5.庭の散歩
「これは庭ですか……?」
「セバスには違うって言われてるけどね」
それはセバスさんが正しいような。ララはこっそり心の中で呟く。
朝食のあと、屋敷の裏側へ案内され、「庭」だと説明を受けた。
しかし目の前には、たくさんの木が生い茂っており、どう見ても庭ではなく森だった。
貴族の庭は、こんな自然任せではない……と思う。他の貴族の庭を見たことがないので自信がない。
少なくともヴィルキャスト家の庭は、木々は等間隔に植えられ、いつ見ても切り揃えられていた。
季節によって花の種類が変わり、お茶をしたり、散歩するには絶好の場所だった。メアリに連れ出され、他の令嬢とアフタヌーンティーをしたこともある。
(令嬢にマナーを笑われ、メアリには紅茶をかけられたけど……)
嫌な思い出が浮かび、ララは胸のあたりを押さえた。
そんな彼女の気持ちはつゆ知らず、ロイの楽しそうな声が聞こえる。
「魔獣もほとんど出ないし、歩くと川もあるんだ。良い庭だよ」
あくまで庭と言い張るらしい。
ララは強張った体がやわらぐのを感じ、少しだけ笑った。
「案内するよ」と午後の柔らかな光を浴びながら、森の中を歩いていく。彼女は後に続いた。
庭というからには、整備はしているらしい。とても歩きやすい。
木々が揺れる音、様々な鳥の鳴き声……どれもボロ小屋近くの森でも聞いていたはずなのに、新鮮で、美しく聴こえるのは何故だろう。ロイの広い背中を追いかけながら思う。
5分くらい歩いただろうか。突然視界が開けた。
「ここだよ」
ロイが示した場所には、横幅30メートルくらいの川があった。
ララの膝あたりくらいまでしかない浅さで、流れはとてもゆっくりだ。川のせせらぎがとても心地よい。
ロイは川に近づきながら説明してくれる。
「ここは比較的、水質が良くてね。民が使う川にも通じてるから、水質の調査などで使っているんだ」
「そう、なんですね」
水質が良いと言ったが、ベルブロン王国の川と比べると明らかに劣っていた。
まず水が透き通っておらず、薄く濁っていた。そして魚の数が少ない。おそらく住むには適していないのだろう。
これで水質が良い方ならば、民が使っている水は、さらに汚れが酷くなるはずだ。
ララの考えを汲み取るかのように、ロイは説明を続ける。
「魔獣の汚れがまだ酷くてね。だけど使わざるを得ないので、民たちが苦しんでいる」
ロイは川の近くにしゃがみ込み、独り言のように呟く。
「だから君が来て、助かったよ」
「……はい」
激しい痛みがララの体を貫いた。
泣きそうになってしまうのを、必死で堪える。
(ごめんなさい、ごめんなさい、私は)
(あなたの役に立てません)
頭の中で何度も謝罪し、しゃがんでいるロイの姿を見つめる。
先ほどまで美しいと感じていた音たちが、ララの世界から一気に消えてしまった。
無言になったララに、ロイは不思議そうな顔で振り向いた。そして彼女の顔を見て、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「すまない、プレッシャーをかけるつもりじゃないんだ」
「い、いえ」
「来たばかりだし、ゆっくりと過ごしてほしい」
微笑む彼に、別の痛みが心臓を縛るのを感じた。
こんな優しい人に嘘をついている事実が、とてつもなく辛かった。
♦︎
庭の案内が終わると、ロイは仕事のため外へ出た。
ララは部屋に戻ってソファーに座り、ほうっと息を吐く。
(なんだか、想像とは違う人だった)
メアリ曰く、ロイは「38歳で独身の行き遅れ」で「弟に王太子の座を取られた」人だった。
貴族であるなら、結婚の話は嫌でもあがるだろう。王太子という身分なら尚更だ。
「きっと性格がとてつもなく歪んでいるのね」とメアリは嘲笑ったが、そんな風には到底思えなかった。
また「王太子の座をとられた」というからには、独裁的な政治を行っていたのかと思っていた。しかし実際は民のことを一番に考えており、そこも想像と乖離していた。
見目が悪いと反発する層も一定数いるが、ロイの場合……ララは食堂や森での彼の姿を思い出す。
たくましく広い背中、
心地よいバリトンボイス、
新緑を思わせるような緑の瞳、
微笑みと共に美しい弧を描く唇
一つずつ思い出すと、ララは顔が熱くなるのを感じた。
しかし、川での会話を思い出すと、途端に急降下してしまう。情緒不安定だと自分でも呆れてしまった。
「散歩でもしようかしら……」
このまま部屋に籠っていると、気が滅入りそうだった。
出かける前のロイに「いつでも庭を散歩していいからね」と言われていた。もう一度あの川へ行こうと決め、ララは部屋から出た。
廊下を歩いていると、掃除をしているマニカがいた。
目が合うと、人懐っこい声で名前を呼ばれる。そんな風に呼ばれたことがないので、少しくすぐったい。
「どちらへ行かれるのですか?」
「森……ではなく、庭を少し散歩しようと」
「あはは、森でいいですよ。庭って言い張るのご主人様だけですもん」
からからと笑い、ララもつられて笑う。
すると彼女は目をキラキラさせながら、はしゃいだ声で言った。
「ララ様、笑った方が断然いいですね!」
「そ、そうですか……?」
「えぇ、とても可愛らしいです!」
そんな風に言われたのは初めてだった。容姿に関しては「汚い」やら「醜い」など、見下された記憶しかない。
