19.ウイスキーの氷
ロイ目線です。
(疲れたな……)
ロイは執務室の椅子にもたれかかりながら、息を大きく吐いた。
20年前と比べて発展したとはいえ、国としてはまだまだ問題が山積みである。さらに3ヶ月後に迫った結婚式の準備も重なってしまった。
ララには授業に集中してほしいため、来賓国の把握や、料理の内容などはすべてロイが担っていた。ある程度はフィンが進めていてくれたため負担は少ないが、細かい部分などの修正は必要だった。
「結婚式か……」
呟くが、実感はまだ湧いていない。
まさか自分が結婚式を挙げることになるなど、想像もつかなかった。
王太子という立場から縁談話は何度もあがったが、国の改革に追われ余裕がまるでなかった。
自身のことより国の情勢や民の生活の方がよっぽど重要だったし、何より恋愛を楽しみたいなど微塵も思わなかった。それは王太子をおりてからも一緒だった。
「行き遅れ」と他国から呼ばれていたのも知っていたが、わざと放っておいたのはそのためだ。
そんな自分が「結婚する」なんて言ったので、驚かれたのは当然の反応だろう。
フィンは特に喜んでくれたが、「民のため」と言ったら、呆れたような目線を向けられた。
気持ちは分かるが、自分の意志は変わらなかった。感染症を抑えるためなら、いくらでも国の駒になろう。
相手に不足ない生活を送ってもらうよう配慮はするが、愛の要素は少しも含まれていなかった。含まれていなかった、はずなのに。
ララの姿を思い出す。
ララとは朝食でしか会えていなかったが、目を見張るほどの成長を遂げていた。
見た目の部分だけではなく、中身まで驚くべき変化があった。
まず所作が美しくなった。礼の仕方や食事なども、教育を受けた他の令嬢と遜色ないほどだ。
自信なさげな口調は未だに残っているが、自分の意見をまとめ、口に出すことが増えた。自分の仕事の話をすれば、打てば響く受け答えをしてくれる。
3ヶ月とは思えない変化に、ユウリから話を聞くと「夜遅くまで復習しているそうですよ」と微笑まれた。
夜遅くまで勉強をしているとなると、体を壊したりしないだろうかと一瞬不安がよぎる。しかし日頃のララを見ていると疲れなどは、ほとんど見えなかった。もしかすると好奇心が強く、あまり苦にならないのかもしれない。
婚約者が良い変化を遂げているのは喜ばしいが、ロイの胸には一抹の寂しさがあった。
自分は仕事で忙しく、彼女は知識やマナーの吸収に奮闘している。朝食以外で顔を合わせない日も多い。
グラスの氷が溶けて、カランと鳴る。
そこで控えめなノックの音が耳に届いた。
メイドや執事とも違う音に、ロイは首をかしげる。すると「……ララです」と声が聞こえてきて、心臓が飛び出そうになった。幻聴が聴こえたのか?と思いながら椅子から立ち上がり扉を開くと、上目遣いで自分を見つめるララがいた。
「どうしたんだい?」
「あ、あの、旦那様と、話がしたくて」
おずおずと答えられ、心臓が痛いほど締め付けられた。
お風呂に入った後なのだろうか。髪はしっとりと濡れていて、頰はうっすらと赤みを帯びている。
そして美しい瞳が、自分をまっすぐに見据えていた。
ドクドクと鳴る心臓を押さえながら、優しく部屋の中に導く。
「どうぞ」
会釈して、彼女は部屋へと踏み入れた。
来客用のソファーに座るよう勧めると、素直に腰かけた。ベルを鳴らすと驚くべき速さでマニカが来た。「飲み物を」と言えば、にっこりと深い笑みを浮かべて頷く。相変わらず何かを期待するような腹立つ表情をずっと浮かべていた。
マニカが部屋を出たところで、ララに向き合った。
「勉強の方はどうだい?」
「あ、はい……! 毎日とても楽しいです」
目を輝かせるララ。初めて見た表情に驚く。
