1 俺はお前を許さない。何があっても絶対に──。
「ほら、早くしなさいよ?」
そう言うと幼馴染のカレンは、おそらくは風魔法と重力操作魔法を同時に展開した。
次の瞬間、俺の身体はふわりと宙に浮き、そのままベッドに伏せる彼女の背中に、無理やり押しつけられるように跨がされてしまった。
「今日は腰のあたりを重点的にお願いねー」
ここは俺の部屋。にも関わらずカレンは傲慢ちきな態度でベッドを占領してマッサージをしろと言ってくる。
「ちょっとマーくん聞いてるの? 疲れてるんだから早く揉んでよ?」
「俺だってな、畑仕事で疲れてるんだよ」
俺の住む村では、十三歳になる年に独り立ちをする。
だから今年から畑を与えられ、ひとりで作物を育てている。
まだ一人前には程遠く、余裕などどこにもない。
それでも、学校が休みの週末になると、カレンは決まって俺の家に押しかけてくる。
「あ、そう。わたしだって学校の勉強で疲れてるんだけど? そういうこと言っちゃうんだ?」
無垢な笑顔のまま、彼女の手のひらに炎と呼ぶにはあまりに禍々しい黒い何かが、ジュワ、と滲み出た。
「ばっ……ばか! それは洒落にならない!」
「あはは。……さん、にー、いーち」
「わかった! わかったから、その黒いのを消してくれ……!」
「はいはい。最初からそう言えばいいのに。素直じゃないんだから」
――ふざけろ。
畑仕事なめんな。毎日ぼろぼろになるまでやってんだぞ……。
何度も嫌だと言った。
何度もやめてくれと訴えた。
それでもお構いなしに、カレンは暴力と魔法で俺を脅してくる。
情けなくも、農民の俺はビビってしまう。
昔は、こんな子じゃなかった。
魔術の適性を認められて学校に通い始めてから、どこかおかしくなってしまった。
――会いに来てやってる。
――仲良くしてやってる。
――友達で居てやってる。
そんな雰囲気を、全身から押し出しているんだ。
別に、もう来なくていいのに。
会いたくなんかないのに。
「ねぇ、マーくん? マッサージ! は・や・く!」
「あぁ……わかってる。やるよ」
それでも俺が耐えているのは、どこかで、きっと――。
かつてのカレンに戻ってくれると、まだ信じているからなのかもしれない。
しかし、それから一年も経たずに、俺は限界を迎えることになる。
それは、カレンが魔術学校の中等部の次学年に上がったときのことだった。
聞くところによれば、成績はすこぶる悪く、初等部の卒業も中等部への進学も危うかったという。進級に至っても、辛うじてギリギリで乗り切ったらしい。
だからだろうか。その日のカレンは、いつにも増して横暴な態度だった。
「ほーらマーくん、お空飛んじゃったねー」
「や、やめてくれ! 降ろしてくれぇ……!」
「ねぇ、このまま一緒にどこか遠くに行っちゃわなぁーい?」
「お、降ろせぇぇええ……!」
俺は家の外を、魔法で弄ばれるように飛ばされていた。
「や、やめでぐれぇ……降ろじでぐれぇ……やめぇ……」
声が枯れるまで、必死に叫んだ。
けれど枯れていったのは声だけじゃない。カレンへの想いまでもが、じわじわと乾いていくようだった。
――こいつはもう、だめだ。
このままではいつか、俺は死ぬ。
そう悟った瞬間、今まで向き合うことを避け、それでも頑なに守ってきた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた気がした。
その夜。
俺の部屋のベッドを当然のように占領しているカレンに、ついに言った。
「出てけ」
「どしたの、マーくん? ……ははーん。これかな? これが欲しくなっちゃったのかな?」
そう言うと、無垢な笑顔のまま、カレンは手のひらに黒い炎を灯した。
――脅し。
もはや見慣れた光景だった。
「やりたきゃやれ! 殺してみろ! 殺せぇっ!!」
突然の殺せ発言に、カレンの顔から笑みが消える。驚いたように目を見開いていた。
「ちょ、ちょっと……どしたの? 落ち着いてよ!」
「どうもこうもねえ。やりたきゃやれって言ったんだよ!」
俺の覚悟を察したのか、それともカレンに覚悟がなかったのか、あたふたと狼狽えはじめた。
「ち、ちがうの! あ、あれは……もう一人の私なの。そういう魔法があるの!」
「本当か?」
「う、うん……」
ふざけやがって、この女!
