2.主人のいない屋敷
「つきましたよ」
エリーの声かけに小さく頷き、馬車を下りた。
黒の鉄でできた大きな門の奥に、こぢんまりとした屋敷があった。ヴィルキャスト家の5分の1くらいの大きさだ。
門の前ではメイドと執事、合わせて3人並んでおり、ララの姿を見ると深々と頭を下げた。
「ようこそ、いらっしゃいました。ララ様。
私は執事長をしております、セバストフと申します。セバスと呼んでいただければ」
執事が穏やかに微笑む。歳は50代くらいだろうか、白髪が混じった髪の毛を丁寧に撫で付けている。
そして隣にいるメイドをそれぞれ紹介してくれた。
「こちらがリーネ、こちらがマニカです」
リーネと紹介されたメイドは、キャメル色の髪をきっちりとまとめており、隙を感じさせない雰囲気を醸し出していた。
反対にマニカは、幼さが残る顔立ちをしていた。くせっ毛なのかもしれない、肩より少し上あたりまで伸びたアイボリー色の髪の毛は、緩やかなカーブを描いていた。
ララは慌てて、スカートの裾を軽く持ち上げて名乗る。街へ下った時に見たメアリの真似だ。
「ララ・ヴィルキャストです」
ちらりとセバスを見ると、穏やかな笑みは特に変わっていない。ララはほっとして胸を撫でおろす。
「ロイ様はどこだろう」と目線を動かすと、彼は申し訳なさそうな口調で詫びた。
「ララ様、申し訳ございません。主人のロイは不在にしておりまして……」
「そう、なんですね、」
「……はい。今朝、町の近くで魔獣が出たと報せを受けまして。ララ様をお迎えできず、申し訳ございません」
再び深々と頭を下げるセバスに、ララの方が慌ててしまう。
自分は水の浄化魔法も使えず、人質としても価値がない。トゥルムフート家側から見れば大金をはたいて、ただの小娘を買っただけだ。その事情を知っているため、ララの方が申し訳なさを感じてしまう。
彼は顔を上げて、屋敷の方を指し示した。無駄な動きが何1つない洗練された動きだ。
「ご自宅のように、ゆるりとお過ごしください。何かあれば、私かメイドにお申し付けください」
「はい、ありがとう、ございます」
人と普通に喋ることが久しぶりすぎて、スムーズに言葉が出てこない。
しかし彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだ。この顔がいずれ侮蔑の表情を浮かべるのだろうかと思うと、ララの胸が酷く軋んだ。
玄関の先には、広いロビーがあり、2階へ繋がる階段があった。
ロビーには絵画が1枚しか飾られておらず、調度品もほとんどなかった。商人が来るたびに、調度品が増えていくヴィルキャスト家とは大きな違いだ。
階段をのぼって、2階にある1室でリーネは足を止めた。
「こちらがララ様のお部屋です」
扉を開くと、派手さはないが、落ち着いた色でまとめられた家具が並んでいた。
そのどれもが最高級の質感を放ち、ララは部屋に入ることさえ躊躇われた。
なかなか入らない彼女を見て、彼女は慌てたように付け加える。
「ララ様、お気に召しませんでしたでしょうか?」
「え、あ」
「ご自宅と比べると、狭いでしょうか?」
「ち、違います。大丈夫です」
勇気を出して部屋に踏み入れると、まず絨毯の柔らかさに驚いた。
「ふわふわですね……」
思わず声に出すと、後ろにいたリーネとエリーがきょとんとした表情を浮かべ、2人ともくすくすと笑う。
顔から火が出そうなくらい顔が熱くて、両手で頬を包む。ララは恥ずかしさで、彼女たちが優しい目で自分を見つめていることには気づかなかった。
もう声に出すのはやめようと決意したのだが、次はソファーの座りごごちに表情が緩んでしまった。
また彼女たちにくすくすと笑われてしまう。居たたまれなくなって、ララはうつむいた。
リーネは持ってきたドレスをクローゼットにしまってくれた。「かわいそうなお姉さまに差し上げます」と言われてもらった、メアリのお下がりのドレスだ。
全てしまうと、丁寧にお辞儀をし、部屋を出た。
エリーと2人きりになり、屋敷に入ってから思っていた疑問を、ララはおずおずと口に出した。
「エリーはいつ、帰るの……?」
「私は帰りませんよ」
「え」と間抜けな声が出てしまう。
好んで自分に仕えたいと思うメイドなどいるわけがない。そう思い、ララは尋ねる。
「まさかお父様に命令されて……?」
