10
アブリル・ライラストリアスはかつて孤児であった。
彼女は法悦王国ニーヴェの出身であり、カルディアではないが同じ異端者の収容街にて、双子の弟と共に生まれ育てられた。
母親はすぐに死んだ。
死因は憶えてはいない。
それで父親は物乞いのような仕事をしていて、子供二人を抱えてなんとか食いつないでいた。
弟はよく泣いた。二人きりでいると、すぐに声をあげて涙を流した。食べ物を与えても、決して泣き止むことはなかった。
アブリルはそれをあやして、お腹が鳴っても涙をこらえた。
アブリルにはそれでも希望があった。
それは魔術である。彼女は自身が他にはない才能を持っていることを自覚していた。知識を持っておらずとも、自身が特別であると自然と分かってしまうほどの圧倒的な才能が彼女にはあった。
だから人知れず、彼女はその才能を磨いた。
泥水をすすり、地を這いながら、ひたすらに自身の牙を研いだ。
そうしているうちに父が死んだ。
たしか過労だった。
当時四歳だった彼女は弟を連れて街を出ようと思った。
信仰しているふりをすれば、自分たちも普通の街で生きられることを彼女は知っていた。だから内心では、自分たちの親にも、それを求めていた。そうすれば街で普通に生きられたのに。
子は親と生活環境を選べない。
――どうしてあなたたちの意地で、私はこんな環境を強いられないといけないの?
父親が死んだのは残念だがチャンスでもあった。
アブリルはユークレアとかいう絶滅した龍を神として崇めることにした。この国の国教であるユークレア教だ。
そうするとあっという間に、余所の街で引き取り手が見つかった。裕福な上流階級で、気の良い中年夫婦だった。
双子揃って家族にしてもらえた。
飲める水は透き通っていて、お腹が鳴ることなんてまったくなくなって、眠るときには布団があって、風が吹かなくて、雨も降らなくて、冬は暖炉の火があったかかった。
ただ、弟は相変わらずよく泣いた。
あの生活環境を脱すれば泣くこともなくなると、そう思っていたのだけれど、まったくそんなことはなかった。
でもきっと、すぐに慣れる。
だって今のこの家は、こんなにも暖炉があたたかいのだから。
市民権を得たことで、いよいよアブリルはその才を公に認められるようになっていった。
より多くの人に囲まれ、彼女はより一層自身が抜きんでた存在であることを知る。その才をさび付かせることがないように、一生懸命に努力を重ね、研鑽を積んでいった。
(思えば私はずっと不幸だった)
そしてその不幸は実の両親によってもたらされたものだった。
(だから、たった一人の弟だけは、絶対に幸せにしてあげたい)
そう思った。
偉くなって、とびきりの贅沢を、もう泣かなくてもすむほどの環境を、あの子に与えてあげたかった。
自分にはそれが出来ることも知っていた。その才能があることを、よく知っていた。努力を続ければ、それが絶対にかなう夢であることが分かっていた。だからそれをしないなんて馬鹿だって、そう思っていた。
毎日毎日、魔術連盟法悦王国支社に通い詰めて、朝から晩まで魔術の修練に没頭した。やがて、円卓の塔よりスカウトが来た。
彼女は意気揚々と塔に入学した。
弟は最後まで、泣き止むことはなかった。
塔に行っても、弟とは手紙のやり取りを欠かさなかった。毎日書いて、毎日送った。
弟も、はじめの頃は無反応だったけど、やがてポツポツと、返事が返ってくるようになった。
彼からの辿々しい文章を読むと、元気が出たし、思わず顔も綻んじゃうし、何より嬉しかった。自分は独りじゃない気がした。家族がいる。だからまだがんばれる。
やがて神殿への移籍が決まり、アブリルは法悦王国の実家に栄誉の凱旋をする。
ずっと手紙のみのやり取りであった弟と、やっと会うことが出来る。なにより、彼女はやり遂げたのだ。すべての魔術師が憧れる神殿の地位を手に入れた。たくさんの報酬も約束されている。やっと、弟に、弟だけの、夢みたいなお家も与えてあげられる。
彼は昔から絵が上手だった。絵描きにでも、なったら良い。成功するまでの資金は、これからはアブリルが好きなだけ出してあげられる。
家のドアを開ける。
弟は死んでいた。
なんでも、アブリルがこの家を出た後ですぐに死んでしまっていたのだという。原因は分からない。
朝起きて、部屋に起こしに行ったら、ベッドの上でまるで眠るように、生まれたての子犬が泣きじゃくって疲れて眠るように、死んでいたのだという。
「手紙は、ずっと私たちが」
事実をどう言おうか迷っている間にも絶えず、次々と手紙が送られてきて、どんどん溜まっていくから、頑張っているおまえが不憫に思えて、たまに、返していたのよと。
義母は――そう言った。
たまらずに、アブリルは泣いた。弟のように泣いた。
