13.抱擁
茶色く濁っていた水が、透き通っていた。
不純物も綺麗さっぱりなくなっている。
フィンは従者に合図すると、再び試験管で水をすくった。
試験管立てに差し込まれた二つの水を見比べると、違いは明らかだ。
そこでフィンは部屋にいる従者やセバスたちに部屋から退出するように指示をした。
フィン・ロイ・ララの3人だけになる。
命令の意味が分からず、彼に目を向ける。そこにはバツの悪そうな顔を浮かべるフィンがいた。
「疑って悪かった」
「い、いえ」
素直に謝られるとこちらが困惑してしまう。
眉を八の字に寄せるララを見て、フィンは「ふ」と笑いをこぼした。
その表情に心臓が跳ねる。笑い方がロイとそっくりだった。
フィンはきれいな水が入った試験管を取り出し、揺らしながら見つめた。
「浄化はしてるけど、これは水魔法じゃないね」
「水魔法、じゃない……?」
「うん。水魔法の浄化と呼ぶには、あまりに綺麗になりすぎている」
語尾を強めるフィンに、ララは首をかしげる。
自分に魔法力があったのも驚きだが、水魔法でないなら、何の魔法が使えるのだろう。
母親は風魔法を使っていたはずだ。ただ風魔法と水の浄化はどうしても結びつかない。
疑問で頭がいっぱいになっていると、フィンは言った。
「一つの仮説だが、」
「は、い」
「君は、聖魔法を使えるんじゃないかな」
「聖魔法」という単語が耳に届いた時、あの恐ろしい過去が蘇った。
痛みを伴うくらい、強烈に脳内に流れ込み、次々と記憶がフラッシュバックする。
ボロ小屋の中、自分を押し倒すヤニック。
雨漏りした屋根、激しい雨音、ねっとりとした視線。
弾き飛ばした後、彼が自分に叫んだ言葉。
『なぜお前が、なぜお前が、聖魔法をーー』
「ーーーーーーぁ、」
小さく声が漏れて、体の震えが全身に走った。
悪寒のようなものが体を包みこみ、血の気が引いていくのが分かった。
ぐらりと体が傾く。
「ララ?!」
遠くの方でロイの声が聞こえる。
何度も何度も自分の名前を呼ぶ。答えたいが、体が鉛になったかのように動かない。
目の前がぼんやりと霞んでいく。
張り詰めた糸が切れたように、ララは意識を失った。
♦︎
雷が落ちるたび、ボロ小屋は揺れた。
ピシャリと落ちる閃光と、轟く爆音。薄いシーツにくるまりながら、ララはふるふると震えていた。
そのため、キイッと小屋の扉が開く音に気づかなかった。
ぞわりと悪寒が走り、ララは扉の方を見た。
そこにはびしょ濡れになったヤニックがいた。
来るはずがない人間が立ちすくみ、目だけがぎらぎらと光り、こちらを見据ている。
違和しかない光景に、ララは先ほどとは比べものにならないくらいの震えが、全身に走るのを感じた。
逃げなきゃと頭の中で警報が鳴る。
「なぜメアリばかり……俺は役立たずだと……アイツら……」
断片的な単語を呟き、ふらふらとこちらに近づいてくる。
逃げなきゃいけないと分かっているのに、体から根が張ったように動かない。
雨漏りした屋根、激しい雨音、ねっとりとした視線
ララは恐怖で体が固まるなか、できる限り大声で叫んだ。
「ーーラ、ララ……!!!」
誰かが強く呼ぶ声が聞こえる。
その声を掴むように、がばりと勢いよく上半身だけ起き上がった。
肩で息をするが、呼吸がうまくできない。息を吸っても吸っても、酸素が薄い。
自身の呼吸音が聞こえてくると、先ほどまで見ていた光景が蘇ってきた。
まだ覚醒しきっていない脳に、恐怖だけが襲ってくる。
体を震わせ、自分自身を抱きしめながら怯えたように口走る。
「いや、いや、来ないで……!」
「ララ……?」
「やめて、おねがい……!」
「ララ!」
名前を強く呼ばれ、暖かな体温がララを包む。
ララの小さな背中を、大きな手が力強く引き寄せた。
柔らかなウッド系の香りが、彼女の鼻孔をくすぐる。
とくん、とくん、広い胸から鼓動が聞こえてきて、自分の気持ちが落ち着いていくのを感じた。
そこで気づく。
自分が今、ロイに抱きしめられていることに。
混乱でいっぱいになるララの耳元で、囁くように言う。
「……つらかったな」
その言葉を聞いて、涙が次々に溢れていく。
服を通して体温と鼓動が伝わり、身も凍るような恐怖が溶けていくのを感じた。ララは子供のように泣きじゃくる。
「こわ、かった……」
「うん」
「おそわれて、でも、にげられなくて」
「……うん」
そこで体温が離れる。
ロイはララの両肩を握りしめ、しっかりと目を合わせながら言った。
「大丈夫、
ーーここに君を傷つける者はいない」
真剣な眼差しに、こくりと頷く。涙がぽろりとベッドのシーツを濡らした。
ララの反応に、安心したように目を細める。そして肩から手を放した。
「あ……」
言葉を出そうとすると、声が掠れていることに気づいた。
ロイは何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じる。
ベッド近くにあった水差しでコップに水を注ぎ、手渡してくれた。
