4.初めての対面
「痛い! 放して!!」
手首を強く捕まれ、乱暴に床に押しつけられる。怖い、怖い、怖い、助けて。頭の中で叫び続け、目からは大量の涙が溢れ出てきた。
「俺の才能は」「なぜメアリばかり」「間違っている」目の前にいるヤニックは目を虚ろにしながら、ブツブツと呟いている。背中がぞくりと震えあがった。
彼はようやくララが泣いていることに気づいたらしい。勝ち誇ったように口角をあげて、言葉を放つ。
「厄介者のお前よりはマシだ。だからお前は何されても仕方ないんだ」
狂ってる。
怒りよりも恐怖心が勝った。
ヤニックの言っていることが支離滅裂すぎて、ララは声さえも出なくなってしまう。
男が自分に覆いかぶさり、首に吐息がかかった。ぞわりと爪先から頭まで、皮膚が粟立つ。強い拒否反応があるのに、体がどうしても動かない。熱いねっとりとした感触に、ララは強く目を閉じて祈った。助けて、助けて、助けて、
すると突然、目が眩むような閃光が走った。
そろりと目を開けると、ヤニックはララから離れた場所で、尻餅をついている。最初は驚いたように見開いていたが、怒りで顔が赤黒く変色する。そして何度も何度も、ララに向かって何かを叫びはじめた。
「なぜお前が、なぜお前が、ーーを」
ばっとララは飛び起きた。
はっはっ、と息が荒げ、あたりを見渡す。
見慣れぬ家具と、静寂が包む部屋。カーテンの隙間から、柔らかな朝日が漏れている。遠くの方から鳥の鳴き声が聞こえた。
(大丈夫、大丈夫、ここに、ヤニックはいない)
落ち着かせるように、自分に言い聞かせる。
少しずつ呼吸が安定してくると、ララは自分の頰に触れる。涙で指先がほんのり湿った。
(私は、幸せになんかなれない)
あの家からは離れたはずなのに、ふとした瞬間の記憶が、夢の中で彼女を縛り上げる。それがどうしようもなく辛かった。
呼吸が完全に安定すると、喉が酷く渇いていることに気づいた。机の上にあるベルを見たが、朝早くからメイドを呼びつけるのは気が引けた。ララはカーテンから漏れる光を眺め、ひたすら待ち続けた。
30分くらい経っただろうか、部屋のノックがして「はい」と答える。
ドアが開くと、エリーが笑顔で挨拶をしてくれた。部屋に入り、カーテンを開けると、陽の光が部屋に降り注いだ。
あまりの眩しさに目を細めると、エリーは水差しとコップを持ってきてくれた。
「よく眠れましたか?」
「……えぇ」
「それは良かったです」
他愛ない会話をしながら、コップに水を注ぐ。ララは受け取ると、一気に水を飲み干した。
「もう一杯いかがですか?」と聞かれ、こくりと頷いた。もう一度飲み干すと、ララはほうっと息を吐いた。体を巡る冷たい感触が気持ち良い。起きてからずっと我慢していたため、身に染み渡るようだ。
エリーは次に、水がなみなみと入った盥とタオルを持ってくると、ベッドの脇に置いてあるテーブルに置いた。
「こちらでお顔を洗ってください」と言い、彼女はクローゼットを開ける。ララが今日着る服を吟味しているようだ。盥を覗き込んだ先には、酷く不安そうな顔を浮かべる自分がいた。
昨日のお風呂の件を思い出す。
先ほど飲んだ水も、顔を洗う水も、この国では貴重だという事実。
「もったいないと感じなくて良いんですよ」と微笑むマニカ。
様々な葛藤が巡って、ララは水に手を伸ばす。
ぬるい水に誰かの優しさを感じ、心の中で感謝を伝えながら顔を洗った。
「こちらにしましょうか」
エリーが手に持っていたのは、薄紅色のドレスだった。ボトルネックのため露出も控えめで、下半身も膨らみが少ないものになっている。エミリのお下がりの中でも、比較的おさえめなデザインのドレスだ。
ララは頷きベッドから立つと、エリーはてきぱきと着替えを手伝ってくれた。