これまでの人生、ずっとそれをこらえていた彼女だったけれど、その時ばかりは、箍が外れたかのように涙と嗚咽が止まらなかった。
泣いて、泣いて、声を嗄らして泣いて、それでも泣いて、彼女はそのまま家を出た。二度とそこに帰ることはなかった。
帰る場所がなくなった。
あの人たちは、家族ではない。感謝はしているけれど、弟がいないのならば、もう変える意味はない。いや――帰りたくないのだ。
弟は、どうして死んでしまったのだろう。
あの子は、どうしてあんなにもずっと泣いていたのだろう。
同じように涙を流しながら、彼女はその理由を考えた。
でも最後まで、わからなかった。
いや嘘だ。
本当は、とっくに気がついていた。
同じ涙を流して、だからとっくに分かっていた。
気がつかないふりをしていた。
だって気がついてしまえば、認めなければならない。
――私の、せいなのだと。
あの子は、異端街の頃からよく泣いていたけれど、それはなにもお腹を空かして泣いていたわけではない。貧しくて、それが嫌で泣いていたわけでもない。
きっと――たぶん――
――今の私と同じ理由で、涙が出てしまっていたのだ。止められなかったのだ。
お母さん、お父さん、そして私――
結局、自分と弟とは、別の人間だったのだ。家族であっても、別の価値基準を持った別の生き物だった。
自身の望むものが、その人の望むものであるとは限らない。
私は、あの子を幸せにしたかった――
――でもきっと、あの子はもうとっくに、幸せだったのだ。
ああ、ああ、……死んでしまいそうだ。
――私はもう、この広い世界でたった独りぼっちだ。
※※※
アブリルたちがやがて辿り着いたダンジョンの最奥――その瓦解した地下神殿の如きステージでは、連れ去られたというチゲちゃんらしき子供が、笑顔でなにやらあたたかいスープのようなものをこしらえている景色があった。
「え……、チゲちゃん?」
「うん、チゲだよ。おねたんたち……だれ?」
「チゲちゃんのお姉ちゃんに言われて、チゲちゃんを助けに来たんだよ」
「たす……ける?」
キョーカノコの説明に、チゲは首をかしげた。
「攫われたんじゃないの?」
「チゲはおにたんが寂しそうだったから、いっちょに遊んだげてただけだお」
「えーと、その……おにたんっていうのは……だれなの?」
「おにたんはね、ここに住んでるんだって。黒くてカタくておっきいの」
間違いない、あの骸骨のことだろう。
キョーカノコは唖然として、シグルの方を振り返った。
彼は肩をすくめた。――が、次の少女の言葉で顔色を変える。
「おにたんは世界征服してるんだって。でも今は暇してるんだ。ヘンだよねー」
「……世界征服……て、まさか……」
ニーヴェ王の差し向けた討伐隊の女――ミミが、ぼんやりとそれを言う。
「もしかしてあの骸骨ってこの前できた覇王国とやらのメンバーだってこと? たしかにあの国ってニーヴェの隣で近いよね!?」
キョーカノコとレイルはアブリルの方を見た。
塔の魔術師たちは皆、懸命に気付かぬふりをしてくれているが、当然ながら知っているのだ。彼女があの覇王国誕生の際に、えん罪で磔にされていたことを。
「……あんな骸骨は敵側にはいなかったわ」
アブリルが答えると、シグルは少し安堵しているように見えた。
あの方が紹介してくれたメンバーの中に――そのシルエットで、かの骸骨に当てはまる者がいたかどうかは、実際のところは分からないというのが正直なところだ。
いたかもしれないし、いなかったかもしれない。
でも絶えず、そのような問いにはNOと答えてきている。ずっとそうしてきた。アブリルはまだ、覇王国側の情報を一度も漏らしたことはない。
旧フルグラ国民は、聞くところによると、あの時点から一切の出国を禁止されているのだという。
その中で、アブリルのみが帝国への帰還を許可され、あまつさえ今でもこのように自由にさせてもらえているのは、思うにカイザーからのアブリルに対する信頼のたまものであるとは言えないか。
アブリルは磔にされながらもひと言も情報を漏らさなかった。そしてかの拝礼についてもお褒めの言葉を頂いた。
その実績によるものではないか――アブリルはずっとそのように考えていた。
だからこそ、今でもあの方との関係は途切れていないと確信しているし、それをつなげることを諦めてもいないし、故に今でもこの契りを破ることはしない。
「そういえばあの放送――聞いた? きゃはは、帝国を打ち倒すだって。おまえ如きに無理だっつーの。誰だよって感じ。阿呆だよねー」
ミミが、横の少年兵にそう思い出したように話して笑い声を立てる。
「身の程をわきまえろっつーの!」
そう言う。
おまえこそ、わきまえるべきだ。
「あーさっさと死んでくんないかなー。うちの王がその気になれば、きっとあんな弱小国なんてあっという間に滅ぼしちゃえると思うんだけどなー」
そうかしら?
