【番編】鳥かごの鳥 過去編
フィン視点。悲恋です。
彼女には王宮という鳥籠は、ひどく窮屈そうに見えた。
「お目にかかれて光栄です」
隙のない挨拶をする人だ、それがユウリへの第一印象だった。
東洋の文化を、トゥルムフート王国へ伝える指南役としてユウリの祖母はやってきた。それから約40年。
祖母から父へと指南役は移り、今日、孫のユウリが受け継ぐことになった。
フィンは形だけの挨拶を交わし、すぐに執務室へ戻った。
ロイが王太子として、国の改革を次々と行うのを見て、必死で知識を吸収する毎日を過ごしていた。
忙殺される日々に、ユウリのことはすぐに忘れてしまった。
しばらく彼女の存在さえ思い出すこともなかった。
しかしフィンに任された仕事で詰まった時、何気なく通りかかったユウリに、雑談のつもりで相談してから、2人の間には縁が生まれた。
全く答えを期待していなかったのに、新たな視点を与えてくれたのだ。農作の収穫が落ちていたため、どうしたらいいかという話だった。
そのほかにも、いくら考えても答えが出ないときは、彼女に助けを求めた。
東洋の話をする彼女はとても楽しそうだった。そんなユウリの顔をもっと見てみたいと思い始めたのはいつだったか。
さらに忌憚ない意見を言ってくれることにも好感が持てた。第二夫人の息子ということで、甘言を囁いてくる輩も多くいる中、彼女は自然体で接してくれていた。それが何よりも嬉しかった。
まだ20にも満たない女性だが、立ち振る舞いははっきり言って完璧だった。生まれた時からトゥルムフート王国の指南役として教育を受けてきたのだろう、博識で、知識を柔軟に応用する頭脳を持っていた。
しかし中身がいかに優れていたとしても、王国にいる貴族から受ける「異国者」という無遠慮な目線は変わらなかった。
東洋の技術は昔よりも発展しているとはいえ、いまだに野蛮だと馬鹿にする者も多い。
ユウリの祖母は明らかに東洋の特徴を持った容姿だったし、ユウリもその血を受け継いでいた。
さらにラストネームも東洋に通ずるものだった。「暴言を吐かれて面倒なこともあるので」と言って、ラストネームを名乗ることをやめてしまったほどだ。
なんとかしてやりたい、だが今は国のことで精一杯だった。
歯がゆい思いを抱えながら4年、フィンとユウリは議論を重ね、トゥルムフート王国の発展に尽力した。
貴族たちの噂を跳ね返すように、アメジストの瞳はいつも力強く光っていた。あの輝きに、フィンは確かに救われていた。
思えばあの4年間こそが、フィンにとって最も幸福な時間だったのかもしれない。
2人の関係の変化があったのはロイが過労で倒れたことだった。
「……少しは休んでください」
「いや、兄様が起き上がるまでに少しでも仕事を減らさなくては」
「フィン様、」
少し強めの口調で呼びかけられ、フィンは顔をあげる。
そこには辛そうに眉根を寄せるユウリがいた。
今日は新月だ。月明かりも何もない暗い夜だった。執務室には机に置かれたライトだけが唯一の光源で、彼女のアメジストの瞳が悲しそうに光っていた。
「なぜ、君がそんな辛そうな顔をするんだ……」
「あなたが、泣かないので」
自分は気づいたら、ユウリに手を伸ばしていた。
彼女は拒否しなかった。いや、拒否できなかったのかもしれない。
執務室の床という、固く冷たい、最低な場所で彼女を抱いた。
誰でもいい。胸の中にある苦しみを受け止めて欲しかった。そんな自己中心的な理由で。
彼女の小さな喘ぎ声が、泣き声のように聞こえた。
♦︎
「フィン、お前はよくやっていると思う……」
父親に呼び出され、案の定、ユウリとの関係をたしなめられた。
ロイからフィンに王太子の座は移り、1年が経とうとしていた。ユウリを執務室へ呼び出す日々が続いていた。ほとんどは仕事について、そして時々彼女を抱く。彼女は悲しそうな表情を浮かべるものの、決して拒否することはなかった。
王宮ではユウリとフィンが恋仲になっていると噂が広まっていた。
「私は、ユウリと婚約したいと考えています」
「そんなことが許されると思うのか」