「特に命じられていません。帰ってこいとも言われていません。つまり私が決めても良いと判断しました」
おそらく命じなかったのは、言われなくてもヴィルキャスト家に帰ってくるだろうと確信していたからだ。
黙りこむララに、エリーは目を少しだけ細める。そんな彼女を見て、ララの気持ちが安らいだが、すぐに「ここに残ってはダメだ」と思い直した。
ララはいずれ人質となる身である。
ヴィルキャスト家に騙されたと分かったら、トゥルムフート家も黙ってはいないだろう。自分に仕えているメイドも無事ではないはずだ。
しかしエリーはおそらく何も聞かされていないだろう。詳しく説明したとしても、知ったことによって、より危険な状況になってしまうかもしれない。できれば何も知らずに、ヴィルキャスト家に帰ってほしい。
「エリー、異国の地で働くのは、きっと大変なことだと、思うの。だから帰った方が、」
「ご心配には及びません」
「でも、危険かもしれないし、それに、」
言い淀むが、次に続く言葉が思いつかない。短い間でもよくしてくれたメイドが、自分のせいで、痛い思いをしたり、苦しい生活を強いられるのは嫌だった。しかしララには、彼女を帰す手段が何も浮かばなかった。
目を泳がせる彼女の前で、エリーは跪いた。そしてソファーに座るララの手をとった。
「私は護身術を嗜んでおります。何かあればララ様を守れますし、自力で逃げることもできます」
「そ、そうなんだ……それなら、」
ララはこくりと頷くと、エリーは今日一番の笑顔を見せてくれた。
そんな彼女に、ララは小さくお願いをする。
「もし、もしね、私が危険な目にあったら、エリー1人だけでも、逃げてね」
「いえ、私はララ様のメイドで……」
「お願い」
ララの青い瞳は、泣きそうになっていたが、強い意志を持っていた。
エリーは何も言えず、こくりと小さく頷く。それを見て、ララは安堵の笑みを浮かべた。
エリーが自身の部屋に戻り、ララはしばらくソファーに座って窓の外を眺めていた。
ボロ小屋と違い、すきま風などは一切入ってこない部屋。心地よすぎて、うつらうつらとしていると、ノックの音が聞こえて慌てて姿勢を正した。「はい」と答えると扉が開き、そこには人懐っこい笑顔を浮かべたマニカがいた。
「ララ様、長旅でお疲れでしょう。お風呂などいかがでしょうか」
「は、はい」
「では、ご案内しますね」
ソファーから立ち上がり、マニカの後を追った。
平静を装っているが、ララの頭の中は混乱していた。お風呂など何年ぶりだろうか。母が生きていた頃に入った記憶しかないので、少なくとも10年は経っている。ボロ小屋に住んでいた頃は、泉で汲んだ水で体を清めていた。お湯にする術がなかったため、冬はガタガタ体を震わせながら水をかけていた。
マナーがなっていないと思われたらどうしよう、などと考えていると、いつの間にか到着していた。
マニカはララの方に向き合うと、にっこりと笑った。
「では、こちらでお手伝いさせていただきます」
「え?! あ、あの、1人で、大丈夫です」
まさか手伝われるとは思わなくて、言葉がうわずってしまう。
マニカは目をぱちくりと瞬くと、「ドレスをお一人で脱ぐことは難しいですし……」と返されてしまう。確かに1人では脱げないと判断したララは、顔から首までを真っ赤にして言った。
「ドレスを、脱がすのだけ、手伝ってください……」
「御髪などを洗うのも……」
「大丈夫です、あの、本当に、お願いします」
ララの懇願に、マニカは少しの間を置いて「わかりました!」と元気よく答えた。
他人に体を見られるのは酷く恥ずかしい。身動き1つできないララに対して、マニカはドレスに手をかけた。
手際よく脱がせていったが、時々マニカの手が止まることがあった。しかし緊張で固まっているララは、彼女の手つきなどには全く気づかない。
マニカは緊張をほぐすように声をかける。
「お風呂に入れる機会は中々ないので、ゆっくりあったまってくださいね」
「そ、そうなんですか」
「はい。近くの川は、魔獣の汚れがまだ酷くて。ここまで大量にきれいな水を集めるのは大変なんです」
ララが子供の頃は、毎日とまでは言わないが頻繁にお風呂に入っていた。水質の違いで、暮らしにもこんなに影響が出るなどと考えもしなかった。
「そう、なんですね」と相槌を打つと、マニカははしゃいだ声で言う。