「この期に及んで嘘までつくのかよ? お前、嘘つくときは決まって目を反らすもんな?! ふざけんなよまじで? とっとと出てけ!」
「ま、待って。今のは言葉の綾で……聞いて、マー君、あのね――」
「うるせえ嘘つき暴力性悪女! 出てけ! 二度と面見せんな! 出てけぇーッ!!」
「違うのマーくん……。お願いだから……そんなこと言わないで……これからは心を入れ替えるから……話聞いて……、わたし、マー君がいないと生きていけない……」
舐めていた。どこまでも、俺のことを舐めていた。
お前、殺す覚悟もないくせに、今まで散々脅してきたってのか?
塩だ。塩はどこだ。
大急ぎで台所へ駆け込み、ありったけの塩をつかみ取る。
そして、そのまま思い切り投げつけてやった。
「早く出てけよ! それともどうした? お得意の魔法で家ごと吹き飛ばすか? やりたきゃやれ! 覚悟の上だ! 殺せ! 殺してみろーー!」
積もり積もった思いが、言葉となって溢れ出す。
もう、止まれなかった。
「そんなことしないよ……」
「だったら出てけよ? 早くいけ! お前は剣と魔法を覚えて変わっちまった。もう、お前の顔なんか二度と見たくねえんだよ!」
再度、塩を投げつけてやった。
「⋯⋯だったらやめる。学校行かない。剣も振らないし魔法も使わない。だからそんなこと言わないで。側に居させてよ……」
食い下がりもせずに謝ってくるのか?
ふざけんな……。ふざけんなよ?!
「馬鹿言ってんじゃねえ! それじゃまるで俺が辞めさせたみてぇじゃねえか! 村八分にされちまうだろうがよ! 勝手なことばっか言ってんじゃねえ!」
「……じゃあどうしたらいいの? どうしたら、許してくれる……? やだよ、わたし……マー君と離れたくない……。お願い。側に居させて……なんでもいうこと聞くから……」
ああ、どこまでも腹が立つ。
どうにかすれば俺の気が収まると思ってる、こいつの態度に、その考えに、とてつもなく腹が立つ。
「知らねーよ。剣と魔法頑張ればいいんじゃねーの? 留年されて俺のせいにでもされたら、たまったもんじぇねえかんな。そんで俺の前に二度と現れるなよな。わかったら返事しろ! これ以上、お前と話すことなんかなにもねぇんだよ!」
「…………わかった」
そう言うとカレンは俺の家から出ていった。
ああ、せいせいした。
……でも、やけに最後は素直だったな。少し言い過ぎたか?
いやいやあいつにされてきたことを思い出せ。
どちらにせよ俺は農民で、あいつは将来有望な魔術学生様だ。
これでいい。
もう、住む世界が違うのだから。
じゃあな、カレン。
それから数ヶ月。
俺は平穏な暮らしを取り戻し、どこか物足りなさを感じながらもこれで良かったんだと言い聞かせていた。
そんなある朝、あいつは突然現れた。
「マーくん! マァーくーん!」
その声を耳にして、一瞬、悪夢にうなされているのかと思った。
寝室の小窓を開けると……居た。
なにやらトロフィーのようなものを手に掲げている。
「じゃじゃーん! 中等部次学年の部の魔術大会で優勝しちゃいました! えへん!」
「へぇ、すげぇじゃん」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
いや、これは違うな。そう思ったのだけど──。
「うん。それだけ……だから」
そう言うと、カレンは玄関の前にトロフィーと賞状を置き、瞬く間に空の彼方へ消えていった。
「は?」
……なんだったんだ?
「いや、こんなもの置いていかれても困るんだが」
玄関に置かれたトロフィーと賞状を手にしてなんとも言い難い気持ちになった。
「いや、本当に……これはいったい、なんなんだ?」
+
それから、さらに数カ月後のある朝。
「…………──くーん!」
「はっ!」
この声、この感じ!
