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「がぅー、があがぶががー」
ベリーはその日も自身のお腹をお日様にむけ、口を半開きにして舌を出し、小刻みに息を吐いて体温調整を行いつつ、ご機嫌にお昼寝を満喫していた。
彼女は列強種であるフェンリルに転生した、グリフォンブラッド家の末っ子である四女だ。
忘却されし墓地街キリングザールという街には、どういうわけか日差しというものがあまり差し込んでこない。
そういう訳なので常に街には陰気な雰囲気が漂っているわけなのだが、しかし、ベリーはそのたゆまぬ日々のお散歩とマーキングとお昼寝の成果により、この町外れの丘の上にだけは日中のごく僅かな時間、暖かな日差しが燦々と差し込んでいるのを知っていた。
なのでこの時間、彼女は決まってこの場所に来て、ご機嫌な日差しの下で爽やかなお昼寝をするのがここ最近の日課となっていた。
「がーがう、がががうがうー」
日が暮れだしたのを見て、ベリーは無念に身体を起こし、帰り支度を始める。
ドシン――
ちょっとした山の如きのサイズの体躯を持つフェンリルが動いたことで、もの凄い地響きがあたりを揺らした。
「がーう」
そしてそんな事実を目の当たりにして、ベリーは相変わらずにショックを受ける。
(うーベリーってそんなにオモいのかなあ……)
結論から言えばイエスであるが、年端もいかぬ彼女としては未だ受け入れがたい事実なのだ。
(しゅん……シンプルツラい……)
彼女はトボトボと家路につく。実際はドシンドシンであるが、そんなの絶対に認めない。
(ベリーもヘレナおねーちゃんみたいにメドゥーサとかがよかった。いいなーみんなにキレイだっていわれて)
ため息がでた。目の前の丘が吹き飛んだ。
(あ、でもおねーちゃん……メドゥーサになってなんか変わっちゃったなー。すこしこわくなった? そういうのはやだなー。つねにホンワカでいきていたいー。まったくもー、みんな自分というものが無いからそーやってすぐエイキョーうけてヘンになっちゃうんだよー、もー)
プンスカとしながら、通りかかったいつものマーキングポイントへ片脚をあげてオシッコをする。スゴい量が出た。最近この辺に新たにできた湖の水量がまたひとつ増加した。
(しかもなんか変わってきちゃってるっていう自覚がないっぽいよね。こんどヘンになってるよ! それ人間だったときしてた? してないよね? ダメだよ、めっ! って教えてあげたりしたほーがイーのかなー?)
そう言いながら彼女はもりもりとウンコをして、後ろ足で土をかけた。近ごろこの辺に爆誕したという世界一の泥山の標高がまた一つ上昇した。
そうしてまた歩き出すと、
(あ――)
進行方向にある廃教会前のベンチに座っている姉――三女のヘレナの姿を見つけた。
「がうがうがー!」
ベリーは元気に駆け寄っていく。鼻先を彼女のお腹目がけて滑り込ませてねじり込むような動きで懐いてみせる。
どうやら転生したことで少しばかりパワフルになってしまっているらしく、同じことを他の家族にやると大概がそのまま吹っ飛んでしまって挙句に怒られる。
でも蛇女である彼女の場合は、平然とその愛情表現を受け止めてくれる。
「ベリー、お散歩?」
ヘレナはベリーの鼻筋を指で掻くようにあやしながら訊ねる。
心なし泥山と湖の方に目をやり、顔をしかめていた気がした。なんでだろう。
「がうーがうがうがうがー?」
ちなみにフェンリルであるベリーは他の家族のように帝国言語を話すことができない。それは言語に必要な声帯がフェンリルには存在しなかった為だ。
しかしそれでも一応、帝国言語を話すように彼女なりに発声していれば、みんななんとなくで意図は察してくれている。
「実はお兄様のことを考えていましたの。少し気になることがあって」
「がう!」
ヘレナは近ごろいつもシグルのことを考えている。挙句の果てに他の兄たちのことは兄様とは呼ばなくなってしまった。
「がうがうがががーがうがうがうがうがうんがうん」
「いえ、世の中の仕事というのはすべからく優秀な人の元に集まっていくものなのです。優秀であるからこそ人より多くの信頼を勝ち取り、より一層の仕事を任されるようになっている。そういうものです。なのでお兄様が忙しいのは世の摂理でありお兄様が優秀であることの証左なのです。だからわたくしが心配しているのは、そんなことではありませんよ」