「でも今回はララ様がいらっしゃるので、ご主人様が特別に用意してくれたんですよ!」
「あ、これは内緒ですよ」と子供のように言うマニカに、ララの胸は痛んだ。
トゥルムフート家は、水魔法の能力の代わりに結納金を用意したのだ。相手に礼を尽くす必要はないはずなのに、貴重な水を用意してくれたのだ。
魔法力もない、人質としての価値もない自分。相手の誠意に自分は答えられない。その事実がララの心を抉った。
はらり、と最後の布を取られ、大判のタオルを巻かれる。
「では、上がったらこちらのベルでお知らせください」と言われ、マニカは脱衣所から出ていった。
湯気が満ちた部屋に、そっと入る。
温かい部屋に入ったはずなのに、ララの心は冷たく沈んだままだった。
1人分の浴槽に満ちたお湯に触れる。
これだけのお湯を集めるのに、どれだけの労力がかかっているのだろう。
どれだけの期待を込めて、自分を迎えたのだろう。
そう考えると、ララの体は身動きがとれなくなってしまった。
ふと、ぽたりと風呂の水面に、雫が落ちた。
声が漏れないように唇を嚙むと、血の味が口内に広がる。
何も持っていない自分が情けなくて、申し訳なくて、涙が止まらなかった。
「ララ様?!」
突然後ろから声をかけられ、ララは驚いて振り向いた。
そこには着替えのバスローブを持ったマニカが立ちすくんでいた。
「あ、あの」と声にならない言葉を発する前に、彼女はずんずんとララに近づいてくる。
「大丈夫ですか?! あぁ、体もこんなに冷え切って……何かありましたか?!」
「ち、違うんです、その
……もったいなくて」
ララが消えてしまいそうな声で呟く。目を大きく見開くマニカ。
重い沈黙が少しの間、お風呂場を包む。先に口を開いたのはマニカだった。
「ララ様、失礼します!」
「え? ひゃあっ!」
軽々とララの体は持ち上げられ、ゆっくりと湯船におろされた。
冷え切った体にじんわりと、お湯の温かさが彼女の体を包んでいく。
ララの頭側の方に、マニカは椅子を運んできた。そして浴槽の淵のところに折りたたんだタオルを置くと、後頭部をタオルの上に委ねるよう指示される。素直に従うと、マニカは小さな器でお湯をすくい、ララの髪の毛にお湯をかけた。
「熱かったら言ってくださいね」
優しく、しかし有無を言わせない笑顔で、マニカはララの髪の毛を洗っていく。
丁寧にマッサージをするように洗われ、ララは思わず瞳を閉じた。するとマニカは、独り言のように呟く。
「もったいないとか、感じなくていいんですよ。ご主人様が、ララ様を喜ばせたくてやったことなんです」
(私の、ために)
母親に頭を撫でられた記憶が蘇る。
あの記憶以降、自分の存在は邪魔者のようにしか扱われなかった。
しかし、ここの人は自分のために貴重な水を使い、自分のために髪を洗ってくれている。
それが、とんでもない奇跡のように感じた。
「ありがとう、ございます」
嗚咽に混じった声で、感謝を呟く。目から大粒の涙がどんどん溢れていたが、マニカは気づかないフリをしてくれた。
風呂上がり、遠慮するララを押し切り、体を丁寧に拭いてくれた。今は鏡の前で椅子に座り、長い時間をかけてクシで梳かしてくれている。自分のために尽くしてもらえることが、申し訳なさと同時に、くすぐったい心地もした。
梳かす手を止め、マニカは問う。
「ララ様、香油などはありますか?」
「あ、な、ないです」
正直に答えて、膝の上を見ると、ボロボロの指が見えた。
貴族なのに香油も持っていない、髪の毛も酷く傷んでいる。おそらくマニカは違和感を抱いているに違いない。
先ほどまでの心地よさが、急降下した。家族からされた仕打ちは、呪いのようにララを追い詰める。
「今度、街で買いましょうね」
優しい口調で言うマニカに、首だけを縦に振った。自然乾燥で十分に乾くくらい、しっかりと髪の水気をとった後、マニカは夕食を提案した。
しかしララは、体調不良を理由に断る。身体的にも精神的にも、激しく消耗しており、食事が取れる自信がなかったため嘘ではない。さらに3日に1度しか食べないこともザラにあったため、そこまでお腹が空いていなかった。
部屋に戻ると、ベッドにおずおずと入る。ふかふかとした感触に、何度も触ってしまう。ボロ小屋の薄いシーツとは天と地の差だ。
ベッドに潜ると、日中の疲れが襲ってくる。まぶたが重くなり、そのまま泥のように眠ってしまった。