き渡るだけ持って行けるといいけれど。油は十分な量入荷するかな。
水、出るといいなぁ。




