11.サファイア
最初ララ視点。途中でロイ視点に変わります。
カトラリーと皿が触れる音だけが、食堂に響く。
いつもは他愛ない話をするが、今日は2人の間に会話はなかった。
量が少なく、すでに食べ終わっていたララの背中に冷たい汗が流れる。なんだか嫌な予感がした。
ロイは昼食を食べ終わると、ナプキンで口元を拭いた。
そしてララの方を向き、静かに言った。
「今日の夕方、執務室へ来てくれないか」
ーーあぁ、ついに来てしまった。
ララは「はい」と小さく答えて、うつむいた。
部屋に戻ると、机の上にあったノートを開く。
文字や図が何ページに渡って描かれていた。「魔法力がない」と気づかれた後の、どのように対処するか考えたシナリオである。
(私は、どうなってもいい。でもエリーだけは、)
ロイ、トゥルムフート家に仕える執事やメイドたち、
そして他国にも関わらず、自分に仕えてくれたエリー。
2週間、本当に大切にしてもらった。
彼らから受ける侮蔑の目線は、きっと泣きたくなるくらい悲しいだろう。
それでもいずれ慣れるはずだ。10年以上ボロ小屋に暮らしてこれたように。
どんな痛い思いも、苦しい思いも、構わなかった。
だけど「自分のメイドだから」という理由で、エリーが同じ目に遭って欲しくなかった。
魔法力がないと気づかれる前に、エリーを逃すシナリオも考えた。
ただお金がなく、人脈もないララにとってはどれも不可能なシナリオだった。自分の無力さが、ひどく情けない。
彼女が思いついた、唯一実現可能そうなシナリオはただ一つ。
エリーの代わりに、自分の罰を重くするよう懇願する。それしかないと、ララは拳を握りしめた。
夕方、指定された時間に、ララは執務室の扉を叩いた。
「はい」と中から声がし、扉を開く。緊張で心臓が壊れてしまいそうだった。
執務室は本で囲まれていると言っても過言ではない部屋だった。
天井まである本棚に、隙間なく本が収められている。こんな時でなければ、興味深く見渡しただろう。
奥には大きな窓と、一人分の机がある。机の上には大量の書類が積み上がっていた。
机の前には、ソファーが2脚向かい合わせに置いてあり、間にはテーブルがあった。おそらく来客との打ち合わせなどに使われているのだろう。
ロイはソファーに腰掛けており、もう一つのソファーを指し示した。
「そこに座って」
「……はい」
小さく頷き、ソファーに座る。
ここで消えてしまえたら、どんなに楽だろう。そんな風に思いながら、彼の言葉を待つ。
2人だけの空間を包む沈黙を、ロイは静かに破った。
「単刀直入に言うよ」
「は、い」
「ララ、君に魔法力がないというのは本当かい?」
ロイの言葉にひゅっと息が詰まった。
体に震えが走る。震えは全身に回り、膝の上に乗せた拳にまで伝わった。
言葉を出したいのに、声が出ない。
しかし目の前の相手は、自分の言葉を待っている。早く答えねば、拳を握り締めながら、なんとか声を絞り出した。
「は、い……」
「……そうか」
ロイの静かな相槌に、ララは強く目をつむる。重い沈黙が部屋を包んだ。
こうなることは分かっていたはずなのに、実際に経験すると、恐怖がララを襲った。
ララの目頭がじわりと熱くなる。
脳裏に浮かぶのは、この2週間の幸せな日々だった。
お風呂で髪を洗ってもらったこと
美味しい食事を作ってもらったこと
美しいドレスを買ってくれたこと
他にも色々な記憶が、浮かんでは消えていった。
どの瞬間も、ララにとっては、とてつもなく幸せな思い出だった。
そして最後に浮かんだのは、幸福の箱の再奥、大切にしまった記憶。
頭を撫でてくれた、ロイの姿だった。
ララの瞳から涙がこぼれる。
ーー嫌われたくない
幸せになれないと確信していた少女は、願ってしまう。
「エリーの代わりに、自分が罰を受けよう」その気持ちに嘘偽りはない。
それでも同時に、「嫌われたくない」と身勝手に願ってしまう自分もいた。
しかしそんなワガママが通るわけがない。
他国の元王太子を騙し、多額の結納金を払わせたのだ。ララは口を開く。
「お願いが、あります」
ララは声を震わせながら、言葉を続ける。
「私が、どんな罰でも受けます。なので、エリーだけは、助けてください」
膝にぽたりぽたりと涙が落ちる。
ララは拳に落ちる雫を、ただ見つめることしかできなかった。
すると、紺のハンカチが視界に入った。
驚いて、ぱっと顔をあげる。軽蔑の目線を覚悟していたが、そこには柔らかな光をたたえたグリーンの瞳があった。
「目が腫れてしまうよ」
「な、なぜ、ですか。私は、だましたのに」
ボロボロと泣くララに対して、ロイはハンカチを差し出したまま微笑む。
汚い自分の涙を拭くことなんてできない、そう思い、首を横に振る。すると彼はハンカチを持ちながら、ララの頰に触れた。
涙の跡を辿るように、ハンカチでなぞる。
どうして、優しくしてくれるの。
驚きで涙が止まってしまう。ロイは、両手を膝の上に置き、しっかりとララの目を見て言った。
「私は君に危害を加えない」
「……え?」
「罰を与えようとも思ってない」
ロイの言葉に、止まっていた涙が、再びあふれ出てきた。
この屋敷に来てから2週間、ずっと抱えていた感情。
緊張や不安、恐れ、罪悪感……様々な感情が氷のように固まり、ララの心に巣食っていた。
