16.グリーンのドレス
王宮の教育が始まる前に、ドレスを買いに行こう
そう提案されたのは5日後のことだった。「買ってもらったものもありますし」と断ったが、ドレスが3着では圧倒的に足りないと断言されてしまった。賛同するようにメイドたちも口々に言う。
「一度着たドレスは着ないという令嬢もいるくらいですしね〜」
「マニカのは極端な例ですけどね」
マニカとリーネの言葉に、ララは苦笑を浮かべる。
まさに妹のメアリがそのタイプだった。街へ下るときにしか見たことがないが、彼女が着ているドレスは毎回新しいものだった。
「またイザベラの店で良いか?」
「はい……!」
ロイの提案に、ララの心は踊った。そんな彼女の表情を見て、「ふ」と笑みをこぼした。
穏やかな午後の昼下がり、馬車から降りて、空を眺める。
棉をちぎったような雲が、気持ち良さそうに浮かんでいた。
城下町へ来たのは、3週間ぶりである。
街の規模に対して開いている店の数は少ないが、前に来た時よりは活気が戻っていた。
店に到着すると、グレーのドレスに身を包んだイザベラが出迎えてくれた。
ララのドレスを見て「お似合いです」と微笑む。今日はイザベラの店で買った薄いブルーのドレスを着ていた。
褒められて、なんだかくすぐったい心地になりながらも頭を下げる。
試着室へ入ると、店の裏側から女性スタッフが現れた。てきぱきとサイズを測ったり、補正下着の着用を手伝ってくれる。
(お人形になったみたい……)
3週間前と同じ感想を心の中で漏らす。
ララの体のサイズが記載されている紙を見つめながら、イザベラは言った。
「ララ様、少し成長されましたね」
「ふ、太ったということでしょうか……」
「いえいえ、健康的になったということです。むしろララ様は、もう少し脂肪をつけた方がいいですよ」
イザベラの言葉に、鏡に映る自分を見つめる。来たばかりの頃は栄養が足りず、あばらには骨が浮いていたが、今はそこまで目立たない。
トゥルムフート家で食べる食事はどれも美味しく、だいぶ食べられるようになった。それでもメインディッシュまで完食するには、まだまだ胃の許容量が追いついていなかった。
健康のためにも、もう少し食べたほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら、自分の体つきを眺めていた。
そのあと好みのドレスについても聞かれたが、「お任せします」と答えた。イザベラは微笑んで、スタッフに指示をすると、何着かドレスが運ばれてきた。
10着ほどドレスを着終わった頃、着替え室の外からロイの声が聞こえてきた。
「入ってもいいかい?」
「は、はい、大丈夫です」
答えると、イザベラが着替え室のカーテンを開けてくれた。
そこにはドレスを抱えたロイの姿があった。
「これを着てくれないか」
突然の要望にとまどいながら、ロイが持っていたドレスを見る。
新緑を思わせるようなグリーンの生地に、小さな白い花が織られている。
ドレスを見て、イザベラは何かを察したのかニヤリと笑った。
「えぇ、えぇ、ぜひ着ましょう」
「は、はい」
なぜイザベラが嬉しそうなのか分からないまま、ロイが選んだドレスを着用した。
上半身はタイトだが、下半身はスカートを入れてふわりと大きく広がった。胸元はV字型になっており、生地に描かれた花と同じ色合いのレースで縁取りされていた。胸元の中心には、白い花の飾りが咲いている。
「お似合いです!」
「あ、ありがとうございます」
イザベラの率直な感想に、照れてながらも感謝を伝える。
着替え室のカーテンを開くと、どこか落ち着かない顔を浮かべたロイがいた。ララのドレス姿を見て固まっているロイに対し、上目遣いでおずおずと尋ねる。
「い、いかがでしょうか」
「……良いな」
一言しみじみと答えるロイ。
イザベラにも褒められたはずなのに、ロイに褒められた時だけ体温が急激に上がるのはなぜだろう。
耳が熱くなるのを感じながら、緩んでしまいそうな口元を必死で抑える。
そこで店に飾られた時計が目に入る。店に来てから、かなり時間が経ってしまったことに気づいた。
ララは慌てて頭を下げる。
「すみません、お待たせしてしまって……」
「いや、気にしなくていい」
「そうですよ! ご主人様、ずーーーっとララ様に着ていただくドレスを選んでいたので!」
そこで突然、マニカが呻いてうずくまった。隣には「野暮ですよ」と小さく呟いて目を伏せるリーネ。
「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫ですよ」
うずくまるマニカに声をかけたが、なぜかリーネがにっこりと答えた。
それ以上言えない雰囲気を感じて、口元を結ぶ。そしてマニカの言葉の意味が分かると、じわじわと喜びが胸の奥から湧き上がってきた。
(旦那様が、私のために選んでくれた……)
ちらりとロイを見ると、バツの悪そうな表情を浮かべている。
パッと目が合うと、グリーンの瞳が店のライトに照らされて輝いた。瞬間、ララは気づいてしまった。
自分が今着ているドレスが、ロイの瞳の色と同じということに
その事実に、湯気が出そうなくらい頭に熱が昇る。
先ほどまでは美しく清楚なドレスだった。だがララの中に、意味がもう一つ生まれてしまった。
ロイの色に染められている。
そう思うだけで、恥ずかしくてどうにかなりそうだ。
心臓が甘く締め付けられるのを感じる。
離れているはずなのに、ロイに抱きしめられているようでーー
「ララ?」
黙ってしまったララに、不思議そうな顔で見つめてくるロイ。