授業やマナー指導を渋々受ける貴族も多い中、彼女は全く苦になっていないようだ。
「ただ知らないことばかりで大変だろう」
「はい、恥ずかしながら……」
しまったとロイは後悔する。
労わるつもりで言ったのだが、何も知らない令嬢と皮肉に捉えられてしまったかもしれない。慌てて話題を変える。
「ユウリも勉強熱心だと褒めていた」
「嬉しいです」
頰を染めながら微笑むララ。そこでノックの音が聞こえ、飲み物を持ったマニカが入ってきた。
お互いの前に紅茶を置き、そそくさと部屋を出て行く。あの様子だとリーネに小言を言われたのかもしれない。
紅茶を一口飲み、「本題なんだが」と切り出す。
「何か話があったのかい?」
「あ、いえ……特に何かあったわけではなく」
バツの悪そうな表情を浮かべるララ。
表情の意味が分からず首を傾げると、「何もないのに来てすみません……」と謝罪された。またもや誤解させてしまったらしい。
焦る気持ちのまま答えると、本音がぽろりと出てしまった。
「いつでも来ていいんだ、むしろ来てくれて嬉しい」
「ありがとうございます」
自分の言葉に、紅を差したように頰を赤くさせた。
白い肌が色づいていく様子は、とてもいじらしかった。頰の横に垂れた髪の毛が、一房揺れる。
普段は下ろしている髪は、風呂上がりだからかゆったりとまとめられていた。いつもとは違う雰囲気に胸が騒ぐ。
(触れたい)
急に湧き上がった感情に驚く。
誰かに対して、こんな欲求を抱くのは初めてだった。
喉が乾くような心地がする。紅茶を飲んだが、渇きは収まらなかった。
急に触れれば驚かせてしまうだろう。
婚約者とはいえ、触れ合いなどほとんどしてこなかったのだから。
彼女の頭を撫でたことはあったが、触れ合いというよりは、親戚の子供にする愛情表現のようなものだった。
しかし今、自分の中に渦巻く感情は、そんなお行儀の良い感情ではないと分かっていた。
深く思案する自分に、ララがためらうような目線を向けてくる。
同時にしっとりと濡れた髪の毛が目に入り、気づいたらある提案を口に出していた。
「髪を乾かそうか」
きょとんとするララ。
一方で自分は心の中で頭を抱えた。
自分で言ったはずなのに、自分が発した言葉の意味がわからない。
「触れたい」と直接も言えず、しかし触れたい欲求も我慢できず、これでは臆病で情けない男だ。
ララは何度か長いまつ毛を瞬かせたあと、「お願いします……?」と疑問系で答えた。
どうやって髪を乾かすのかよく分かっていない顔だ。ロイは冷静に説明する。
「弱めの火魔法と風魔法を使って乾かす」
「……! 旦那様は2つの属性が操れるのですか」
「あとは土魔法が使えるから、3つの属性かな」
「すごい……!」子供のようにはしゃぐララ。両手の指先を合わせて、きらきらとした瞳で見つめてくる。
純粋な瞳に、心が痛む。純真な彼女に、自分の中にうごめく感情をぶつけようとしている。
「こちらへ」と自分の隣をポンポンと叩くと、ララは恥ずかしそうに口元を結んだ。そこでようやく近い距離で髪を乾かすことを察したらしい。「失礼します……」とおそるおそる自分の隣に座った。シャンプーの香りがふわりと漂い、ぞくりと背中が震えるのが分かった。
上半身だけひねるようにして、ララの後頭部を眺める。小さな頭、つむじ、そして露わになった首元。
細く白く、すらりとした首筋。ごくりと喉が鳴ってしまう。
自分で提案したはずなのに、拷問を受けているような気分になってきた。
彼女の髪を縛っていた紐を丁寧に外す。グレーの髪がほどかれ、先ほどより強くシャンプーの香りが鼻腔に届いた。
心臓がいちいちうるさい。
髪の毛は自然乾燥で十分なほど水気がとれていた。指先が若干湿る程度である。