「マーくーん! マァーくーん!」
……また来やがった。
眠気まなこで窓を開けると。
「じゃじゃーん! 中等部次学年の中間考査で、剣術も魔法も一位を獲得しました! えへん!」
「へぇ、すげぇじゃん」
またしても寝起きで不意を突かれたせいか、率直な感想がそのまま口をついて出てしまった。
「うん……。それだけ、だから」
そう言うと前回と同じく、玄関前に賞状とバッチらしき物を置くと、瞬く間に空の彼方へと消えてしまった。
「⋯⋯なんだよ。ただの報告かよ。なら別にいいか。いや、いいのか?」
なんて疑問に思いながらも足は玄関へと向かっていてカレンが置いていった賞状とバッジを手にしていた。
「えーと、なになに? 剣術と魔術の中間考査でともに一位を獲得したものは学園始まって以来の快挙である。よって記念品のバッジを贈呈する、とな」
こりゃ本当にすげぇわ。
成績悪くて進級すらも危ういって聞いていたからか、素直な気持ちとして驚いた。
「でもなんで、俺ん家の玄関に置いてくんだよ?」
+
そして二度あることは三度あるとはよく言ったもので、それからさらに数カ月後のある朝。
あいつはまたしてもやって来た。
「マーくん! マァーくーん!」
三回目ともなると次は何で一位を取ったのかな? なんて考えるようになっていた。
そうして月日は流れ、季節は巡り。俺の家はトロフィーや賞状、記念品の類でいっぱいになっていた。
落第候補生だったはずが、今では首席。
いったい何がどうなっているのか。
本当は聞きたいことが山ほどある。だが一言でも問いかけてしまえば、もう二度と来なくなる気がして、俺は何も聞けなかった。
そのせいか。そのためか。
あの日から三年。
中等部を卒業して高等部へ進んだ今もなお、カレンは俺の家へ報告にやって来る。
「マーくん! マァーくーん!」
おっ、来た来た。
悪夢だと思っていたはずが、いつの間にかカレンが来るのを楽しみにしている自分がいた。
寝室の小窓から顔を出すと、いつも通り自慢げに報告してくる。
「じゃじゃーん! 職業体験で冒険者組合に行ったら、なんとSランク冒険者の資格をゲットしちゃいました! えへん!」
「へぇ、すげーじゃん!」
そう言うと、これまたいつも通り玄関先に何かを置いて飛び立っていった。
ん? いや待て。これはさすがにまずいのでは?
嫌な予感がするも、気づいたときにはカレンはもう、空の彼方へ消えていた。
そして玄関に置かれていたのは、案の定、Sランク冒険者の免許証だった。
「いやいや、これはまずいだろ。免許証置いてくって、まじかよ」
まっ、次来たときに返せばいっか。
なんて思ったときに限ってなかなか来なかったりするのだから不思議なものだ。
気づけば半年が経っていた。
でも冒険者は危険な職業だと聞く。だったらこのままでも。いやいや。そういう問題じゃないだろ。
「カレンのやつ。なにやってんだよ。早く、来いよ──」
+
それからさらに半年が経ち、ようやくカレンは姿を現した。
「マーくん! マァーくーん!」
来た。やっと来やがった。
この頃には、毎朝カレンが来そうな時間に目を覚ますのが習慣になっていた。
「じゃじゃーん! 魔術学園高等部、次学年にして学園No1の称号をいただいてしまいました! えへん!」
「へぇ、すげーじゃん!」
「うん。……それだけ、だから」
「あっ──」
声を上げた途端、カレンはなにを誤解したのかビクッと身を震わせた。
「ま、マーくんごめん。何度も来ちゃって……」
それはあまりにも今さらな言葉だった。
そんなこと、ずっと気にしていたのかよ。
「いいよいいよ! そんなことより、ちょっとそこで待ってろ!」
「うん……」
俺は大急ぎで階段を駆け下りた。
中段に差しかかったところで、ズドンと転がり落ちてしまった。
それでも痛がっているわけにはいかない。