マニカはメイドなので、気を使って言ってくれたのだろう。もしくはエリーの髪のセットや、化粧が上手だったに違いない。
「マニカさんは、優しいですね」
本音をこぼすと、彼女は少しだけ怒ったような表情を浮かべる。何かまずいことを言っただろうか、不安になると、マニカが強い口調で言った。
「これ全て、心から言ってますからね?!」
「は、はい」
圧倒されて、思わず頷くララ。
何度も否定されてきた彼女は、褒め言葉を素直に受け止められなかった。それでも、褒めてくれるマニカの優しさが、今は嬉しかった。
マニカと別れ、森を歩く。
太陽が昇りきったのか、少し暑い。じわりと汗ばむのを感じた。
川にたどり着くと、先ほどと変わらぬせせらぎがララを迎えてくれた。ほっと息をつく。
(人がいない場所で、よかった)
同じ水がある場所でも、ベルブロン王国に流れる川は苦手だった。
民から侮蔑の目線を受け、冷笑される。川に入った足首から心臓まで、凍りつくような感覚。
何度晒されても慣れることはなかった。
だけどここには、ララを否定するものはなかった。母の思い出が残る、あの泉のように。
ただ水は流れに沿って、川下へ流れていく。雄大な自然があるだけだった。
ララは両膝をついて、祈りの姿勢をとる。
いつもは母の姿を思い浮かべるだけだったが、今日は違った。
執事やメイドたち、そして微笑みを浮かべるロイの姿もあった。
ーーいずれ軽蔑の目線を向けられたとしても
遠くない未来に、体がふるりと震えた。
それでも、とララは組んだ手に力を込める。
自分なんかに優しく接してくれた人たちに、感謝を伝えずにはいられなかった。
すると泉で祈った時のように、川がぼんやりと光り、そして消えた。
同時にどっとララの体に疲労感が包む。
(なに、これ……)
突然のことに声が出ない。体が鉛のように重く、目の前が時々白く弾けた。
その状態に覚えがあった。
ボロ小屋に暮らしていた時、なかなか食べ物にありつけない時と似ていた。
じりじりと太陽がララの体を焦がす。
もしかしたら暑さにやられたかもしれない。そう結論付けて、重い足取りで屋敷へと帰った。
屋敷へ戻ると、ララの青ざめた顔を見て、エリーが慌てて駆け寄ってきた。
遠慮したが、体を支えられながら部屋まで付き添われる。そのあと締め付けない服に替え、汗まで拭いてくれた。
ララをベッドに寝かせ、優しく布団をかける。
「きっと疲れが出たのでしょう」
かたく絞ったタオルを、ララのおでこに乗せながら言う。
火照った体に、冷たいタオルが気持ち良い。
ボロ小屋に暮らしていた時は、風邪をひいても、誰も心配などしてくれなかった。
薄いシーツにくるまり、体の気だるさや高熱が去っていくのを、ひたすら待つことしかできなかった。だけど今は、
額に冷たいタオルを置いてもらい、
部屋はあたたかく、
自分を心配してくれるやわらかな声が傍にある。
朦朧とする思考回路の中で、思わず呟いてしまう。
「ずっと、こんな日が、続けばいいのに」
「え」と驚いたエリーは、少女が呟いた言葉を理解すると、悲しそうに顔を歪めた。
そんな顔をしないでほしい。ララはぼやけた視界で願う。しかし口に出す前に、夢の世界へ旅立ってしまった。
「大丈夫かい?」
ララはぼんやりと目を開けると、部屋の暗さに驚いた。どうやら随分眠ってしまったらしい。
そして声の主の方に目線を向けて、さらに驚く。そこには心配そうに座るロイがいた。
「だんな、さま……」
「エリーから聞いたよ。具合が悪かったと」
心の底から心配そうな声に、申し訳ない気持ちが生まれる。同時に温かい感情が胸に広がった。
ロイはララの方に手を伸ばす。心臓が跳ねたが、額のタオルを取られただけだった。なんだか恥ずかしい。
彼は真剣な顔で、タオルを洗って絞ると、再びララの額に乗せてくれた。
夜の静けさが部屋を包む中で、彼は言った。
「何か食べたいものとか、いや、君は少食だったな」
悩ましげに眉を寄せるロイ。
彼の言う通り、ララは食べたいものなどはなかった。
(十分すぎるほど、もらっています)
そう伝えたいのに、思ったように声が出ない。
目の前の男は、相変わらず考えている。何かお願いした方がいいのかな、とララはぼんやりと思う。
すると、母親の記憶がふわりと浮かんだ。
童心に戻ったように、舌足らずな口調で、願いを口にしていた。
「頭をなでて、ください」
熱で浮かされているため、現実と夢の境が曖昧だったのだろう。
普段のララだったら、絶対に言わなかった願いを声に出した。
ロイは驚いたように見開き、少しだけ纏う雰囲気が柔らかくなった。
手を伸ばし、ララの頭を優しく撫でた。彼女は気持ちよさそうに目を細める。
水のように、やわらかに、幸福感が手足の端々まで巡っていくのを感じた。
『お母様! だいすき!』
幼少期の記憶の蓋が開く。
幸福な記憶が詰まった箱には、ほとんど中身が入っていなかった。
この先、この箱に記憶をしまうことはないと思っていた。
大きな手は何度も頭を撫でてくれる。
泣きそうなくらいの幸福が、いまここにある。
ララは今の記憶を、箱の中に大切にしまい込んだ。
「おかあさま……」
ララは呟き、再び夢の世界に旅たってしまった。
そんな彼女の寝顔を、彼はずっと眺めていた。