あなたはあの方の力をその目で見ても、果たしてまだそんなことを言っていられるのかしらね。
「おにたんはね、やさしい人だったよ。おにたん、死んじゃうの? おーさま、ころしちゃうの?」
チゲがヘンなように話を解釈したらしい。そう涙を浮かべてミミにすがりついた。
「くさーっあんたシャワーちゃんと浴びてんの? ああ、でもうちも今は臭うのか。でもあんたのがくっさ! もしかしてスラムの子!? あっち行きなさいよ! ったく、なによ来て損したわ。この子なら、わざわざリスクを背負ってまで助ける必要ないし来る必要もなかった」
ミミは足下のチゲを蹴飛ばす。チゲは涙を浮かべたが、今度は泣くことはなかった。
「キョーカは、この子を連れて帰りますよ。約束しましたから」
「ダメよ」
しかし以外にも強く、その意見をミミは却下する。
「あなたたちは我が王の命を受けて来ているのでしょう? ならば指揮系統はこちらにあるわ。脱出における障害になるソレは、ここに置いていく」
「いやです。約束しましたから」
「ったく、だからやめとけって言ったんだ――」
レイルはキョーカノコに舌打ちをする。
「チゲ、だいじょぶだよ……? ここで、ここにいるよ? 置いてって? だからケンカいや――」
泣きそうで、けれどチゲは泣かない。
「――――――――っ!」
「――――――――――っ!?」
「――――――――――――――っ!!」
言い争いは、続いている。
チゲは、泣きそうで、けれどそれをこらえている。
「そんな異端のガキ、すぐ隣なんだから覇王国にでも追い出せばいいのよ! お似合いだわ!」
アブリルはある意味で、ミミの言ったその案を支持した。案外そちらの方が本当に幸せになれるのではと、そう思った。
けれどチゲは、とても悲しそうな表情を浮かべていた。
結局――
そう――
なにが正解だなんて――
わからない――
心の中でくすぶる。
あの方を侮辱された怒り。
過去の過ち。
目の前の喧噪――
私は独り――待っている者はいない――どうして待っててくれないの――待っててくれなかったの――待っててくれていたの――だめなの――もうあの方しかいない――なぜこんなことを言われて黙っているの――なぜこの子は泣かないの――どうして――この男はなんなの――あの方のなんなの――
私はいつ――
迎えに来てもらえるの――?
全てが頭をかき乱し、心を締め付けて、
だからいつか破裂する。
そもそも彼女はずっと壊れていて、
破綻していて、
だから時間の問題だった。
偽って、
誤魔化して、
何より自身を騙し切れていなかった。
だから――
それは突然やって来て、
瞬く間に過ぎ去った。
「え――――――!?」
誰かの悲鳴が聞こえる。
アブリルの右手には先ほど入り口から持ってきたアイテムが握られていた。
そのアイテムは目の前のミミに突き刺さっており、そして内部から彼女を、粉々のミンチに引き裂いていた。
血しぶきと肉片が舞い、
降り注ぐ。
これまで鬱積し続けていたなにかが駆け上り――
スッ――と、引いていくのが、彼女には分かった。
「そう、そうね――こうすれば、よかった――ああ――いま、とっても――」
凜とする静寂が支配するその空間で、アブリルは緋色に染まる頬を緩める。
「ストン――と、きてしまったわ」
誤字報告ありがたいです。報告してくださった方ありがとうございます。