冒険者免許を手に取り、そのまま玄関を勢いよく開けた。
「なんかすごい音したけど、大丈夫?」
「なんでもねえよ。この通りピンピンしてらあ!」
「そっか。なら良かった!」
「お、おう」
「うん……」
あの日以来、初めて窓越しではなく顔を合わせたというのに、会話はそれ以上続かなかった。
俺とカレンを隔てるものの大きさを痛感せずにはいられなかった。
きっと順番が違う。他にもっと言うべきことがあるはずなんだ。
それなのに、言葉として出てこない。
「こ、これ! 免許証って書いてあるぞ?」
「え……うん」
「だったらお前が持ってないとだめなやつだろ?」
話の意図が伝わっていないのか。
久々に触れられる距離で顔を合わせたせいなのか、カレンは少しおどおどしているように見えた。
だから俺は彼女の手を取り、冒険者免許を握らせた。
「ほら」
久々に触ったカレンの手は少し大きくなっていた。
どれだけの時間が経ったのか指先で感じた。
あの日、俺はカレンに絶縁を突きつけた。
その俺が、ふたたびこうして触れてしまっていいのだろうか。
やはり順番が違うのではないだろうか。
そう思うも、先の言葉は出てこない。
「い、いいの。マーくんが持ってて」
そう言って、カレンは俺に冒険者免許を握らせてきた。
「でも、これ……」
そこまで言いかけて、やめた。
冒険者は危険な職業だと聞く。俺が免許証を預かっている限り、カレンは冒険者にはならない。
だったらそれで、いいじゃないか。
「わかった。預かっとく」
「……ありがとう。じゃあ、行くね」
そしてカレンは足早に去ろうとする。
せっかく窓越しではなく手の届く距離で、ずっと近くで顔を合わせたというのになにも変わらない。
だからなのか俺の口から出た言葉は──。
「ま、またな! カレン!」
これが今の俺の、精一杯。
するとカレンは驚いた表情を見せるもすぐに──。
「うん! また……!」
どこか懐かしさを感じる笑顔で返してくれた。
その日は胸に仕えていたなにかが、少しだけ取れたような気がした。
またなって言ったら、またって返してくれた。
あの日以来、一度もなかった当たり前をひとつ取り返したような、そんな気がした。
+
いつの間にか、カレンに対する怒りは消えていた。
『もう、怒ってないぞ』
たったそれだけのことを言えずにいた。
あの日、俺はカレンに酷い事をした。
塩を投げつけ暴言の数々を浴びせた。
今さらどんな顔をして言えばいいのかわからないんだ。
だから、それからも──。
カレンが報告に来ては「へぇ、すげーじゃん」と返すだけだった。
それでも、別れ際に「またな」「またね」と笑い合えるようになった。
伝えなければいけない言葉をおざなりにして、ただそれだけに満足していた。
そうして何事もなく時間は過ぎていき、カレンは無事に魔術学園高等部を卒業した。
そこから先は、あっという間だった。
研究や探求に重きを置くのではなく、実戦に秀でていたカレンは、更なる進学を選ばずに、王都騎士団へ入団した。
そこからは、ひと月ごとに昇進。
勲章を次々と手にし、三年が経つ頃には――。
騎士団の頂点にまで上り詰めてしまった。
騎士団創立以来の快挙。
国を守る騎士団長への昇進だ。
そしてさらに一年が過ぎた。
その間、カレンが姿を現すことはただの一度もなかった。
+
『──……マーくん! マーくーん!!』
「はっ!!」
聞き覚えのある、慣れ親しんだ声で目が覚める。
大急ぎで窓を開けるも、カレンの姿はどこにもなく──。
『じゃっじゃーん! ────……えへん! じゃっじゃーん! ────……えへん! じゃっじゃーん! ────……えへん!』
聞こえるはずのない声が、脳内で木霊する。
あいつはいつだって、俺を驚かせるような報告を携えて来ていた。
そんな彼女は今や、騎士団長にまで上り詰めてしまった。