右手に魔力を集中させると、弱めの温風が放たれた。風に合わせてグレーの髪の毛が踊る。
「……3属性を持つ人は珍しいと聞きました」
「確かにあまりいないな」
「フィン様は違うのでしょうか?」
「あいつは火と風の2属性だな。その代わり魔力量が多い」
他愛のない話をしながら髪を乾かしていく。
魔力についても授業を受けたことがあるのか、ララの声は好奇心で包まれている。
「土魔法というのはどのようなものなんですか?」
「そうだな……家の補修に使ったり、魔獣の足止めなんかでも使えるな。中々使い勝手がいい」
「羨ましいです」
「聖魔法を操る人が何を言ってる」
からかうと、ララの小さな笑い声が聞こえた。
少しの沈黙のあと、ワントーン声を低めてララは言った。
「私の義理の妹や弟は、火と水の2属性操れたので……何も持たなかった自分が情けなかったんです」
「火と水……中々珍しい組み合わせだな」
「はい、義理の母が火魔法だったので」
火と水は相反する属性であり、お互いに打ち消しあってしまうため、相性が悪い。
1属性操る者と比べて、魔法力の効果が弱くなる可能性が高い。しかし義理の妹は王国内の川の浄化を担っていると聞いていた。ものすごく大きな魔法力を持っているのか、それとも……思考の海に沈みながら、目の前の女性を見る。
そこからはしばらく無言で髪の毛を乾かし続けた。
時折香るシャンプーの香りや、髪の間から覗くうなじ、胸が高鳴るのを抑えながら乾かす。
ほとんど湿り気がなくなった頃、ララはぽつりと言った。
「あの、旦那様」
「ん?」
尋ねるように相槌を打つが、言葉は返ってこない。
見ると体を小さく揺らしており、言いたくても言えない雰囲気を漂わせていた。
こんな時はひたすら待つに限ると判断し、乾かす手を止める。何秒かの沈黙の後、ララは小さく言った。
「私、旦那様のお嫁さんになれて、本当に幸せです」
「それを伝えたくて……」最後の方は消え入りそうな声で言った。見るとララの耳が真っ赤に染まっている。
彼女の言葉が理解できると、胸の中だけで渦巻いていた熱が、全身にまで広がっていくのを感じた。
密室の空間で2人きり、無防備な姿で自分の前に座っている。そして自分と結婚できて嬉しいという言葉。
今置かれた状況を再認識すると、目眩がするようだった。
全身の血が暴れており、心臓が脈打つ音が伝わってくる。
(触れ、たい)
髪を乾かす前より、もっと強く、もっと激しく願ってしまった。
さらりと艶めいた髪の毛、シャンプーの香り、華奢な体、嚙みつけそうな白い首筋、真っ赤に染まった耳。
ララを形成する一つ一つの要素が、自分の五感に訴え、良くない熱を生み出していた。
「だんな、さま?」
急に黙ってしまった自分を不安そうに呼ぶ声。振り向きざまに見えたブルーの瞳のきらめきを見て、自分の中にあった熱が爆発するのを感じた。
気づいたらララの唇を激しく奪っていた。
驚きで固まる彼女。一瞬のような永遠のような時間のあと、唇を離した。
ブルーの瞳が見開き、そのあと顔から耳にかけて、真っ赤に染まる。そんな彼女の姿に、胸が強く締め付けられる。
「急に、すまない」
「い、いえ、びっくりした、だけで……」
しどろもどろで答える彼女が可愛らしい。
さらに胸が締めつけられるのを感じながら、自分は立ちあがった。
「もう、寝よう」
瞳を見つめながら言えば、彼女はこくりと小さく頷いた。
これ以上、一緒にいたら、歯止めが効かなくなってしまいそうだった。
部屋まで送ると、彼女はおずおずと上目遣いで見つめてきた。
衝動的な気持ちを抑えながら、ララの額に小さくキスを送る。
「おやすみ」
彼女は突然のことに呆然とし、その後じわりと顔を赤くさせた。
名残惜しい気持ちを抱えながら、彼女を見送り、自分は執務室へと戻った。