ドレスは相変わらずぶかぶかだったが、エリーが調整してくれたらしく、昨日よりは着られている感は払拭された。
化粧台の前に座ると、エリーは髪の毛を梳かしはじめた。
「ご主人様からお言伝がございまして、今朝の朝食はララ様と一緒にとりたいとのことです」
「わ、わかったわ」
まさかこんな早くに対面するとは思わず、ララの心臓は跳ねた。
じんわりと握った拳に汗が溜まるのを感じる。考えることはただ一つ。
自分に魔法力がないことを言うべきか。
ララにはどうしても決心がつかなかった。言った瞬間に、自分は人質となってしまう確信があった。
この屋敷で働く執事やメイドたちも、ララの決心がつかない要因だった。彼らから送られるであろう侮蔑の視線に、耐えられる自信がなかった。
自分だけならまだ良い。鏡越しにエリーの姿を捉えると、ララの髪の毛を編み込むことに集中している。
彼女を逃す算段がまるでついていない中、正直に話すのは悪手な気がした。ララは拳をさらに握りしめる。
(まだ、まだお話しはできない)
髪の毛のセットと化粧が終わり、ララはエリーの案内のもと、食堂へ向かっていた。
「まだ話さない」と決めたものの、緊張で心臓が壊れてしまいそうだった。
食堂に到着し扉を開けると、すでに先客がいた。こちらに気づくと、立ち上がり、ずんずんと近づいてくる。
そしてララの前に到着すると、エリーは深々とお辞儀をした。
「ご主人様、お待たせしました」
「あぁ、ご苦労さま。
君が、ララ嬢か」
バリトンボイスが上から降ってくる。
(お、大きい)
それがロイに対する第一印象だった。
同じ年齢の令嬢と比べ、背が低く、小柄なララ。大抵の人を見上げて話すことになる。
その中でもロイは特別高かった。思い切り見上げないと目線が合わないため、首が痛くなりそうだ。
「はい。ララ・ヴィルキャスト、です」
スカートの裾を持ち挨拶すると、「よろしく」と穏やかに返される。
「こ、こちらこそ」と精一杯見上げるララの姿に、ロイはふっと笑みを零す。
「昨日は迎えられずにすまない。
さて、食事をしながら話をしようか」
ロイが座っていた向かい側に、白い皿とカトラリーが用意されている。
エリーが椅子を引いてくれたため、腰をかけた。ロイの近くで待機していたセバスが「すぐにお食事をお持ちします」とにこやかに言う。
ララはちらりとロイの方を見た。
白いシャツと紺色のベストを着ており、体を鍛えているのか肩幅が広い。ネイビーの髪の毛を後ろに撫で付けており、精悍な顔立ちによく似合っていた。38歳という年齢より若く見えるが、若者のような雰囲気は感じさせない。頬ばった輪郭、目尻の小さなシワといった見た目の部分もあるが、なにより醸し出される威厳や品格が彼に貫禄を与えていた。
そっと観察していると、深いグリーンの瞳と目が合ってしまい、ララは慌てて逸らした。
最初に運ばれたのはポタージュと白いパンだった。
ララは手に取り、まずパンの柔らかさに驚く。ボロ小屋で食べていた固すぎるパンとは、全く異なっていた。
一口大にちぎり口に運ぶと、小麦の香りが鼻から抜けた。思わず顔が緩んでしまう。
「ふっ」
「あ、す、すみません、おいしくて……」
ロイの漏れた笑みに、ララは縮こまってしまう。
柔らかいパンも、濃厚なコーンポタージュも、信じられないくらい美味しい。しばらく黙々と食事に集中する。
貴族マナーについては子供の頃に受けただけなので、失礼があるかもしれないと怯えていたが、特に注意などはされなかった。
パンを食べきる頃、セバスが声をかけてきた。
「次は魚料理と肉料理、どちらがよろしいでしょうか?」
まさかの選択肢に、ララの背中に冷たい汗が流れる。
(もうお腹がいっぱいなんて言えない……!)