だからもう──。俺をあっと驚かして「すげぇ」と言わせるだけの報告ができなくなくなってしまったんだ。
そうなればもう、来る理由なんてなくなっちまうわけで…………。
べつになんだってよかった。
目玉焼きが綺麗に焼けただの、茶柱が立っただの、空に掛かった虹を辿ったらマーくん家に来ちゃったの! ……なんて、嘘を吐いてもよかったんだ。
…………理由なんて、なんでもよかったんだ。
便りがあるだけでよかった。
お前が元気な姿を見せてくれるだけで、よかったんだよ。
「……バカ野郎」
気づくのが遅すぎた。
あの頃の俺はまだ、十三のガキだった。
目に見えるものだけが、すべてだった。
「……カレン」
ここからカレンのいる王都までは、いくつもの山を越えなければならない。
会いに行くどころか、手紙ひとつ出すことさえ叶わない。
そんな距離を、あいつは空を飛んでやって来る。
それがどれほどすごいことか、考えもしなかった。
会えなくなって、会いたくなって、会いに行こうとして、会えない現実を知って、初めて気づく──。
気づけば俺は、空ばかり眺めるようになっていた。
自分がまだ、ガキのままだと思い知りながら──。
「……………………カレン」
来るはずもない、彼女の姿を空に重ねて──。
今日も俺は──。
ただ、空を見ている。
+
それからさらに、一年──。
俺の元には縁談の話が頻繁に届くようになっていた。
独り立ちをして一人前になれば所帯を持つ。それが村の習わしであり、当たり前だった。
一人前かどうかは、収穫した作物の出来で決まる。
あの日から畑ばかり耕してきたせいか、そのおかげか……俺は早くに一人前と認められた。もう何年も前の話だ。
これまでは何かにつけて断ってきたが、俺も今年で二十四になる。
たまに親父と顔を合わせれば「孫の顔が見たい」とぼやかれ、おふくろからは見合いや縁談を口を酸っぱくして勧められる。
それでも頑なに独り身を貫く俺を不審に思ったのか、一部では有らぬ噂まで立てられた。
「畑が恋人」などと馬鹿にもされ、このままでは村八分にされる日も遠くないのかもしれない。
でも──。どうしても前向きにはなれなかった。
頭の中には、いつだってあいつがいる。
夜明け前に目覚めれば、お前の声が木霊する。
こんな状態で所帯なんて、持てるわけがない。
なにより心が動かないのだから、どうしようもなかった。
そうしてさらに一年。最後に顔を見せてから三年。あれから十年。
かつてないほどの名誉を携えて、あいつはやって来た。
「じゃっじゃーん! ななななんと! 王国最強の剣士の称号『剣聖』をいただいてしまいました! えへんっ!」
どこか不慣れで、セリフじみた喋り方。
どんなに時間が経っても、大人になっても、立場が変わっても、この瞬間だけは変わらない。
まるで時間が止まったような温かさがあった。
「へぇ、すげーじゃん!」
だから俺も変わらず、普段どおりに返す。
でも今日は、今日だけは──。
すぐには帰さないと決めていた。
もう二度と会えないと思っていた。
こうしてまた会えたのだから、俺のやるべきことは、ひとつしかない。
報告を済ませると、カレンはいつも見せていた笑顔ではなく、切なげにまぶたを曇らせながら「それじゃあ、いくね……」と言った。「またね」とは言わなかった。
わかっている。
もう次はない。
はず、なのに──。
「っ──…………………………」
また──。また、言葉に詰まる。
もしまた会えたら。
そんなことばかりを考えて毎日を過ごしてきた。
それなのに──。
言え。言えよ、俺。
ここを逃したら、もう――。
わかっているのに。
「……風邪、引くなよ。ちゃんと飯、食えよ」
精一杯に振り絞って出た言葉は、どうしようもなく情けないものだった。
「……うん。マーくんもね……」
だめだ。このままじゃ、だめだ。
早くしないと飛んでいっちまう。早く――!
