15.魔法の効果
次の日の朝、フィンとララたちは向かい合って座っていた。
今日も従者たちはおらず、フィン・ロイ・ララの3人だけだった。
「昨日は悪かったね」
こちらが頭を下げるより先に、にこやかに謝られた。
ララは慌てて頭を深々と下げる。
「いえ、こちらこそ、すみません」
「今日はあの単語を出さない方がいいかな?」
あの単語とは「聖魔法」のことだろう。
聞くだけで倒れてしまったのだから、危惧するのは当然だ。
一瞬、ヤニックの記憶が蘇ったが、同時にロイに抱きしめられたことを思い出した。
顔が熱くなっていくのを感じ、両手で頬を冷やすように包んだ。
「今日は、大丈夫です……」と小さな声で言うと、フィンはひそひそとロイに尋ねた。
「……ほんと兄様、何したの?」
「……何もしてない」
ララの反応を見て、不審な目を向けるフィン。
ロイは少しの間をあけて、目線を逸らしながら答えた。「ふーん」と口元をあげたあと、真剣な表情に戻る。
「『聖魔法』というのは、水魔法より貴重と言われている。……というよりも、伝説に近い」
「伝説、ですか?」
「古い書物でしか確認されていない。ほとんどお伽噺に近いシロモノだ」
そんな魔法が自分の中に。
まだ実感が湧かなくて、自分の胸あたりを押さえる。
「伝説と言われただけあって威力や浄化効果は絶大だ」
「それは水魔法よりもか?」
ロイの質問に、フィンは頷いて例を出した。
「たとえば、汚染度100の水があったとする。水魔法の浄化とは汚染度0の水を新しく出すことだ。
汚い水に、きれいな水を混ぜて浄化するイメージだね」
ララとロイは頷く。
「すると100と0を合わさるので、汚染度は50になる。
もちろん対象となる川や泉は範囲が広いから、こんな単純計算できないけど」
ここで一呼吸置いて、フィンはララをじっと見つめた。
「聖魔法は、汚染度100の水を0にする。対象そのものを浄化してしまうんだ。
水魔法と比べると50もの差が出ることになる。
対象の範囲が広ければ広いほど、その効果の差はどんどん広がってく」
ララは息を呑んだ。そんな魔法力が自分の中に。
いったい何故なのか、子供の頃はなかったはず、様々な疑問が巡った。
フィンは静かに忠告する。
「あまりにも強大すぎる力だ。
……むやみに人に見せたりしない方がいい」
そこで思い出したのは母の姿だった。
母が泉で祈ったのは、自分と2人きりになった時だけだった。「2人だけの秘密よ」と微笑みながら、泉へ行くたびに言っていた。
父の前では祈ることはなく、風魔法を使うだけだった。幼少期は特に気にも留めず、大好きな母の言いつけを守っていた。もしやあれはーー
思考の海に沈んだ自分を引き上げるように、フィンは小さく咳払いをする。
「ララ嬢を守る体制ができるまで、聖魔法のことは箝口令を敷く」
「……そこまでか」
「その力で戦争になる可能性だってある」
はっきりと言い切るフィンに、部屋の空気が重くなった。
フィンが従者たちを部屋から出したのは、聖魔法を隠すためだったのだ。
トゥルムフート家に仕える者にさえ情報を与えない。その徹底ぶりに、目の前の男が王太子であることを再認識させられた。
「表面上は水魔法で浄化していることにしよう。
聖魔法について知っている人は少ないだろうけど、なるべく人前で使わないように」
「……あぁ」
フィンの忠言に、重々しく首を振る2人。
「そしてもう1つ提案なのだが、」とフィンは人差し指を立てた。
「ララ嬢には、貴族の基礎教養について学んでもらう」
「基礎教養?」
「平たく言うと、貴族マナーや教育だね。ほとんど受けてないんだろう?」
しれっと言うフィンと、絶句するロイ。
「お前はもう少し人の心をだな……」と睨みつけるが、フィンは涼しい顔で流した。
ララは思っていたより冷静だった。フィンの言葉にこくりと頷く。彼は意外そうに眉を跳ねさせた。
「怒らないんだね?」
「事実ですから……」
「へぇ」
「やっぱり兄様、過保護すぎるんだよ」と笑ったが、ロイはつまらなそうな表情を浮かべるだけで、返事をしなかった。
「ちなみに、」とフィンは説明を加える。
「半年ほど王宮に泊まりがけで学んでもらう」
「えっ……」
「なっ……」
ロイとは離れ離れになってしまうだろうか。知らない人たちに囲まれて大丈夫だろうか。
様々な不安がかけ巡り、ララは声が漏れてしまった。
一方ロイは、驚きの声をあげたあと、怒りの表情を浮かべた。
威嚇する犬のような顔をする彼に、フィンはからからと笑った。
「冗談だよ。王宮から使いをやるから、ここで学んでほしい」
「お前……反応を見るためにわざと……」
「兄様、ずいぶんと分かりやすくなったね?」
からかうフィンに、頭を押さえるロイ。
何の反応だろうか、意味が分からずにララはきょとんとしてしまう。そんな彼女を見て、フィンはまた微笑んだ。
「あぁいいんだ、こちらの話だからね。さてララ嬢」
「?」
「こちらばかり話してしまったからね。反対に、何か聞きたいことあるかな?」
尋ねられて浮かんだのは、2つの疑問だった。
「なぜ半年なのでしょうか……?」