父は片眉を上げて叱責した。反対する理由は分かっていた。ユウリは「異国者」であり、「貴族」ではない。
王太子という国の未来を担う男が、そんな女性と結婚すること。国力を上げるために別の国の貴族と婚約することはあるが、異国の血が混じることを嫌う貴族は多い。さらに東洋の血となれば尚更だった。
しかし、フィンの心は変わらなかった。
自身が苦しみの渦中にいた時、救い出してくれたのはユウリだった。恩を返したい。彼女が苦しんでいたら、次は自分が手を差し伸べたい。
5年以上、父と母を説得したが、彼らは意見を曲げることがなかった。
ユウリは次第にやつれていった。力強く光るアメジストは、少しずつ褪せていった。
「異国者」という目線に、「王太子を惑わした女」という目線が加わったのだ。噂の出所を潰したり、彼女の側には自分の信頼できる者を付けるようにした。しかし全ての噂を消せるわけではない。
彼女の笑顔を見なくなったのは、いつからだっただろう。
自分が彼女を繋ぎ止めたいと思えば思うほど、彼女が不幸になっていく。
「君に、兄様の婚約者の教育係を任せたい」
そう提案したのは、王宮から離れた方がいいと判断したからだった。
彼女は「かしこまりました」と言い、頷いた。光を失った瞳を直視できなくて、思わず目を逸らしてしまう。
ララへの教育係の件は功を奏したようだった。
幾分か見せる表情が明るくなった。ララは好奇心が強く、夜遅くまで勉強しているらしい。自分の授業を楽しんでくれるのはとても嬉しいと、彼女は語った。
何より悪意が渦巻く王宮で離れたことが大きかったのだろう。フィンは胸を撫で下ろした。
ただユウリが王宮を離れることが増えたせいか、彼女を巡って、周りから受ける批判が大きくなっていった。自分がそろそろ跡継ぎを考える年になったのも一因だろう。
ララから「国王と王妃にもご挨拶を」と言った時に拒否したのも、それが原因だった。まだ精神的に安定していない彼女をこんな王宮に呼び寄せて、結婚式前に悩みの種を増やすのは避けたかった。自分のせいで他人を巻き込んでいることを、心の中で分かっていても、どうしても彼女を手放せなかった。
♦︎
「旅に出ようと思います」
「旅……?」
「えぇ、私の夢だったんです」
自分は何を聞かされているのだろう。
ララとロイの結婚式が終わり、1週間が経った。彼らの結婚式について思い思い語り合っていた後の出来事だった。
彼女は清々しい笑顔を浮かべていた。
自分がどんな言葉をかけても、どんな行為をしても、引き出せない表情だった。嫉妬のような炎が胸を焦がす。
フィンの気持ちを察したのか、ユウリは笑みを浮かべた。
「私は、フィン様と戦友のような関係でありたかった」
「戦友?」
「えぇ、問題が山積みの中で、ともに手を取り合い解決していくような関係。渦中の中でも、一緒に歩いていけるような」
「それは、」
自分だって一緒だった。ユウリと共に歩きたかった。
だから婚約者になってほしいとずっと願っていたのだ。
「だけど、私が傍にいると、フィン様の渦はどんどん大きくなるばかりで」
「私のことはどうでもいい。しかも苦労しているのはユウリの方だろう」
「……あなたは視野が広いのに、自分のことになると、見えなくなってしまうから」
彼女は寂しそうに微笑んだ。フィンは何も言えなくなってしまう。
彼女は1ヶ月後、王宮の指南役を辞職し、旅に出ることになった。
両親から王宮を辞職するよう頼まれていたこと、次の指南役を見つけていたこと、旅の準備を着々と進めていたこと。
全てを知ったのはユウリがいなくなってからだった。彼女はフィンに全てを隠し、彼の傍を去った。
いつもより広い執務室で、フィンは今日も机に向かう。
がらんどうの部屋と、走らせるペンの音。まばたきをすると、ぽたりと机に雫が落ちた。
そこで初めて、自分の頰が濡れていることに気づいた。
彼は首を傾げ、袖で乱暴に拭く。なぜ心臓がキリキリと痛むのかが分からなかった。
フィンはペンを走らせる。月明かりだけが彼の背中を見つめていた。