「ああっ! っと、ちょっとそこで待ってろ!!」
焦る気持ちのまま、脈絡もなく強引に引き止めてしまった。
すぐにハッとして、大急ぎで階段を駆け下りる。
中段に差しかかったところで、ズドンと転がり落ちてしまった。
まるで、あの日の再現だった。
それでも痛がっているわけにはいかない。
リビングをあたふたと走り抜け、とりあえず台所から収穫したばかりのトウモロコシを手に取る。
実りの良さそうなやつをカゴいっぱいに詰め込んだ。
そして玄関のドアを勢いよく開ける。
「なんかすごい音したけど、大丈夫?」
「なんでもねえ! この通りピンピンしてらあ!」
「そっか。なら良かった!」
「お、おう」
「うん……」
会話は、そこで途切れてしまった。
冒険者免許を返そうとしたあのときと、まったく同じだった。
なにもかもがあのときと同じで、俺たちを隔てるものが何ひとつ変わっていないことを示しているようだった。
別れの挨拶を交わすようになったはずなのに時間の分だけ、むしろ溝は深くなっているように思えた。
そんなことで頭がいっぱいになっていると、カレンの視線がトウモロコシへと移った。
俺は思わずギュッと力を込め、トウモロコシの入ったカゴを差し出した。
「こ、これ! 持ってけ! 好きだったろ?」
……いや、カレンは今や騎士団長で剣聖様だ。
トウモロコシなんか渡してどうするんだよ。俺はいったい、なにがしたいんだ……。
渡してすぐ、小っ恥ずかしさに顔が熱くなり、後悔が押し寄せる。
そんな俺の様子を見てカレンはどう思ったのか。
トウモロコシを受け取ると、優しく微笑んだ。
「うん。好き……大好き。ずっと、好きだった。昔から……今も変わらず、ずっと」
妙に艶っぽく聞こえた。
儚げで、どこか切なさを帯びたその表情に視線を奪われる。
惹き寄せられるように、言葉が口をついて出た。
「俺も……大好きだ。忘れたことなんて一度もなかった……トウモロコシ」
……トウモロコシ。
甘くて、美味しい。
俺の畑の、自慢のひとつ……。
「……うん。トウモロコシ、美味しいもんね」
トウモロコシ。
トウモロコシ……。
急に頭の中が真っ白になった。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
そして、暫しの沈黙を経てカレンが口を開いた。
「じゃあ、行くね。……またね」
「お、おう。またな」
あるのか?
次なんて、本当にあるのか?
騎士団長になって、ついには剣聖にまでなった。
もう、ないだろ。
これが最後だろ……!
でも。
それ以上のことは何も言えなかった。
あれから十年が経っていた。
思い返してみれば今日までもの間、俺たちはまともに会話をしてこなかった。
だからいまさら、なにを話したらいいのかわからないんだ。
言いたいこと、伝えたいことは山ほどあるはずなのに――。頭の中は真っ白だった。
そうして。いつものように、瞬く間に──。
カレンは空の彼方へと消えていってしまった。
それから――。
いくつもの季節が巡っても、カレンが訪れることはなかった。
あの日こうなることはわかっていたはずなのに、伝えることができなかった。
『もう、怒ってないぞ』
言えなかった言葉を、毎日毎日。明くる日も毎日。後悔し続けた。
そんなある日、ふいに。
あいつはなんの前触れもなく現れた。
「マーくん! マァーくーん!」
その声に、俺は一瞬でベッドから跳ね起きた。
大急ぎで小窓を開ける。……居た。
実に七年ぶりに目にした、彼女の姿。
少し団長として貫禄が出てきたか?
