17.王太子じゃなくなった理由 前編
授業が始まり、3ヶ月経った。週に4回ユウリはやってくる。
王宮から大変ではないだろうか、聞いたことがあったが「大丈夫ですよ」と微笑まれただけだった。
3ヶ月、様々なことを学んだ。
トゥルムフート王国について学んだ後は、諸外国について。
自分が元々いたベルブロン王国が、かなりの大国で驚いた。土地もあり、魔法力の研究が進み、何よりきれいな水が供給できるベルブロン王国は、このあたりの国で最も繁栄している国らしい。
ヴィルキャスト家の屋敷の華やかな外観や、大量に飾られた調度品や絵画を思い出す。そして自分が住んでいたボロ小屋を同時に思い出してしまって、胸が軋んだ。
ユウリの祖母が住んでいたという東洋の国についても教えてくれた。
馬車で半年以上かかると聞いて驚く。ベルブロン王国からトゥルムフート王国まで2ヶ月かかった。用意された馬車も安物で、かなり揺れたため腰が痛くなった。あの旅路の倍以上の時間がかかるなんて……と絶句してしまう。
ただトゥルムフート王国と違った文化があり、四季がはっきりしているため折々の花が咲き誇るらしい。いずれ行ってみようと心の中で決意する。
他にも貴族マナーについて。
挨拶の仕方、微笑み方、お辞儀の仕方。食事マナーや言葉遣いなど、あらゆる部分で指導される。
昼食は部屋についているテラスで、マナー授業の一環でとっていた。
ユウリも共に昼食をとっており、ララは彼女の動きを見て何度も手が止まった。肉を切り分け、口元へ運び、細い喉が小さく上下する。所作ひとつひとつが洗練されており、目が釘付けになるような魅力があった。
授業があった日の夜や休みの日も、ララは復習に充てていた。
あらゆる知識に溺れるような毎日。自分の世界がどんどん広がっていく充足感と、まだ足りないのではという焦燥感。
不安に飲み込まれそうな時は、いつもフィンに言われた言葉を思い出していた。
「兄様の恥にならないように」
教養もマナーもない自分を娶り、大切にしてくれたロイ。
彼に少しでも恩返しがしたかった。彼のために頑張りたかった。
夜中に差し掛かる頃、ララは今日も机に向かって勉強していた。
体の気だるさを感じて、ペンを置き、ふと机に置かれたカップを見る。
エリーが淹れてくれたカモミールティーは、すでに湯気が出ていなかった。
一口飲むと案の定、冷めきっていたが、落ち着いた香りと彼女の優しさに胸が温かくなる。
疲労が少しだけ癒されるのを感じながら、ララは再びペンを握りしめた。
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「頑張っているみたいだね」
授業の休憩中、部屋に顔を出したのはフィンだった。
驚きで固まってしまい、無意識にフィンの後ろにいる人を探すが、どうやら1人で来たようだ。
ユウリは休憩時間になるとどこかへ行ってしまったため、2人きりになってしまう。
自分1人で彼の相手ができる自信がなく、声が思わず小さくなってしまった。
「フィン、さま」
「あぁ大丈夫だよ、そんなに緊張しなくて」
ユウリが座っていた席に座ると、にこにこと微笑んだ。
「一つ報告があるんだ」
ララは思わず身構えてしまう。
授業の打ち切り・婚約破棄……自分に自信がないララは悪い方向にばかり考えてしまう。
「君たちの結婚式、招待した国のほとんどが来てくれるそうだよ」
開いた口が塞がらなくなった。
王太子であるフィンが参加するとはいえ、主役は違う。元王太子であるロイと、王族でも何でもない自分の結婚だ。多忙に極める各国の来賓がほとんど参加するとはどういうことなのか。
「やっぱり私の予想通りだったね」
「な、なぜ」
「感染症で噂になっていた国が、急に復活の兆しを見せたら何事だとなるだろう?」
「兆し……?」
「あぁ」
そこでフィンは深々と頭を下げた。
今までの彼からは想像できない行動、そして王太子が自分に頭を下げているという事実。ララは叫ぶように言った。
「頭を上げてください! 私にそんなことをされる必要はありません……!」
「いや、ここ数年、民を苦しませていた感染症を抑え込んでくれたんだ。感謝している。
君が川で毎朝祈ってくれたおかげだ」
フィンのいう通り、授業が始まってからも、ララは屋敷裏にある庭の川へ忘れずに行っていた。