ララは母が生きていた8歳頃までしか教育を受けていなかった。
初歩的な部分は教育されているとはいえ、半年でマナーや基礎教養を網羅するには足りないだろう。
フィンも理解しているはずなのに、なぜ半年という期間が定められているのか分からなかった。
「そんなの当たり前じゃないか」と彼は笑う。
「半年後に君たちの結婚式をやるからだよ。諸外国のお偉いさんも呼んで大々的に、ね」
「……!」
「初耳なんだが……」
驚きで声が出ないララと、唖然とするロイ。
「初めて言ったからね」とフィンはけろりと言う。ロイは声を低めて言った。
「王太子でも何でもない自分に、諸外国の来賓が集まるとは思えないが」
「そんなことはないよ」
悪戯めいた笑みを浮かべながら、「理由は2つ」と人差し指と中指を立てた。
「兄様の結婚式なら、王太子である私も参加するはず……そう考える人は多いと思うよ」
「もう一つは?」
ロイが尋ねると、フィンはララの方を向き合った。突然の視線に体が固まってしまう。
「まだ言えない……けれど、あらゆる国から集まってくるはずだよ」
まるで預言者みたいなことを言う。
これ以上聞いても無駄だとロイは諦めたように、ソファーにもたれかかった。
フィンも同じようにソファーにもたれかかり、足を組む。視線はララを捉えたままだ。
「言う通り、半年で全てマスターするなんて無理な話だ。
教育・マナー・ダンス……多岐に渡るからね。半年後の結婚式で、完璧な淑女を演じろなんて言わないさ」
「は、はい」
「でも恥ずかしくないくらいには仕上げてね? 恥をかくのは兄様なんだから」
「お前はまた余計なことを……!」
ロイが反射的に叫んだが、フィンの表情は変わらないままだ。
「はい」ララは短く返答した。怒ってくれるロイに申し訳ないと思うほど、自分の心は凪いでいた。
フィンの言葉は一般的に見たら棘があるのかもしれない。だが10年以上、罵声を浴び続けられたララにとっては、何の痛みも伴わなかった。むしろ「正論だ」と納得する自分がいた。
不穏な空気を放つロイを気にも留めず、フィンは平然と言う。
「安心してよ。信頼できる人を送るからさ」
「ありがとうございます」
「信頼できる人」と言ったとき、フィンの表情がやわらいだ。ララは目を丸くする。
咲き誇る花や夜空にまたたく星、そんな美しいものを見るような目つき。
一瞬の表情に目を奪われたが、すぐに隙がない笑顔に戻ってしまった。
「それでララ嬢、他には何かあるかな?」
フィンの問いに、先ほどまで考えていたもう一つの疑問が浮かんできた。
なぜロイは王太子の座を下りたのか。
独裁的な政治を行っていたわけでもない。民からも愛されており、様々な分野にも精通している。
どの面を見ても、ロイが王太子にふさわしくないとは思えなかった。
フィンとの仲違いが原因とも考えたが、2人のやり取りを見る限り、その線は薄いような気がしていた。確かにフィンは油断ができない性格だが、目線や言葉の端々にロイを嫌っているような様子はなかった……と思う。
ただこの疑問を口に出すのは憚られた。聞いてしまえばロイとフィンの空気を壊しかねない質問だった。ただでさえロイは殺気に似た空気を放ち続けている。「早く帰れ」とオーラから言っているのが分かる。
目を泳がせているララを見て、フィンは言う。
「無理しなくてもいいよ。また聞いてくれればいい」
彼の言葉に頷く。
フィンは満足そうに笑い、「また来るよ」と言って帰っていった。
♦︎
「……疲れたな」
来客室のソファにもたれかかり、ぐったりとするロイ。
ララは軽く苦笑し、リーネが淹れてくれた紅茶を飲んだ。アールグレイの香りにほっとする。
「そういえば最後、何か聞きたいことがあったのだろう?」
「いえ、」
ふるふると首を横に振るララ。
ロイが王太子じゃなくなった理由。
たとえ理由を聞いていたとしても、ロイの印象は変わらないだろう。そんな確信があった。
ーー王太子であろうとなかろうと、旦那様は旦那様だ。
それが、自分の胸にすとんと落ちてきた結論だった。
「そうか……」とロイはしばらく空を眺めたあと、申し訳なさそうな口調で言う。
「すまなかった」
「え……?」
「ヴィルキャスト家を勝手に調査した」
「い、いえ」
裕福な令嬢が来ると思ったら、みすぼらしい自分が来たのだ。違和感を抱くのは当然だった。
ただ少し胸が痛むのは……民や家族からも軽蔑の目を向けられ、貴族の教養をほとんど学ばせてもらえず、長い間ボロ小屋で育った、そんな自分を知られたのが情けなかったからだ。
口元を固く結ぶララに対して、ロイは優しく言う。
「私は、」
「はい」
「君を大切にしたいと、そう思っている」
目を見開くララ。
(あぁこの人は、)
(いくつもの幸せを、私に与えてくれる)
真剣な表情を浮かべるロイに、彼女は静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
ーーこの人のためなら、私はいくらでも頑張れる。
ララは胸を押さえて思う。穏やかな空間に、紅茶の香りが漂った。