そう思った矢先、異変に気づいた。
笑っていなかった。
それだけじゃない。トロフィーも、賞状も、なにも持っていない。
手にあるのは、一枚の紙切れだけだった。
嫌な予感が走った。
「じゃじゃーん! 地下迷宮探索隊のリーダーに任命されてしまいました! えへん!」
「へぇ、すげーじゃ……ん」
地下迷宮という言葉に、嫌な予感がさらに強まった。
子供の頃、悪さをすると大人たちは口ぐせのように言ったものだ「地下迷宮に連れていくぞ」。
あの恐怖を、子供ながらに鮮明に覚えている。
そして嫌な予感は、的中してしまう。
「それでね、今日は話があるんだ。……最後に」
カレンの口から出た“最後”という言葉に、居ても立ってもいられなくなった。
「今、扉開けるから! そこで待ってろ!」
俺は大急ぎで階段を駆け下りた。
一段目から踏み外し、そのまま転がり落ちてしまった。だが、痛がっている暇なんてない。
勢いのまま玄関を開け、カレンが口を開くよりも先に声をぶつけた。
「今年は良いハーブが採れたんだ! 一杯飲んでけよ! うめぇから!」
「……うん!」
カレンは驚いた顔をしながらも、ひと言、明るく返事をしてくれた。
もう迷わない。
ずっと言えなかった言葉を、今日――。
そして十七年ぶりに、カレンは俺の家へと上がった。
ハーブティーを淹れても、飲み終えるまで会話らしい会話はひとつもなかった。
覚悟を決めて迎え入れたはずなのに、十七年という時間の重さを嫌でも肌で感じた。
沈黙を破ったのは、カレンだった。
少し気まずそうにしながらも、なにかを決意したように口を開いた。
「えっとね。今日はマーくんにお別れを言いに来ました。それでね――」
最も聞きたくない言葉が出てしまった。
だから俺は、カレンの言葉を遮るように再び声をぶつけた。
「なんだよそれ。何かあったらまた報告しに来いよ。今まで通りに来ればいいだろ」
こんなことしか言えない自分が、情けなくなった。
「あのね。もう、ここには来れないの。地下迷宮の探索で、人類未到達エリアに挑戦するんだ。行けるところまで行くんだって。探索メンバーのみんなも張り切っててね。とっても名誉あることだからって」
「そうなのか?」
聞き返してはみたけど、農民の俺には何がすごいのかわからなかった。
「うん。だからどうしても……あの日のことを許してもらいたくて。このままじゃ、死んでも死にきれなくて。嘘でもいいの。だから最後に、お願い……。自分勝手なことを言ってるのは百も承知。それでも……マーくん……ごめんなさい……」
今にも泣き出しそうな儚過ぎる笑顔に怒りを覚えた。
トロフィーも賞状も記念品も勲章も称号もたくさんもらったのに俺の家にはこんなにもたくさんあるのに、最後は名誉のために死ぬのか?
俺は農民だしそっちの世界のことはわからない。わからないからこそ、腹が立つ。
だから思ってしまったんだ。
嫌だって。こんな別れ方、したくないって。
あの日、俺はカレンに絶縁を突きつけた。
怒鳴り散らして、酷いこともたくさん言った。
そんな俺に今さら、いったい何を言う資格があるのだろうか。
“もう怒ってないから大丈夫だよ。地下迷宮の探索、頑張って来いよ!”って、笑顔で送り出してやるのが今の俺に許される、唯一の償いではないだろうか。
……だったら言えよ。早く言えって……。
ここまでわかっているのに、煮えたぎる怒りがすべてを蔑ろにする。
気付いたときには──。どうしようもない自分勝手なことを言っていた。
「……嫌だ。俺はお前を絶対に許さない」
その言葉を聞いてカレンは酷く肩を落とした。
「だよね。そう、だよね……ごめんね……」
「謝ったって絶対に許さないからな」
「ごめん……ごめんねマーくん……」
「だから!! 謝ったって許さないって言ってるだろ!!」
「……うん。でも……ごめん。ごめんね…………これで最後だから……もう一度ちゃんと謝りたいの……。ずっと謝りたかった。でも、許してもらえないってわかってたから……今日までずっと言えなくて……」
「だったら行くな!! そんなに許して欲しいなら行くな!! ずっとここに居ればいいだろ!!」
もうめちゃくちゃだった。
あれから十七年の歳月が流れていた。
ずっと言いたかった言葉はどうしようもなく間違ったタイミングで、間違った言葉で、救いようもなく自分勝手に飛び出していった。
「ごめん……ごめんね……まーく……ん?」
カレンは言葉の意味がわからなかったのか「…………え?」と、俺の顔を見てきた。
もう、どうにでもなれと思った。
一度走り出した気持ちは、たとえ間違いだとわかっていても止めることなんてできない。
俺はお前と、さよならなんてしたくない。
お前を失いたくなんてない!