毎朝、川に祈りを捧げて、1日が始まる。
庭の川と、城下町近くの川は繋がっているとロイが言っていた。おそらく自分の浄化で、下流の川も綺麗になり、感染症を抑え込む結果になったのだろう。
「結婚式までに感染症が抑え込めるか、はっきり言って五分五分だった。想像以上の力に驚いているよ」
「あ、ありがとうございます……」
戸惑いながらも頭を下げる。
母との思い出を忘れないために、毎日の習慣だったから、川へ行った理由の中心は自分だった。
そんな理由で祈っていただけなので、感謝されると、嬉しいよりも居心地の悪さを感じてしまう。
城下町に住む人々が元気になればいいなと心の隅では思っていたが、ロイやフィンのような熱量はなかった。感染症が抑えられようが、流行しようが、ララにとっては正直ピンとこない事柄だった。
どうしても民を中心に考えられない理由を、ララははっきりと認識していた。
ベルブロン王国の民に、嘲笑われた過去。
「愛人の子供だ」「ヴィルキャスト家の穀潰しめ」あらゆる罵詈雑言を浴びせられた。
トゥルムフート王国に自分を蔑んでいた民はいない。それでも自分の意思で、民を中心にして考えることができなかった。ただロイが民を大切にしているから、自分も同じ気持ちでありたいと願っていただけだった。
「ちなみにベルブロン王国からも来る……君が住んでいた家、ヴィルキャスト家の人もね」
ララの息がひゅっと詰まった。
「君のことを見捨てた家だ……来ないと思っていたんだけど、何かあったのかもね」
意味深に呟くフィン。
両親、妹のメアリ、弟のヤニック。
10年以上いじめられていた。
ボロ小屋で最低限の食事しか与えられなかった。
最後にはトゥルムフート家をだますように、自分を嫁がせた。
あの家から離れられたと思ったのに、また会わなくてはいけない……
暗い顔をするララに、フィンは静かに言った。
「悩みがあるなら、兄様に言えばいい」
「……え?」
「最近話せていないだろう?」
指摘通りだった。
必ず顔を合わせるのは朝食くらいだった。昼食はマナー授業の一環でユウリととっていたし、夕食も時間が合わないことがあった。
城下町へも出かけていない。グリーンのドレスを購入してから、一度も街へは行けていなかった。共に忙しかったこともあるが、安全面を考慮し、結婚式前にあまり出かけないよう忠告されていたことも理由の一つだ。
「寂しそうにしてたよ……あ、これは秘密にしてね」
まったく秘密にする気がなさそうな口調に、ララはくすりと笑う。
ロイが自分に会えなくて寂しいと思ってくれていること。その事実に胸の内がゆったりと温かくなる。
先ほどまでの暗い感情が消えていくようだ。
フィンは人差し指を立てながら言った。
「今日来た理由はもう一つあってね」
「?」
「こないだ、聞きたいことが本当はあったんじゃないかな?」
「あ……」
「兄様がいないところでなら話せると思ってね」
ーーロイが王太子じゃなくなった理由。
ララの中では「聞かなくていい」と結論が出た疑問だったが、知りたくないと言えば嘘になる。
ただこの疑問をぶつければ失礼になる可能性もあった。一瞬逡巡する。
しかし自分に気を使って、わざわざ1人で出向いてくれたのだ。その親切心を無下にはしたくない、そう思ってララは口を開いた。
「旦那様は、なぜ王太子をおりたのですか……?」
「やっぱりその質問か」
フィンは椅子に座りなおした。
「どこから話そうかな……」と目線を空に彷徨わせる。
しばしの沈黙の後、彼は話し始めた。まるで幼い頃に聞いた悲しいお伽話を語るような口ぶりで。
「約30年前、トゥルムフート王国はこんなに発展した国じゃなかった」
「そう、なんですか」
「魔法力もない、兵力も少ない、民はみな貧しかったし、インフラも整っていなかった。有名なのはオレンジくらい」
城下町の光景を思い出す。
ベルブロン王国と比べると規模としては小さいかもしれない。だが広場の時計塔や、家の造り、ガス灯や道の整備、どこを見ても技術が劣っていると思ったことはなかった。
「そんな国で兄様が王太子として働きはじめたのは15歳の時だった」
「15歳……」
「15歳とは思えないくらい博識で、何より熱量がすごかった。若いからという理由でやっかみもあったみたいだけど、父の後ろ盾と『国を良くしたい』という情熱で、貴族たちを巻き込んで変革を起こしたんだ」