18.王太子じゃなくなった理由 後編
ロイはまず父の国王と共に、防衛力の強化に奮闘した。
港町があるトゥルムフート王国は狙われる可能性が高かったからだ。騎士団は元々あったが、あまりにも弱かった。そのため過去の戦争の記録を参考にしたり、他国のノウハウを取り入れた。また貴族の子息のみで構成されていたが、力さえあれば平民からでも騎士団に入隊できると謳った。そうして20年かけて諸外国が恐れる精鋭たちに育て上げた。
次はオレンジ以外にも名産を増やそうとし、水産物に目をつけた。
水産物はほとんど自国で食べるだけだったが、他国に大量に輸出するようにした。
獲れたての魚は評判がよく、あっという間に買い付け依頼が殺到した。「豊漁祭」ができたのもその頃だ。
祭りに来た人は港町のホテルに宿泊し、魚以外にも貴金属や果物を購入する。他国から集まり賑わうことで、水産以外の部分でも発展するようになった。
「他にも色々やっていたね。あの頃の兄様はほとんど寝てなかったんじゃないかな」
「すごいですね……」
「本当にね。執念さえ感じるよ。
……自分は第二夫人である母から生まれたけど、小さい頃からそんな兄様を見てたから、王太子にのし上がりたいなんて微塵も考えられなかった」
15歳という少年と青年の狭間にいた頃から、民のため、国のためと奮闘していたのだ。
そんな彼の姿をまざまざと見せつけられたら、敵わないと思うのは仕方ないのかもしれない。
そこでフィンのトーンが低くなる。
「兄様が少しずつおかしくなっていったのは、8年前だった」
「おかしく……?」
「うん。兄様の母君が亡くなった頃から、兄様は少しずつ壊れていった」
血の気がひいていくのが分かった。
優しく、穏やかなロイの姿。様々な知識を持っており、民からも愛されている。
そんな彼が壊れていったこと、そして母の死。他人事とは到底思えなかった。
「毎日濃い隈をつくっているのに、狂ったように仕事をしていた。「休んでくれ」と自分や臣下が言っても、少しも聞いてくれなくてね」
「……はい」
「そして精神より先に、肉体に限界が来た」
窓の外に視線を向けるフィン。
何か苦いものを無理やり飲み込んだような、苦しそうな表情を浮かべる。
「兄様は1ヶ月くらい寝たきりの状態だった。メイドや執事を問い詰めたら、ほとんど食事もとらず、眠れてもいなかったらしい」
窓の外から、自身の膝に目線を移す。
うつむいているので表情は分からない。
「悔しかったよ。そんなになるまで、彼は誰にも甘えなかった……私にも」
フィンの言葉は後悔で滲んでいた。
聞いている側の胸が締め付けられるような、そんな声色だった。
「兄様が眠っている間、私が業務を引き継いだ。同時に」
「はい」
「自分を王太子にするよう、父に懇願した」
第二夫人の子供である自分が王太子になること。一部の貴族からはもちろん反発があった。
だが大部分が賛同してくれた。彼らはみな恐れていたのだ。
真っ直ぐで、情熱的で、誠実なロイが、どんどん亡者のようになっていく姿を。
辛かったのはフィンだけじゃない。父も、第二夫人である母も、貴族たちも同じだった。
「兄様はみんなから愛されてたんだ」
フィンは独り言のように呟く。ララは様々な感情が交錯して、言葉が出なくなってしまった。
「起き上がった兄様に全て話したよ。
王太子を続けたいと言われたら……嫌われてもいい、絶対に止めようと決意してね」
独白のようなつぶやきは続く。
「でも兄様は言ったんだ。『よろしく頼む』と。
……これが兄様が王太子じゃなくなった理由だよ」
フィンは気持ちを切り替えるように明るく言う。
まだ口調には寂しさのようなものが滲んでいた。
呼吸がうまくできない。意識しないと空気がどんどん体から抜けていくようだ。思わず胸を押さえる。
15年以上、民を導くプレッシャーはどれほどのものだったのだろう。
心の拠り所だったであろう母親が亡くなっても、弱みが吐けないのはどれほど辛かっただろう。
ロイの痛みが、想像すらできない。
「良くも悪くも真っ直ぐな人だったからね。縁談とかも断り続けてみたい。
ついに嫁をとるって言うから喜んでたけど、実際は『民の感染症を治すため』って理由だったし」
呆れたように言うが、目は優しいままだった。
色素の薄い前髪の向こう側から、グリーンの瞳が見つめてくる。ララは静かに見つめ返した。
「兄様を騙してやってきたって聞いた時は、怒りでどうにかなりそうだった……」
「……すみません」
「でも今は、来てくれてよかったと思ってる」