「行くな!! 地下迷宮だかなんだか知らないが、そんなところに行ったら俺はお前を一生許さない!! 許してほしいならずっと俺の側に居ろ!! 俺から二度と離れるんじゃねえ!! そしたら百年後か二百年後に許してやる!!」
カレンは自分の口を両手で押さえ、信じられないという顔のまま、その瞳からぽろぽろと涙をあふれさせた。
その瞬間、やってしまったと思った。
それは初めて見るカレンの涙だった。
どうして俺はこうも間違えてしまうのだろうか。
十七年──。十七年だ。時間はたっぷりあったというのに最悪な形でカレンを傷つけてしまった。
もう怒っていないと伝えれば良かっただけなのに彼女の人生を真っ向から否定してしまった。
どうして俺は笑顔で送り出すだけの簡単なことができないのか。
…………いいや。できないに決まっている。
今までだって、ずっと言えなかった。
頭ではわかっているのに、心が許さなかった。
凄いことを成していくお前を見るたびに、遠くに感じていた。
空の彼方よりも、ずっと遠くに感じるようになっていた。
距離以上に、俺とお前の世界が離れていくようでたまらなかった。
だから“許す”ってのは俺らにとってそれは、別れの──。さよならの言葉に他ならない。
次もまたその次も、お前が来る理由をなくさないために、ただそれだけのために──。今日まで俺は、お前を許すことができなかった。
それなのに今は…………なんだよ?
許したら満足して地下迷宮に行っちまうってんだろ?
そんなの会えないよりも辛えじゃねえかよ。
今まで感じていた遠くよりも、ずっと遠くじゃねえかよ?!
そんなの…………。送り出せるわけが、ねえだろうがよ?!
「……嫌だ。地下迷宮になんか行かせない。このままずっとここにいろ!! どこにも行くなー!!」
みっともなくたっていい。
格好悪くてもいい。
ここでお前を引き止めなかったらきっと、死んでも後悔し続ける。
だから俺はお前を、許さない。
なにがあっても、絶対に──。
すると────。カレンから思いも寄らない言葉が飛び出した。
「わかった」
「だから!! どこにも行くなっ…………て?」
ドクンと鼓動が激しく揺れた。
どちらとも取れる、その一言に願ってしまった。
願った先にあるのが、たとえ間違いだとしても──。願わずにはいられなかった。
と、次の瞬間──。
「────っッ?!」
カレンが俺の膝の上に乗っかっていた。
まるでお姫様抱っこのような体勢だった。
いったいなにがどうなっているのかわからない。
でも──。確かに感じる、この温かさがカレンの答えだってことだけは話さずともすぐにわかった。
「……カレン」
あの日以来、実に十七年ぶりに名前を呼ぶことができた。
「ぎゅってして。どこにも行かないから、今だけぎゅってして? そうしたらわたし、全部捨てられるから」
“全部捨てる”その言葉の重みがどれほどのものなのかは農民の俺にはわからない。
だから抱きしめる。
強く、強く抱きしめる。
「どこにも行くな。全部捨てちまえ。そんで俺の側から離れるな!!」
明日も明後日も、お前が笑顔で生きていけるように、両手いっぱいに強く、強く抱きしめる。
「うん。行かない。ここにいる。……ずっとマーくんの側にいる」
カレンも俺のことをぎゅっと抱きしめてきた。
ずっと────。自分が農民であることを引け目に感じていた。
でも俺にとって彼女は魔術学生様でもなければ騎士団長様でもない。ましてや剣聖様でもなければ地下迷宮探索隊のリーダー様でもない。ただの幼馴染なんだ。大切で大好きな幼馴染なんだよ。
そのことに今、十七年の時を経て気づいた。
だから抱きしめる。
もっともっと強く、強く抱きしめる。
長い時間を埋めるように、強く、強く、強く──。
そうして──。
「お前の罪は消えない。でも俺の側に居れば、いつか許してやる日が来るかもしれない。百年先か二百年先かはわからない。……だから……二度と俺の側から離れるな!! ずっと俺の側に居ろ!! わかったか!!」
「はい。マーくんの側にずっと居ます」
告白と呼ぶにはあまりに粗末なもので、それを成しているのかさえわからない。
それでも、今──。
俺とカレンは十七年の時を経て結ばれたような、そんな気がした。
たとえ間違いだとしても、
農民の俺の手には余るとしても、
このさき、どんな苦難が待ち構えていようとも──。
もう二度と、お前を離さない──。
好きだよ、カレン。
大好きだ──。
次話からはカレン視点でこの十余年を追いかけていきます。
サブタイトルは『お嫁さんになりたかった。ただ、それだけなのに──』です!
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