ロイの言葉で、その氷が溶けていくのを感じる。
「ひっ、う……」
嗚咽が漏れはじめた。
怖かった、悲しかった、辛かった、苦しかった
いろんな感情がごちゃ混ぜになり、体の中を駆け巡った。今までせき止めていた感情が、どっと溢れてくる。
涙も声も止まらない。そんな自分の傍に、ロイは静かに居続けてくれた。
うああ、声を出しながら、ララは子供のように泣き続けた。
♦︎♦︎♦︎
子供のように泣き続けるララの姿を眺める。
魔法力がないことを隠し続けた日々。
露呈したら、タダでは済まないが、逃げることもできない。
誰にも相談ができない、板挟みの毎日。この2週間ずっと我慢してのだろう。
彼女の気持ちを考えると、胸が締め付けられた。
実の母は亡くなり、
過酷な生活を強いられ、
家族からも自国の民からも嫌われ、
最後は、駒のように嫁がされた、ララの人生。
人間不信になってもおかしくはない、自分のことで精一杯になるはずだ。なのに彼女は言った。
「エリーだけは助けてほしい」と。
この世に、メイドのために命を投げる主人がどこにいるのだろう。
どうして、地獄のような日々を強いられながら、他人のことを心配できるのだろう。
疑問が浮かび、一つの答えにたどり着いた。
(彼女にとって、自分自身の命はあまりに軽いものなのか)
「自分はどうなっても構わない」そんな諦めに似た、死生観。
それが周りの環境によって形成された価値観だと考えると、声が詰まってしまった。
彼女の叫びに似た声は、だんだんと収まり、やがて消えた。
「すみ、ません」うつむきながら謝られる。
「いいんだ、さぁ顔を上げて」
あれだけ泣いたのだ、目が腫れてしまっただろう。
リーネを呼んで、温かいタオルを持ってきてもらった方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら、ララに声をかける。
おそるおそる顔をあげた彼女の瞳を見て、目を見開く。
涙の膜が張られ、艶を帯びたサファイア
ひと粒、宝石のような涙がぽたりと溢れた。
驚いた
彼女の瞳は、こんなに美しかったのか。
♦︎
涙が完全に収まったあと、ララは深々と頭を下げ謝罪した。
「騙してしまい、申し訳ございません」
「君も騙されたのだろう?」
「しかし、私の家族がしたことですから……」
あんな目に遭わせてきた奴らを、まだ家族というのか。
ララが受けてきた行為を思い出し、ふつふつと怒りが湧いた。
怒りを抑え込み、穏やかな声で言う。
「気にしなくていいんだよ。……ただ、一つ聞きたいことがある」
「はい」
「庭の川へ何度か行ったことがあるかい?」
「はい、毎朝……」
「なるほど。今度、一緒に行ってもいいかな?」
こくりと頷くララ。
彼女に魔法力があるかないかは、まだ分からなかった。
しかし水質は驚くべき数値を叩き出している。
さらに毎朝ララが川の近くへ行っていたという事実。
確信めいたものを感じながら、目の前の少女を見つめた。
♦︎
3日後の朝、ララと自分は川へ向かっていた。
仕事で忙しく、最後に来たのはララを案内した日だった。
数値では確認していたが、川の様子を見るのは2週間ぶりである。
川にたどり着くと、想像以上の変化に驚いた。
薄く濁っていたはずなのに、川底まで見えるほど透き通っている。
魚がほとんど住めないほどだったのに、今は数多くの魚たちが泳いでいる。
ーーわずか2週間で、ここまで変化するのか。
川を見て固まっている自分に、ララは不思議そうな目線を向ける。
こほんと咳払いをし、彼女に頼む。
「毎朝、どんな風にしていたか見せてほしい」
「はい」
彼女は慣れたように、川の側でひざまづいた。
そして手を組み、祈りの姿勢をとる。
すると、彼女の体がやわらかな光に包まれた。
驚いたのはそれだけではない。
まるで彼女の光が伝播するように、川の方に流れていく。
やがて川全体がぼんやりと光り、そして消えた。
時間にしたら数分だろう。
彼女を包む光も消えると、ララは瞳を開いた。
「こんな風に祈っておりました」
「ありがとう」
自分は頷いて、持ってきた容器に川の水を入れた。
あとでセバスに渡し、水質調査してもらうつもりだ。
屋敷の方へ戻るため、踵を返す。
森の中、普通に歩いていたつもりだったが、ララの歩調が少し速くなっていることに気づく。
自分たちの身長差を考慮していなかった。反省し、ペースを落として横に並ぶ。
「そういえば、何を祈っていたんだい?」
聞くと、見上げた瞳が、少しだけ大きくなった。
朝の光が入りこみ、透き通った瞳がきらりと煌めく。
なんだか落ち着かない。
そわりとしてしまい、胸のあたりが疼いた。
知らない感情に首をひねると、ララの目が泳いでいることに気づいた。
言いづらかったら言わなくてもいい、そう口を開くより先に、彼女が言った。
「お母さま、旦那さま、そして屋敷に仕えてくださる皆さまの、」
「うん」
「幸せを、お祈りしていました」
胸のあたりが先ほどより強く疼く。
魔法力がなく、いずれ自分に罰が下ると思っていたララ。
私たちトゥルムフート家が、脅威の対象となってもおかしくはないはずだ。
それなのに、彼女は毎朝、祈っていてくれたのだ。
「……そうか」
それだけ言って、言葉を交わさずに屋敷へ向かう。
誰かと一緒にいる沈黙は苦手だったはずなのに、どこか心地よかった。