⑧
夏休み、それ以上のことは何もないまま、いつものように時間は過ぎた。
誰も那智に何も聞かなかった。那智の答えを待っているのだ。
那智は普段聞き分けの良い優等生の様だったが……その実子供で、頑固で、自分から言い出したことは譲らなかった。
そういうとき周囲は、彼女が冷静になるのを待った。納得がいくまで考えさせ、俯瞰で捉えられる様になるのを。
普段は自己主張が強い訳ではないから、皆彼女がなにかを主張するときだけはそうしてあげていた。那智は頭の悪い子ではないから、必ずそれなりの時間にそれなりの答えを出してきた。
だが今回、那智はなにひとつ答えを出すことができないまま、無為に時を過ごした。
表向きはいつもと変わらないまま。
気付けは夏休みは終わっていた。
「大庭……ちょっと」
放課後、相良に呼び出された。
理由はわかっていた。進路希望調査書の事である。
「……調査、とか言ってる月でもないがまぁ、毎年数人いるよ。 なかなか難しい事だからな、人によっては」
「私……だけですか? 出してないの」
「…………このクラスでは、ね」
その質問の意図するところを相良はすぐ理解した。──くじらのこと。
「那智、君の進路を決めるのは、君自身だ」
那智も相良の言わんとすることをすぐ理解した。ただ、そんなの那智にだってわかっている。
「名前で呼ぶの、やめてください」
「はいはい、すみませんねぇ。 で、どうすんの」
「……来週迄には出します」
「あぁ、そうしてくれ」
勿論卒業しても何も決まらない者は毎年一定数いる。極端な話をすれば進路希望調査書など、いい加減に適当な事を書いてもいいのだ……それがそれらしければ。
「那智。 俺の口からは言えないが、聞かないの? 本人に」
くじらはきっと、いい加減なことは書いて出したりしない。
「……名前で呼ぶのやめてください」
那智は相良の質問には答えずに教室を出た。
くじらとも石戸とも特になにも変わらなかった。
那智は相変わらず土日は『くじら』で働いていたし、ママもマスターも特になにも聞かない。まるであの時の話は無かったかのようになっている。
なにもかもがそんな感じだが、それでも着実に時間の経過は生活を少しずつ変えていた。石戸は受験勉強が忙しい様だし、周囲も何かとワサワサしていた。
ある時那智は石戸がクラスの女子に告白されているのに偶然でくわしてしまった。石戸は受験を理由に断っていたが、なんだかきまずかった。
「ごめん……見るつもりじゃなかったんだけど」
「まぁ、うん……仕方ないよね。 内緒にしといて」
「……言わないよ」
少しの沈黙のあと、石戸は那智に尋ねた。
「受験、終わったら……水族館行かない?」
那智には石戸の気持ちはわからない。
だけど、もう那智は自分の気持ちを理解していた。
「……行かない」
「なんとなく、そう言うと思った」
「なにそれ?」
「俺、大庭が好きだから」
何か吹っ切れた様に石戸は言った。
「でもきっと……誰かと付き合ったり、そういう感じになるんだろうなと思って。 この先……」
本当はだからこそ、曖昧にしておきたかった。たまに戻ってきたとき、戻りたくなったときの為に。
那智、と呼ぶくじらが羨ましかったこと。
そう思ってたから、ずっと名字で呼んでいたこと。
進学を勧めていたけれど、その一方で、進学なんてしなくていいと思ってたこと。
少し歪な那智への気持ちは、そのまま蓋をして一緒に持っていく筈のモノだった。だが……逃げ場にするのが急に嫌になった。なんだか大切なものを汚してしまう気がして。
「……ここでの思い出に、付き合ってくれる?」
明らかにふざけた感じで石戸は言った。
いいよ、と言ってやろうかと那智が一瞬思う程。
「それ……結構酷いよね?」
「いいでしょ、どうせ……どうなるわけでもないし……」
「……嫌だよ」
石戸は「知ってる」と言って笑っていた。
──冬、石戸は希望の大学に合格した。
東京にある、それなりに有名な大学だ。
春には彼はここにはいない。
那智は色々考えた末、『くじら』でバイトを続けながら調理師の専門学校に通う事にした。
くじらがなにになるかは方々から聞こえてきたが、結局直接くじらからそれを聞くことはせず……くじらもまた、話さなかった。
那智はくじらとふたりになるのを避けていた。
──余計な事を言ってしまいそうだったから。