10年以上ほとんど満足に食事をとったことがない。1日1食摂れれば良い方で、3日くらい食事にありつけないこともあった。そのせいか、ララの胃袋の許容量は小さくなってしまった。しかし、ここで断ってしまうと失礼なのは明白だ。
比較的軽めの魚料理ならと思い、口を開くと、ロイが言葉を遮った。
「何か言いたいことがあるのかい?」
「あ、あの」
「慌てなくても良いよ。他に好きな食事があれば遠慮なく言って欲しい」
冷たい汗がさらに流れ続けた。
正直に言うのが正解なのか、無理してでも魚料理を食べるべきなのか。全く正解が分からなかった。
目の前のロイは、優しく微笑んでいる。自分なんかの意見を、ただ待ってくれる。
そんな人に嘘をつくのは気が引けて、ララは勇気を出して言った。
「あの、もう、お腹がいっぱいで」
「? あぁ、何か朝食前に食べてきたのかな」
「いえ、その、少食で」
目を強く瞑って、ロイの言葉を待つ。裕福なはずの貴族がパンとポタージュだけでお腹がいっぱいになるなんて、おかしいと思われても仕方ない。
すると、想像以上に柔らかい声が聞こえた。
「ジュースくらいなら飲めるかい?」
「え? あ、は、はい」
「セバス、あれを。私には肉料理を」
「かしこまりました」と礼をし、セバスは食堂を出て行った。
予想外のことを聞かれ、目をぱちくりと瞬かせる。そんな自分の疑問に答えるように、「実はね」と子供っぽい笑顔を浮かべた。
「この国は温暖な国で、ある果物がよく育つんだ」
「果物、ですか」
「なんだと思う?」
突然のクイズに、頭を悩ませる。
ボロ小屋に住んでいた頃は、食物を得るために森に入ることもあった。いくつか果物も見たことがある。
ベルブロン王国は寒暖差が大きい国のため、トゥルムフート王国と育つ果物とは違うだろう。森で見たことがない果物を挙げていく。
「バナナ、でしょうか」
「違う」
「マンゴー?」
楽しそうに首を振るロイ。これも違うそうだ。
難しい顔をして悩むララを見て、彼は食堂の扉の方へ目線を向ける。
「ほら、正解がやってきたよ」
セバスが持ってきたのは、鮮やかな色をしたジュースだった。
「オレンジ……!」
「そう、正解。美味しいから飲んでごらん」
促され、冷たいコップを手に持った。
ごくりと飲むと、まず口当たりの良さに驚いた。そのあと瑞々しい甘さとしっかりとした酸味が口内に広がる。
鮮度の良いオレンジを使っているのだろう、濃厚さが段違いだった。喉を鳴らして飲み込むと、オレンジの風味が舌の上に残る。ララは感動して、吐息と共に感動を伝えた。
「おいしい……」
「よかった」
目尻の皺を深くし、微笑むロイ。ララは何か眩しいものを見るような目で、彼を見た。
ドレスも身のこなしも、少食な部分も、あらゆるところで違和感を与えているだろう。
しかし何も聞かず、ただ目の前に座ってくれている。
ーーなんて、優しい人だろう。
見つめていると、グリーンの瞳が尋ねるように、ララを見た。
途端、顔から火が出たように熱くなり、ジュースを飲むふりをして誤魔化す。
「ふ」とまた笑われたような気がしたが、顔を上げる勇気が出ない。高鳴る心臓がうるさかった。
しばらく経つと、肉料理が運ばれてきた。
ロイは美しい所作で肉を切り分け、口に運ぶ。ララはオレンジジュースを飲みながら、見惚れるように眺めていた。
食べ終わり、ナプキンで口元を拭くと、ロイは言った。
「今日は屋敷の庭を案内しよう。どうかな?」
こくりと頷くと、彼は満足気に笑った。
こうして2人は共に穏やかな朝食を終えた。