お礼を言って受け取る。飲むと、冷たい水が体の中を巡っていくのを感じた。
水を飲むと、幾分か落ち着いてきた。
窓を見ると夕陽がもうすぐ沈もうとしている。夜がそこまで忍び込もうとしていた。
まだ頭がはっきりと覚醒し切れていない。脳がふやけてしまったようだ。
倒れる前の記憶を辿っていると、ロイは頭を下げた。
「辛い思いをさせてすまなかった」
真摯に謝罪され、ララは全ての記憶を思い出した。
王太子の前で倒れるなんて、無礼にもほどがある。青ざめながら慌てて尋ねた。
「あの、フィン様は」
「あいつのことはどうでもいい」
ロイはぴしゃりと言った。
普段は温和な彼だが、今は怒りを顔ににじませている。
王太子にそんなことを言ってもいいのかと、ララの方が焦ってしまう。
「今はゆっくりと休んで。何か食べたいものとか……」
言いかけて、ふっと笑いをこぼした。
急に笑ったロイに尋ねるような目線を向けると、「あぁ」と頷いて答えてくれた。
「前も同じようなことがあったな」
「そう、でしたね」
「確かこのあとーー」
ロイの言葉が詰まり、何だか意味深な目線を投げられる。
首を傾げたララは、具合が悪くなった日を思い出した。
『頭を、撫でてください』
自分のお願いが蘇る。
沸騰するほど顔が熱くなるのが分かった。
ロイが頰を掻き、ボソリと言う。
「撫でた方がいいかい?」
「だ、大丈夫です……!」
恥ずかしくて思わず拒否してしまった。途端、後悔が胸をよぎる。
ロイは「そうか……」と少し残念そうな表情を浮かべ、黙ってしまう。気まずい沈黙が部屋に流れた。
なんだか申し訳ない気持ちが生まれ、勇気を出して言う。
「あの、やっぱり、お願いしても、いいですか」
「! ……あぁ」
ロイは目を見開いたあと、頷いた。
ゆっくりと手を伸ばされ、頭を撫でられる。どこかぎこちないけれど、優しい手つき。
ゆるやかな幸福に目を細める。大きな手が、何度もララの頭を撫でた。
黙って受け入れているのが、なんだか照れくさくて、ララは口を開く。
「フィン様と、仲がいいんですね」
「仲がいいと言うのかアレは……。
すまなかった、あいつは歯に衣着せぬ物言いが多くてな……」
「いえ……」
『トゥルムフート国を騙してやってきた令嬢』と言われた時に傷ついたのは、それが図星だったからだ。
ララも家族から騙された形で嫁いだとはいえ、トゥルムフート王国には何も関係がないことだった。
貴族を騙し、莫大な利益を得る。
そんなことをしてタダで済むとは微塵も思っていない。ララが今、無傷で済んでいるのは、ひとえにロイの温情のおかげだった。
ララは話題を変える。
「私には魔法力があったのですね」
「その件も、すまない。時期が来たら話そうと思っていたんだが」
「あいつのせいで予定が狂った……」ぶつぶつと文句を言うが、撫でる手は優しいままだ。
その差が面白くて、ララはくすりと笑う。ロイはほがらかに言った。
「詳しい話は明日話そう」
「はい」
ララの返事に、満足そうに微笑んだ。彼女は目を閉じる。
執務室で話した時、ロイは「君には魔法力がないのか」と尋ねてきた。
質問形式だったが、口調は確信めいていた。おそらくヴィルキャスト家の調査を行ったのだろう。
その時にララが、どんな目に遭っていたのかも把握したに違いない。
自分がボロ小屋に押し込まれ、10年以上、教育も貴族マナーも学べなかった令嬢であること。
そんな娘を娶ることで、どんな苦労があるのかは彼自身も分かっていたはずだ。
それでも深く触れずに、ロイは傍に居続けてくれた。
今だって、そうだ。
「聖魔法」と聞いただけで倒れこみ、取り乱した理由を聞かずに居てくれる。
(知ってたけど、本当に、やさしい人)
幸せな夢を見ているような浮遊感に身を委ねると、「ララ?」と呼ぶ声が聞こえた。
目をパッと開けると、向かい合ったグリーンの瞳と目が合った。
今までにないくらい近い距離。そこでララは思い出す。
(さっき抱きしめられたんだった……)
取り乱したせいで先ほどまでは気にならなかったが、意識すると急に体温が上がってきた。
ララの反応に、ロイは目を丸くした。そして何だか苦しそうな顔をする。
どこか具合が悪いのだろうかと上目遣いで見ると、さらに苦しそうな顔をし、額に手を当てて空を仰いだ。
「あの、旦那さま、どこか具合が……?」
「いや、なんでもない。本当になんでもない」
早口で答えられる。
彼の心配をしていたのでララは気づかなかった。ロイの耳が真っ赤に染まっていたことに。
そのあとララの看病のため、部屋にエリーとマニカが入ってきた。
彼女の体調を案じたあと、マニカが2人の顔をきょろきょろと見比べる。そしてニヤリと笑った。
「……何かありました?」
「マニカ、お前は来月から減給する」
「いやーーーーっ!」
頭を抱えるマニカに、ララは「ふふ」と吹き出してしまう。
つられて、エリーもくすりと笑うと、みんなに笑顔が広がっていく。
最後には部屋にいた全員が、声に出して笑っていた。