「がうがー?」
「……実は、」
じゃあなにを? とベリーが問うと、彼女は深刻な影を表情に落とし、やがて神妙にそれを告げた。
「ここ最近……、お兄様がまったくわたくしの乳房に注目してくださらないのです……」
「が、がう……」
「ええ、そうなのです、お兄様がわたくしの乳房にまったく視線をやらないなんて……おかしい、いえむしろ不条理であると――あなたもそう思うでしょう? ベリー。お兄様におっぱいを覗いていただけない世の中なんて……もう、滅んでしまえば良いのに」
「が、がう……?」
ベリーは心底この姉はなにを言っているのだと正気を疑うほどだったが、どうやらヘレナはそれを全肯定の「ええ!」であると認識したらしい。
大きく頷いて兄がいかに自身の胸を好いているかについて熱く語り出した。
「お兄様はことあるごとに、そう、転生する前の――それはもう正真正銘のお兄様であったあの時代から、わたくしの乳房をいやらしくも熱い視線でことあるごとに盗み見てくださっていたの。ことあるごとにですよ? わたくしが屈んだ際にはそれはもう獲物を狙う獣のような速さで」
「がうが……、がうがう……」
なぜこの姉は兄に胸を盗み見られていることをこんなにも、さも光栄なことであるように話せるのか、はなはだ疑問であった。
なので「おねえちゃん……、へんだよ……」とベリーは言ったわけだが、またもヘレナはそれを別に解釈したようだった。
思い切りこちらに身を乗りだし、「そうなのです! 変なのです!」と神妙に頷いた。
「わたくしが思うにですね、この変な事態になったのは、お兄様の今通われているあのゴミどもの巣窟に原因があるのではと思うのです。わたくしは今、それを案じていたわけなの。お兄様ったら……もしかして、なにか悪い影響を受けているのではないかしら……?」
「がーうがうっがががっがががうがう」
ベリーはふと、過去に兄より聞かされた学園での待遇について憶えていたことを口にした。
「――――ッッッはぁっあッああッ!???!?!?!!」
「が、がう……」
そしてすぐにそれが失言であったことを悟る。
「ベリー……どういうこと…………? 相部屋……? もしかしてそれは、もしかしてなんですか? お兄様は……そうなんですか?」
とてつもない殺意を放ちながらヘレナはこちらを睨み付ける。
こ、こわい……これは殺されるんじゃないか。そうなんですかってなんなんですか?
ベリーは心底怯え、そして困った。姉はいったいなにを案じているのか。
「決めました。……わたくし、決めましたよ」
しかしヘレナはスッと、差し水をさされたお湯のように、平静を取り戻し、決めたことを口にする。
「お兄様のところに行きます。行ってみてきます。様子を。そしてその女を殺します」
「が、がう……?」
なに言ってるのお姉ちゃん……。
「ふん、……なにか愉快そうな話をしているな。俺も混ぜろよ」
いつの間にやら廃教会の屋根の上に立っていた次男が話に混ざってくる。
彼は吸血鬼であり、今も転生前も変わらず超絶的美男であり、だいたいの女は彼がひと言話すだけで真っ赤になって照れだす。二言目で完全に落ちる。――と、貴族時代は言われていた。
「あら、ラーズガイン。ならば、一緒に行きます? それともわたくしの邪魔をする気なら、容赦しませんけど」
「馬鹿を言え。俺がそのようなつまらぬことを本気でするとでも?」
「それもそうですね。すまないことを言いました」
ラーズガインはすっかり協力する気満々であるらしく、「これを使えよ」となにかの助けになる物を手渡している始末だ。
(うーん、これは……)
まずいことになったとベリーは子供ながらに焦りだした。
現在グリフォンブラッド家の中で、人間社会に侵入出来ているのは人間のシグルと、竜化のザラスだけだ。
というのも、人外種は人とは瞳孔の形状がはっきりと異なるので、すぐにそうと看破されてしまうからだ。ザラスは能力でそれをクリアしているが、他の者には少々ハードルが高い。
傍で人外種がうろつけば、シグルは間違いなく困るだろう。ベリーにもそのくらいのことはわかる。
止めないと――
「がうがう!」
こちらに背中を向け、なにやら準備を始めたヘレナに声を荒げる。
――が、振り向いた彼女を見て、ベリーは吠えるのをやめた。
「あなたも行く……? ベリー」
そう言って妖艶に微笑むその姿は、見るからに怪しい。
でも……、そう、たしかに、魔物には見えない気がした。