恋の駆け引き
「そうか。もしかしてこの頃流行っている婚約破棄ブームを気に病んでいるのではないか?」
ロイズ王太子はその蒼の瞳をまっすぐにソフィアの碧の瞳に向けながら言った。その内心さえ透かして見ているかのような視線にソフィアは悶絶する。
(か……顔が近すぎませんか……す、すきです)
「話題性のある騒動だからか次々と物語になっているとも聞く。中には誰とも言わないが実在の人物に寄せている作品すらあるとのことだ。まあ、不敬罪で差し押さえたからもう流通はしていないだろう」
ロイズ王太子の言いたいのは、恐れ多くもロイズ王太子が婚約者であるソフィア公爵令嬢を婚約破棄するという内容の創作小説のことだった。気に病むことはないというフォローのつもりだったのだ。
「そうなのですねー」
一方、ソフィアはロイズ王太子のまっすぐに見つめてくる視線に魂のほとんどを持っていかれていたので、言われている内容が全然頭に入ってこなかった。
そしてこの時水面下ではロイズ王太子からの駆け引きが早くも始まっていたのだが、ソフィアは一向に気がつかなかったのだ。
ロイズ王太子の涼しげな表情の裏では恋の駆け引きの網が理路整然と編まれていたのだ。だがしかしソフィア公爵令嬢の天性のツンデレはその包囲網をことごとくすり抜けていた。
(おかしい。もう七十三回も趣味を共有しているのだというのに一向に距離が縮まらない。居心地のよい空間での共同作業に単純接触の原理(会う回数)、コミュニケーションもこちらからとっているし、相談にものる共感の姿勢をみせている。アイコンタクトもとっているというのに……)
ロイズ王太子はツンデレだった。彼に足りていないのは素直に好意を伝えることだった。この二人は両片思いの状態だったのだ。それもかなりずっと前から。
だが、ロイズ王太子は変なところで潔癖だった。
(よし、このチェスが記念すべき百回目の時にはソフィアに告白しよう)
その潔癖さがさらに自分で自分の首をしめていたのだ。
「そのような流行があったとは知りませんでしたわ」
ソフィア公爵令嬢は流行りものに疎かった。なんせ彼女は朝から晩までロイズ王太子に合わせるためにチェスの盤上のパターンを暗記して頭に叩き込んでいたのだ。それに合わせて妃教育もしているともう娯楽なんてしている暇もないし、気の置けた友人とおしゃべりに興じている時間もとれなかった。睡眠も多少削ってチェスの一手を考えていたのだ。彼女は完全にキャパオーバーしていた。
そして妃教育のたまもので、実際のところ彼女の顔は赤くなってはいなかったのだ。彼女のツンデレは妃教育のたまものによって隠されていた。ここに座っているのはただの完璧なツン令嬢だった。
そして一方ロイズ王太子は目の前の愛しのソフィア公爵令嬢をいかにして自然にデートに誘うか機会をうかがっていた。彼の右の内ポケットには先ほどの婚約破棄物語の観劇のチケットが二枚入っており、さりげなく出したさきほどの話題はすべてこのチケットへの呼び水だ。ソフィアが興味を持ったタイミングで出すべく、予約がなかなかとれないこのチケットを販売時間にはりついて電話を掛けたのはいい思い出だ。従者に頼むことなく自分で、しかも王子としての権限をふりかざすこともなく一般客としてチケットを取ったのは彼の潔癖な性格が関係していた。
ソフィアがスルーしたことで婚約破棄物語への伏線は水に流れた。ロイズ王太子は涼しい顔を崩さずに内ポケットの劇場のチケットをなんとかしてソフィアに渡す方法を考えていた。
そう、ロイズ王太子もまた表情に出ないタイプのツンデレだったのだ。