いま自分が考えていることが見透かされそうで、「き、着替えてきます!」と逃げるように試着室のカーテンを閉めた。ドクドクと鳴る心臓がうるさい。
そんなララを「あらあら」と片頬に手を当てながら、イザベラは楽しそうに笑っていた。
♦︎
次の日から、王宮の教育がはじまった。
余っていた部屋を、ララのために用意してくれたらしい。本棚には歴史書やマナー書などが収まり、壁には世界地図が貼られていた。テーブルの上にはノートやペンが用意されている。
ララは緊張でガチガチになりながら、王宮から来た教育係の人と対面していた。
「ユウリと申します」
にこりと笑うユウリ。歳は20代半ばくらいだろうか。
ファーストネームだけ名乗ったことに一抹の疑問がよぎったが、深く聞かずララも名乗った。
ユウリはあまり見たことがない容姿だった。
漆黒の髪は腰まで伸び、ふわりとウェーブがかかっている。瞳はアメジストのような光彩を放っていた。彫りは浅めで、輪郭も丸みを帯びている。どこか幼さも感じられる容姿だった。
しかし長いまつ毛が伏せられるたび、色香が漂う。小さな唇は赤く艶めいていて、そこから発せられる声は湧き水のように澄んでいる。
見た目と雰囲気のギャップが、彼女に揺るぎない魅力を与えていた。
「祖母が東洋の血筋でして」
ララの疑問に答えるようにユウリは笑う。
「いずれ東洋の話もしましょう。本日は我が国、トゥルムフート王国についてです」
手渡された書物を開く。
そこには王国の首都の情報、気候、産地など様々な情報が載っていた。
ララは8歳頃までしか教育を受けていなかった。他の学習機会は、メアリに街へ連れられた時に見よう見まねでマナーや単語を覚えた程度である。トゥルムフート家に来てからは、自分の部屋に本があったため、ひそかに勉強していた。
手渡された書物には分からない単語も多かったが、前後の文章から何となく読めそうだった。少しだけ胸を撫でおろす。
「まずは基礎的な部分を勉強しましょう」
ユウリが指定したページを開くと、トゥルムフート王国の地図が載っていた。
「トゥルムフート王国は比較的温暖な土地です。理由として、海から温暖な空気が入ってくることが挙げられます」
「海があるのですか……?」
「えぇ。ここから馬車で約1日、東へ向かうとありますよ」
海という単語に、ララの心は華やいだ。
幼い頃に絵本でしか見たことがないが、水がどこまでも満ちる場所だとは知っている。
「この水飲めばいいのに」と母に言ったら、「あまりにしょっぱくて飲めないのよ」と教えられた記憶があった。
「温暖な気候を生かしてオレンジが有名です。また海が近いので海産物とかですかね」
「魔獣の汚れなどは大丈夫なのですか?」
「生食はしないですね。しかし海は広いので、川や池などと比べると汚れはそこまで酷くありません。焼いて食べれば大丈夫です」
さらに秋になると「豊漁祭」が開かれるそうだ。
他国からも観光客が来るほど人気のお祭りらしい。特に海がない内陸の国からは評判が高いそうだ。
獲れたての魚が並ぶ光景、呼び込みの声が行き交う活気のある市場。見てみたいと思いノートにメモをした。
ユウリの説明は続く。
「この海水も生活用水として使っています」
「しょっぱくないんですか……?」
「もちろん、そのままでは飲めません。蒸留して真水を作り出します……が、時間がかかります。また水を運ぶ手間や時間を考えると、あまり効率的ではないですね。
そのため、近くにある川などの水を使う方が一般的です」
「ただ川は汚れが……」ぽつりと溢すと、ユウリは頷いた。
「はい。面積も狭く、魔獣が住む森と隣接している部分もありますからね。水魔法で浄化が間に合っていたのですが、3年くらい前から魔獣が活発化しはじめました。その頃から水の汚れが酷くなってきましたね」
「魔獣の活発化……」
「詳しい理由はいまだに分かりません。気候の変動か、繁殖期か、それとも複数の要因なのか」
「そう、なんですね」
「ただ騎士団がいるので、居住区に近づく魔獣は討伐してくれています。トゥルムフート王国の騎士団は精鋭ばかりと有名なんですよ」
ユウリは明るい声で言う。川の汚れの話で暗い顔をしたララを励ますような口調だった。
そのあともトゥルムフート王国にある川や森の特徴、産地などの説明が続く。
彼女の説明は分かりやすく、驚きに満ちていて、何時間でも聞きたいくらいだった。
次はどんな話だろうと目を輝かせると、彼女は少しだけ目を丸くし、微笑んだ。
「では次は気候についてーー」
ユウリの授業は夜が更けるまで続いた。
♦︎
「授業はどうだった?」
いつもより少し遅めの夕食。魚をナイフで切り分けながら、ロイは尋ねた。
顔には心配そうな色が浮かんでいる。ララは素直に答えた。
「とても楽しかったです」
「それなら良かった」
柔らかく笑うロイの顔に、胸が締め付けられる。
ユウリの授業は濃く、新鮮なことばかりで、あっという間に時間が過ぎていった。
今までボロ小屋と、トゥルムフート家の世界しか知らなかったララには、驚きに満ちた世界だった。
ララはナイフで切り分けていた魚を見つめる。この魚もトゥルムフート国で獲れたのかもしれない、ふと考えがよぎる。
脂身の少ない淡白な魚は、トゥルムフート王国でよく食べられているとユウリの言葉を思い出す。
もしかしたら馬車で1日で到着するという、海の街で獲れたものかもしれない。
今まで見えていた世界の捉え方が、少しだけ変わる。自分の世界が色づいていく感覚が嬉しい。
そんなことを考えながら、ララは魚を口元に運んだ。