(この人は)
(本当に旦那様が好きなんだ……)
ララはフィンの表情を見て確信する。
「第二夫人の息子」
様々な人の思惑に囲まれて生きてきたのだろう。血なまぐさい争いに巻き込まれてもおかしくない立場だ。
それでも「王太子になりたいと微塵も思わなかった」と彼は言った。
誰よりも近くで、長い時間、ロイを見てきた彼だからこそ吐露できた言葉。若いながらも国を導いていくロイは輝かしく、憧れのようなものがあったのかもしれない。
そんな彼が母親を亡くし、少しずつ壊れていく姿を見るのは、どれほど苦しかったのだろう。
形が違えど、2人の男の苦悩が静かに居座っている。おそらく今も。
言葉にできない悲愁に打たれて、胸の内側がキリリと痛んだ。
「君を最初見たときは自信なさげだし、細すぎるし、どうなるかと思ったんだけどね」
フィンは歯に衣着せずに言った。ロイがいたら「少し黙ってろ」と睨みつけただろう。
ララは曖昧な笑みを返した。
「でも」
「?」
「……いや、これ以上言ったら野暮だな」
口元に人差し指をあてながら、ニヤリと笑う。イタズラを考える子供のような笑みだった。
「そろそろ行くよ」とフィンは立ち上がる。
門まで送ろうとララも立ち上がると、彼は楽しそうな笑みを浮かべたまま言った。
「気をつけてね」
「え?」
「さっき言った通り、兄様は一つのことに集中しすぎる。執念さえ感じるくらい」
何を忠告されたのか分からず困惑していると、彼の意味深な笑みが一層深くなった。
「執着する対象が国から、1人に絞られたらどうなるのか。私でも分からないからね」
♦︎
外に出ると、空がオレンジ色に染まっていて驚いた。
昼過ぎにとっていた休憩だったが、すっかり話し込んでしまったらしい。
門の前には馬車が停まっており、道に長い影をつくっていた。
「本日はありがとうございました」
フィンに向き合い、お礼を述べ、深々と頭を下げた。
「サマになってきたね」と褒められて、胸を撫でおろす。ユウリの教育の賜物だった。
そういえば、と自分はふと思い出す。
ユウリは時間が経っても部屋に戻ってこなかった。フィンに頼まれていたのかもしれない。
思考を巡らせていると、彼の声が聞こえた。
「教育係は素晴らしいだろう?」
「はい……!」
頭をあげると、彼の表情に息を飲んだ。
うつくしいものを見るような、瞳のまたたき。王太子ではなく、ただ1人の青年の表情。
ユウリの完璧な微笑みを思い出す。そして何故か隣にはフィンの姿があった。
何か秘密の空間を覗き見してしまったような、そんな決まりの悪さが生まれる。
目を泳がせていると、フィンは「ふ」と笑いをこぼした。相変わらずロイとそっくりだった。
「じゃあね」踵を返して彼は馬車に乗り込む。従者の声で馬車は動き出した。
馬車が見えなくなると、ふと「寂しそうにしてたよ」とフィンの言葉を思い出した。
今日の夜、帰ってきたら少しお話ししようか。授業で習った内容でも何でもいい、ロイと話がしたかった。
「寂しいと思っていたのは、私だけじゃなかった……」
小さく呟く。
忙しいと思って、遠慮していた。自分なんかに時間を割いてもらうのは申し訳がないと思っていた。
だけどそうではなかった。それが心の底から嬉しい。
満ちあふれる幸福に、顔が緩むのを抑えながら、ララは屋敷の中へと戻っていった。
♦︎
「先ほど旦那様が帰ってきたそうです」
ララの髪の毛を拭きながらマニカは言った。
授業のあと、晩御飯を食べたり、復習をしたりしていたが、ロイは中々帰ってこなかった。
メイドに勧められて風呂に入ったが、ようやく屋敷の主人が帰ってきたらしい。
こんな遅い時間まで大丈夫だっただろうか、ララの胸に不安が渦巻く。
日中に聞いたフィンの話を思い出して、さらに渦が大きくなった。
「今日はもうお疲れでしょうし、明日以降またお話ししてみます」
「大丈夫ですよ! むしろ疲れてるからこそ行くべきです!」
マニカは目をきらきらさせながら言った。
風呂に入る前に「旦那様と会いたい」と希望した時から、彼女はずっとこの表情だ。首を傾げながらも「疲れているでしょうし……」と呟くと、「大丈夫です!」とまた返された。
そこまで勧めるなら……と思い、こくりと頷くと、マニカは感動したように目をつぶってガッツポーズをした。
「ご主人様、私に感謝してくださいね」とよく分からないことを呟いている。
この時間、ロイは執務室にいるそうだ。
もしかしたらまだ仕事をしているのかもしれない。
マニカの教え通り、ララは執務室へと歩を進めた。